六月の四週目

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六月の四週目

 水曜日にきいた話だ。  この話をしてくれたのは、とあるバーのマスターだった。  詳細は伏せることを条件に、文字として書き起こし公開する許可を取っている。  というわけで、この文章内に出てくる固有名詞はすべて仮のものとし、具体的な表現についても少々フェイクを混ぜ込んでいる、という旨を先にお断りしておく。  その日、水曜定休の僕は暇を持て余して散歩をしていた。特に予定のない大人がふらふらとその辺を歩くという行為は、散歩と言えば健康的に聞こえなくもないが、まあ、徘徊に近い行為だ。  どういう経路で、どういう経緯でその店を見つけ、入店し、カウンターで怪談をきくことになったのか。その辺の事情はとりあえずショートカットする。とりあえずその店のマスターは、息をするように怪談を話し出す変人だということだけ、まずは理解していただけたら幸いだ。  水曜定休の僕が見つけたバーは、おやつ時だと言うのにじっとりと冷たく、陰気な梅雨からの逃避にはまったく不向きだった。 「そこの公園の隣に、少し古いアパートがありますよね?」  ありますよね? と言われても、実はこのあたりに足を延ばすことが少ない僕は、はあ、そういえばそうですね、などというあいまいな相槌を返すことしかできない。  そういえばあったかもしれない。妙に小さな空き地のようなものがあったような無かったような……あれは公園と呼べるような空間だっただろうか。帰りに確認する事にして、とりあえず僕は話の続きを待った。 「木造二階建てのよくある、というか、よくあったタイプの古いアパートです。あのアパートの二階の奥から二番目の部屋には、夜中に何かが訪ねてくるんだそうです」 「それは、ええと、幽霊的な何かが、ってことですよね?」 「まあ、怪談ですからね。夜中に家人や友人が訪ねてくるんですという話じゃ、怖くはないですから」  いや十分に怖いけれど。なんなら僕としては、人間の方が怖いと思う。  幽霊に殺されたという話はあまり聞かないが、近所のいかれた人間に危害を与えられたという痛ましいニュースは、近年妙に増えている。  と思ったが話の腰を折るのもいかがなものかと思い、確かにそうですねという顔をしてさらっと頷いておいた。 「この近さですからね。アパートにお住いの方も時折ご来店されました。その中で特に印象に残っている方がいます。松尾さんという、四十代の女性でした。一人暮らしの彼女は、件の二階の奥から二番目の部屋の住人でした。何かが訪ねてくる、という話を聞きかじっていた私は、これ幸いと松尾さんに詳細を尋ねました」 「……強いですね、ほんと」 「好物なので、怪談。公言していますし、松尾さんも水曜日のお客さんでしたし、いいかなと思いまして」 「はぁ。それで、その松尾さんという方は、なんて?」 「やはり夜、訪ねてくる、という話でしたよ」  松尾氏いわく、ソレは夜中の三時過ぎにふっと目が覚めた時に必ず来るのだ、という。  特に早く寝たわけでもないのに、なんとなく夜が明ける手前に目が覚めるときがある。そういうときには、必ずと言っていいほど、玄関先にソレが来る。  まず、外の階段を上がる音がする。ボロアパートとはいえ、鉄筋の階段はきちんとした作りで、普通に歩くだけではそれほど耳障りな騒音が出たりはしない。  それなのに、ソレは全身全霊で鉄板を蹴るように、ガンガンガンガン! とひどい音をたてて駆け上がってくる、というのだ。  猛ダッシュをしているとしか思えない速さで階段を勢いよく駆け上がり、松尾さんの部屋の前に来るとぴたりと止まる。  それからゆっくりと、ドアチャイムを鳴らす。  ぴん、ぽおおおおおん。と、ゆっくり、三回程慣らす。  松尾さんは暗闇の中でジッと息を殺し、ソレの気配が消えるのを待つ。そのうちに寝てしまうらしく、いつも気が付けば朝になっているということだ。 「わたしはほら、この性格ですからね。思わず飛びつく程喜んでぜひともその怪現象を体験したいと迫ったのですが、どうも松尾さんはお付き合いしている男性がいたらしく、知人程度の男を部屋に上げるわけには、ととても渋っておりました。まあ、それはそうでしょうね。怪しいですしねぇ、わたし」 「あ。怪しい自覚はあるんすね」 「ありますよぉ。こんななりですし。普通に怪しい。ユーチューバーだとかネットで活動してます、みたいな身なりでしょ?」 「いや銀髪なのが悪いだけで、あとはまあ、普通だと思いますけど……まあちょっと顔は怖いっすけど」 「あはは。素直ですねぇ嫌いじゃないです。ま、とにかくそういうわけでやんわりどころか相当きっぱり迷惑がられてしまったわけです。惜しい事をしました。その時はね、一軒家というわけでもないし松尾さんもお付き合いしている男性がいるのだから、そのうちご結婚して引っ越すかもしれないし、次の住人の方がうちの常連になるかもなんて、思ってたんですよねぇ」 「……その言い方、不穏ですね」 「いやぁ、なくなっちゃったんですよ、ソレが来る部屋」 「…………は?」 「正確には、ソレが来なくなってしまった、というか」 「すいません、マスター。わかりにくいです」 「あ、これは失礼しました。ええと、では順番にご説明しましょう。まず――」  彼の話をまとめ、やっと僕はあのアパートの怪異の顛末を理解した。  結論からいうと、松尾さんは引っ越しをした。  晴れてお付き合いしていた男性と結婚し、新居である一軒家に引っ越したのだという。家は男性の元妻の持ち家であった。  松尾さんと交際相手の男性は、不倫関係にあったというのだ。離婚協議の結果家は男性が勝ち取った……わけでは、ない。  彼の元妻は、首を吊って自殺したというのだ。 「奥さんの実家の両親はすでに他界していて、親戚も遠縁しか残っていなかったそうです。いらない家だからもらってもいいでしょ、と松尾さんは笑っていました」 「……会ったんですか? 引っ越した後、ご本人に」 「ええ、水曜日にいらしたので。ですからわたし、ああ、終わってないんだなぁと思ったんですよ。水曜日の当店は、怪談をきく、そして話す場です。彼女は怖い話に興味があるようにも見えなかった。だからわたし、終わってないんですねぇ、と言った」  松尾さんは控えめに、照れくさそうに微笑んで、ええまあ、どうやらついてきてしまったようで……と言った、そうだ。  僕は実際にこの松尾さんとやらに会ったことはない。すべてマスターからきいただけの話だし、極論すべてが作り話である可能性すらある。  友達の友達の話なんだけど――。そういう顔の見えない人間の話は、たいていは実在しない。フレンド・オブ・フレンドというやつだ。都市伝説の常套句。  それでもこの時の僕は、どうしてかその松尾さんの顔が妙にリアルに想像できた。  少し小太りで、瞼がはれぼったい。頬肉が多いせいで、口の端が少し下がり気味に見えてしまう。雑にまとめた髪は汚いわけではない。それでも清潔で小ぎれいにも見えない。どこにでもいそうで、それなのに一度見たら少しだけ不快になるような中年女性。  なんでこんなに明確に思い浮かぶのだろう。そう不思議に思っている僕の向かいで、ビールの栓を抜きながらマスターが笑う。 「引っ越しを終えた三日後、松尾さんはふっと夜中目を覚ましたそうです。住居と同時に、職場も変わったという話でした。環境の変化で疲れているのに、覚めてしまった意識ははっきりとしていて、目を閉じてもうまく眠気がやってこない。ああこれはまいった――と思っていると、ソレが走って来た音がした。  家の中の階段を、ガンガンガンガン! と上がって来た」 「…………え? 家の中、ですか?」 「はい、家の中です。ガンガンガンガンと例の叩きつけるような音を立てて、上がってくる。そして寝室の扉の前でぴたり、と止まると、太い男の声でこう言った」  ぴんぽおおおおおおおおおおん。  ぴんぽおおおおおおおおおおん。  ぴんぽおおおおおおおおおおん。 「松尾さんは枕を抱えて、一人で震えていたそうです。そのうちにまた朝が来て、どうにか恐怖を飲み込みながら新しい職場に出社し、くたくたになって帰ってきて家事をこなして寝る。すると翌日もソレはガンガン音を立てて階段を登ってくる。扉の前で低い声でぴんぽおおおおおおんと叫ぶ。この、繰り返しが一週間続き、ついに不眠症になり、身体を壊して入院してしまったそうです」 「え、ちょっと、待って、ください。……おかしくないですか?」 「さて、おかしいところとは……わたしの言葉が足りませんでしたか?」 「だって、旦那さんはどうしたんですか。結婚して、旦那さんの家に引っ越したんでしょう? あ、いや……こういう話の時って、連れを起こそうとしても起きなかったとかそういう、アレですか?」 「いえ、松尾さんは旦那さんを起こそうとはしていません。一緒に寝ていませんでしたから」 「ああ……まあ、そうか、別室ってことも……」 「旦那さん、引っ越しの日に首を吊って亡くなったそうです」 「………………ん?」 「あはは。いい反応しますねぇ、本当に。聞き手としての才能がありますよ、ぜひとも毎週来ていただきたい」  朗らかにさらりと笑う。さっぱりとしたシーツのような爽やかさが、今は酷く気持ち悪い。 「ただ、松尾さんは疲れた顔で嬉しそうに笑ってましたよ。よくよく考えたら、あの家に落ちていた髪の毛の中には、彼の髪の毛も混じっていたかもしれないですよねぇ、あたしったら、きっとうっかり一緒に食べちゃったんだわ、って」  食べた。その一言が、これほど不気味だったことはない。  つまりこれはどういうことだ。……つまりこれは、どういう話だ。家に来る怪異の話なのか。身近な人間の連続自殺の話なのか。女が他人を呪った話なのか。 「……理解が、及びません。どれをどう、解釈したらいいんです?」 「しなくていいんじゃないでしょうかね。怪談なんて、意味が分からないくらいの方が楽しいものですよ」 「すっきりしない……」 「もやもやとした気持ちを楽しむのも、また怪談です」 「……すっきりしないんでお手洗い借ります……」 「どうぞ、右手の奥ですよ。ああ、そういえば軽乃さん、居たら、一度閉じてくださいね」  ……居たら、というのは何の話だ。何が主語だ。  薄々気が付いていたが、このマスターは人が悪い。わざとなのか天然なのか、やたらと主語が抜けている。僕的にはわざとなのだろうと思う。狐のような顔が、にこにこと笑っているからだ。  レストルームの扉に手をかけて、やたらと重い扉を引いて、そして僕は一秒後に、中には入らず扉を閉めた。  一度閉じてくださいね、と言ったマスターのにこやかな顔が思い浮かんで殴りてえなぁと思った。あの男は、やはりただ、性格が悪いだけなのだろう。  トイレの中には、小太りの女が立っていた。  生身の人間ではないということはなんとなくわかる。色が黒すぎるし、だらりと下がった舌も長すぎる。虚ろな目をした女は舌を垂らしながらにたにたと笑い、なにかしらの液体で濡れたスカートを腰までたくし上げていた。  うわぁ。  反射で扉を閉めてから、もう一度ノブに手を開けるつもりにもなれず、すごすごと席に帰る。 「あれ、トイレはいいんですか? 居ましたか? 一度閉じたら次は大丈夫ですよ? たぶん」 「今後この店で尿意を催したら即帰る事にします。つーか松尾さん死んでんじゃん」 「おや、よく彼女だとわかりましたね。いやぁ、どうでしょう死んでるんでしょうかねーほら、生霊とかそういうのもあるでしょう? 生憎とわたし、怖い話は好きですが霊能力はないもので、アレが生霊なのか死霊なのか、何が楽しくてトイレで下半身露出をしているのか、よくわからないのですけれどねぇ」  ほとほと困った、というように首を傾げる。その顔は『トイレにゴキブリが出て困るんだよねぇ』と頬に手を当てる主婦のようで、やっぱりこの人は少しどころかかなりおかしいんだろうと改めて実感した。ゴキブリも嫌だが、幽霊のようなものと同列に語る人間は、残念ながらこのマスターしか見た事がない。  なんでこんな店に入ってしまったのだろう。  水曜の真昼間からやっているバーなんて珍しい……そう思って覗いただけなのに、そうだ、中にいた中年女性と目が合って、彼女に手招きされてつい――。  ……思い返せばそれは、先ほどトイレの中に立っていた女性と、同じ顔をしていたような気がしないでもない。 「しかし今日はよい出会いをしました。こんな素敵な聞き手がご近所に住んでいたなんて、奇跡ですね。怖い話が好きだと言うと、虫か何かのような目で見られることもありますからね、ふふふ」 「まあ、嫌いじゃないです、けど。もう来ませんよ」 「えーなんてひどい事を。来てください。待ってますよ、水曜日は素敵な常連様向けに特別に店を開けているんですから。まだまだ怖い話のストックはありますよ。ぜひ聞いてください。地元由来の話もたくさんご用意しています。軽乃さん、どこらへんにお住みでしたか? なんなら、ご近所の怪談を優先的に――」 「いや、聞きたくないっす。つかトイレ行ってきます」 「トイレは右手の奥ですよ?」 「外のコンビニに行ってきます」  飲んでる途中に外に出る客ってどうなんだと思うが、背に腹はかえられない。あのトイレにはしばらく行きたくない。  財布と携帯だけ持って店を出て、つい、公園に視線を向けてしまう。  何の変哲もない……というか、ベンチと花壇しかない『公園か?』といった風勢の空き地だ。公園と言われたらそう見えるし、広場と言われたらそう見えるし、売地と言われたらそう見える。  その奥に、確かに二階建てのアパートらしきものが見える。  見ないように。確認しないように。そう思いながらも視線は二階の端から二番目の部屋に向いてしまう。  件の部屋の窓は、外からベニヤ板で封鎖されていた。  ……松尾さんが、怪異を持って行ってしまったのではないのだろうか。階段を駆け上がってチャイムを三回鳴らす何かは、まだそこに居るのだろうか。そう思って隣の家に視線を逸らして、思わずゾッとする。  二階の端の窓が、ベニヤ板で封鎖されている。  あわてて、周囲の家を確認する。別に普通の住宅街だ。変なところはない。そのはずなのに、五軒に一軒程度の割合で、ベニヤ板が見える。  ……冬囲いの季節でもない。台風が来ると言うニュースもない。じゃあ、あれは、何から身を守っているのだろう。 「…………来週は、別の方向に散歩にいこ」  もう、来ない。このあたりにも、この店にも。  そう決意するものの、結局僕は水曜日、あの怪しいマスターの話を聞く羽目になる。  ただ聞き役として消費されるのもしゃくだ、と思った。さらに言えば、マスターとその周辺の人間の話はそれなりに面白い。それなのに今のところ大々的に発表する気はないと言うので、それなら僕がweb媒体に掲載したいと申し出た。  怪しいマスターは快くそれを認めてくれたわけだが、冒頭にも添えた通り、相当な改変を加えてある。名前、性別、外見等、怖い話に必要ではない情報はほとんど仮のものであると明記しておく。  さらにもう一つ、余談だが。 「怪談を掲載するのは構いませんけど、改変をするならばいっそ作り話だと明記されたほうがいいかと」 「……ノンフィクションじゃなく、フィクションです、という風にしろということ?」 「そうですね。これは持論なんですが、怪談を改変するのは、良くないと思うんですよ。わたしは好きで実話怪談も読みます。その作者はね、驚くほど同じことを言います。曰く、怪談の取材がとにかく大変だ、と。わたしね、これ、不思議に思ったんです。実話を集めるのがそんなに大変なら、作ってしまえばいいのに、と」 「ああ。まあ、わからんでもないです、けど」 「ね? でも、みなさんそうしない。飲みに歩いて、人伝いに紹介してもらって、ひいこら言いながら実話の怪談を収集して、それを書いているんです。ということはね、わたしは思うんですけどね……『作ったら、まずい』んじゃないでしょうかね」  作ったら、まずい。  創作した怪談を、実話ですよと言ったら、まずいのではないか。  つまり、マスターはこう言っているわけだ。 「何があるかはわかりません。けれど、実話だと言って虚偽の怪談を出すのは、よろしくないことなのでしょう。ですからそうですねぇ……少し変える、としても、そのルールは守るべきではないか、と」 「わかりました。じゃあ、注意書きを……」 「ええ、お願いいたします。『このおはなしはつくりばなしです』とでも、添えておけば問題ないでしょう。……たぶん、ね」  じっとりとした店内でいやに爽やかに笑う。  さて、これはとある六月の末週にあるバーのマスターからきいた話だが、念のためもう一度。  このおはなしはつくりばなしです。 /六月の四週目・終
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