後編

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後編

悶々としていたその日、いきなり隣の部屋からガタガタと物音が聞こえてきた。一体何の音だ。俺は深くため息をつき、ある種の覚悟を決めた。隣の部屋の様子を探ることにしたのだ。  俺は壁にガラスコップを当てて、黄色の部屋の物音を聞くことにした。ストーカーみたいだが、致し方あるまい。  十五分ぐらい経っただろうか。もういい加減疲れたと思っていたら、コツッ、という音がした。俺は急いで姿勢を正した。正念場である。  グラスから響いてきた音は予想より大きい。壁にグラスを当てて、本当に向こう側が聞けるのかは甚だ怪しかったが、意外と聞こえる。俺はさらに神経を集中させる。  それにしても、何の音だ。以前聞いたことがある。近い過去、例えば今日。どこだ。どこで聞いた。俺は一度壁から耳を離し、肩を揉んだ。じっとして動かない、というのは案外疲れるものだ。俺はもう一度気を取りなおして、壁にグラスを当てた。静かに当てたと思ったが、何の物音もしない部屋では、そのコツッという音すら耳につく。  ・・・・・・。  コツッ?  この音か!  なんてこった。先ほど聞こえてきた音は、壁にガラスコップを当てた時の音なのだ。  ひょっとして黄色も俺の部屋の物音を聞こうとしているのか。いるはずなのに何の物音もしないのは、黄色も身動き一つとらずに壁に押し当てたグラスに耳をひっつけているからか。  こうなるともう勝負だ。俺は息を殺して神経を集中させる。おそらく壁の向こう側でも同じことが行われているに違いない。俺と黄色は壁を挟んで対峙する。グラス片手にもやし学生とおっさんが壁に張り付いている画は、とても見られるものではないかもしれないが、これでもふたりは真剣である。  「出て来いこのやろう」  シミュレーションをしている時、俺は口数が多くなる。ひとりでペラペラ話しているものだから気持ち悪いかもしれないが、シミュレーションに大切なのはリアリティだ。  俺も張り込み中の刑事になり、任務を遂行する。横に住んでいるのは悪ではなくレンジャーだが、俺は心の中にいる相棒に声をかける。  「よう、動きはどうだ?」  相棒は言う。  「じっとしてやがる。そう焦るな。ちょっとでも動きをみせたら・・・」  俺が返す。  「ふん、俺がこの手で、ってか」  あくまでシミュレーションだから、一人二役である。  その時、隣の部屋でコトッっという微かな物音が聞こえた。さっきの音と似ているが微妙に違う。さらに、何かガタガタという音が聞こえてきた。いくらグラスを使っているといっても、こんなに隣の物音が聞こえるのは問題だと思う。いや、今はそれどこじゃない。俺は、いったん呼吸を整えてもう一度隣の部屋の音を聞こうとした瞬間、インターフォンの音が鳴り響いた。俺はゆっくりとドアに視線を向けた。やって来たのはおそらく・・・・・・。  ゆっくりとドアを開けると、そこにやはり黄色が、否、マイクロレンジャー・イエローが立っていた。まさかこの格好で来るとは。全身をエグイぐらいの黄色で包み、左手を腰にあて、右手の人差し指を顔の付近に掲げる、決めポーズを取っている。しかしよく見ると、その人差し指がプルプルと震えている。ものすごく緊張しているのだろう。いくら顔を隠していても、ヒーロー戦隊のコスプレをして隣人の家に乗り込むのだ。ちょっとどころの勇気と勢いで出来ることではない。日常をぶっ壊す心意気と、もしもの場合は本当にぶっ壊れる覚悟がないと、とてもじゃないけど出来ない。  黄色は震える指を俺に向けた。  「悪に代わって、あ、違う!」  一番大事な決めゼリフを噛んだ。違ったこともアピールした。悪と戦うことを意識しすぎたんだろう、ちょっとした勇み足なのだろうが、そこを間違ってはレンジャーとしての在り方、存在価値そのものが変わってきてしまう。  気を取り直してほしかったが、本日ヒーロー・デビューを迎えた黄色にそれほどの余裕はないらしく、視覚的にもなんだか妙に縮んだ気がした。  「あ、あのですね・・・・・・」  しどろもどろである。ここで変に絡んではいけない。俺は悪ではないが、正義の口上は最後まで聞くのが礼儀である。目をそらせては男がすたる。  しかし、黄色は何を勘違いしたのか、一歩下がって更にしどろもどろし始める。  「あ、あの、よくないと、思うんですね」  口上は諦めたようで、訳の分からないことを言いだした。いや、何がしか誤解されているのは自覚しているが、その何がしかが何か分からない限り、その意味が理解できない。だが、黄色は説明をとことん省いている。とりあえず、何かに対してよくないと感じているらしい。  「いや、何を言ってるのか、分からないんだけど」  悪いが口を挟ませていただいた。待っていてはキリがない。  黄色、否、マイクロレンジャーは大きく深呼吸すると、腹を決めたらしく、言った。  「僕は、いや、私は正義のヒーローです、ヒーローだ。この度は悪を滅ぼし、正義を体現する為参上仕った。君の部屋で行われているであろう悪行を、私の心が見逃す訳にはいかない!」  言っている途中で気分が乗ったか、後半部分は実に堂々とした口上だった。多少早口だったが合格だ。が、何のことだ。  俺の部屋。行われている。悪行。・・・・・・行われている?  ひょっとして・・・・・・。俺の頭がシミュレーションスタイルでフル回転しはじめる。  そういえば、ソファにダイブして頭を打ったことがあった。俺的にはちょっとしたハプニングだったが、黄色にとっては事件だった。びっくりしてそっと耳をすますと、隣の部屋からヒソヒソと声が聞こえてくる。しかし、俺も大声を出している訳ではないから、声がするということ以外は何も分からない。そこで黄色は漫画でよくある手を思い出した。キッチンにあったグラスを壁に当てた瞬間、「俺から逃げられるかな?」という恐ろしいセリフが聞こえてきた。  普段は陰気な学生でも、その心はレンジャーである。隣の部屋から聞こえてきた大きな音と、誰かを襲おうとする恐ろしい声。黄色は正義に燃えた。とんだ勘違いではあるが、義憤に駆られた。だが、部屋を飛び出す勇気はなかった。  証拠を掴む為か、ただ乗り込むのが怖かったのか。とにかく黄色は事実確認から始めたのだろう。壁にコップを当て、様子を探った。ここまでシミュレートして少し腹も立ったが、俺も同じことをしたので文句は言えまい。  その後も俺の部屋の音をグラスで聞き続けてきた。しかし、聞こえてくるのは愛を囁く言葉だけ、広がる空間はラブ・アンド・ピース。黄色は安心していたが、今日、いつもとは違うセリフが聞こえてきた。  「ちょっとでも動きをみせたら」「この手で」  それを聞いた黄色はついに決心した。隣の部屋では小さな子供が監禁され、怖い事が行われているに違いない。ここで動かねば正義ではない。腹をくくって変身し、悪の巣窟に乗り込んだ。そんなところだろう。  立派な口上を述べた黄色だったが、その後が続かない。俺と黄色はそのまま見つめ合う形になった。俺はシミュレーションによって事情を把握しているから問題ないが、黄色は戸惑ってしまったのだろう。彼の予想では俺がここで正体を現すはずなのだろうが、残念なことに俺は悪ではないのだ。ちょいワルですらない。正体を現したとしても、三十歳のしなびたサラリーマンしか出てこない。  部屋の中まで乗り込む勇気はまだないようで、マイクロレンジャーのポーズを保ったまま静止している。  「し、尻尾を現したな!」  黄色は、いろいろ端折って無理やり軌道修正し、自分の予想通りに進めようとしやがった。そうはさせるか。俺のシミュレーションでは、俺は尻尾を出さない。出す尻尾もない。  燃えあがっていた心は長い沈黙で少し覚めてしまったらしく、黄色はちょっとたじろいだ。俺は何も言っていないが、何かに気圧されて一歩下がった。ここで勇気を見せられたら、黄色は何かを卒業できるのだが。  「き、君が罪のない子供を浚い、部屋に閉じ込めているのは、分かっている!」  卒業おめでとう。  「い、今すぐ、開放するんだ!」  でも成績はCマイナスだ。  こうしていても何も始まらないので、俺は仕方なく黄色を部屋に入れることにした。人の部屋に入りなれていないのか、丁寧なのか分からないが、悪の基地に乗り込むヒーローのくせに「おじゃまします」と呟いた。  部屋を見渡した黄色の頭の上に「?」が三つほど浮かんだ。いるはずの子どもも、怖いことが行われていた形跡もない。  「あの、どういうことでしょうか」  黄色が戸惑いながら聞いてきた。でも本来なら、それはたぶん俺のセリフだ。  どうもこうもない。単に隣は悪の組織ではなく、愛情溢れるサラリーマンだったというだけの話だ。多少独り言が過ぎたのは事実かもしれないが、お茶目の範囲内だろう。  「御覧の通り、捕われた子供なんかいない」  黄色は不思議そうに俺の顔を見た。頭の上の「?」がひとつ増えている。  「子供?」  「ああ。君はここに子供が捕らわれていると思って乗り込んできたんだろう?」  「いえ、あの、違うんですけど、すいませんでした」  自分があらぬ疑いをかけられたことよりも、一番大事な所でシミュレーションが崩れたことがショックだった。小さい頃見たレンジャーが助けていたのはいつも子供たちだ。違うとは何事か。  言い淀む黄色を、俺は問い詰めた。最初から半落ちだった黄色は、すぐに完落ちとなった。俺がそれほど怒っていないことを悟った黄色は、恐る恐る告白した。  「あの、以前あなたの部屋から大きな音が聞こえて、何か事件かと思いまして」  その後の展開も俺のシミュレーション通りだ。では何を否定するのか。  「あなたが部屋に、女性を監禁しているのか勘違いしてしまい・・・・・・」  なんと、黄色はレンジャーのくせに、想像していた事件だけはやたらとリアルで卑猥なものだった。どうやら俺が子供を攫って改造するのではなく、女性を攫って悪さをしていると思ったのだ。なんたる侮辱。シミュレーション上の運命の人にも撃退されている俺が、どうして現実の女性に悪さなどできようか。  背中を丸めてすごすごと去っていくレンジャーは、かつてないほど格好悪かった。正体がバレないようにか、俺が部屋に戻るのを見届けるまで廊下にじっと立っていた。だが、俺が部屋に入った瞬間、隣からドアを開閉する音が聞こえてきて、あれでは事情を知らない人間でもレンジャーは隣人だと気づくだろう。迂闊なことこの上ない。  思えば隣人に興味がなかった俺は、隣にレンジャーがいるなどと想像したこともなかったし、まさかそのレンジャーに悪者だと思われているとも想像していなかった。だが、この数日間、不思議な隣人との駆け引きはなかなか楽しいものだった。些細なこととはいえ、繰り返しの日常に刺激を与えることができた。近隣住民との関係が希薄な現代では、きっと大切なことに違いない。  黄色とは、隣人として挨拶するようになった。最初はぎこちなかった挨拶も、最近は一言二言言葉を交わすようになった。  言葉を交わすようになって二週間ほど。簡単ながら会話もするようになったそんな折、黄色が俺の部屋を訪ねてきた。  「相談があるんですけど」  黄色の顔が近付く。いつものおどおどした表情ではなく、目は凛とした光を湛えている。だが、頼もしさよりも危うさを孕んでいる。  「家舗さんなんですけどね」  大家の名前を口にした。  「ここ数日監視していたんですが、本当は悪の組織の幹部じゃないかと思うんですよ」  えらく突飛なことを言う。家舗さんはただの噂好きのおばさんだ。俺は呆れたが、あるものが俺の視界に入った。手に掲げた袋から、黄色のスーツ以外に青い布が見えるのだ。まさか、俺に青レンジャーになれとでもいうのか。黄色の目を見ると、黙ってコクリと頷いた。俺にできることは、ため息をつくことだけだった。 了
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