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長時間の残業が日常的ではない糸は、夜に休憩コーナーに来ることはない。
はめ殺しの窓からは、乱立する無数のビル窓の明かりが見渡せる。
しかし、無機質なオフィスカーペットと真っ白な昼光色のオフィス照明のもとにあっては、景色も全くロマンチックだとは思わない。
糸の前のベンチに座る堂道は、手の中のコーヒーを見つめたまま言った。
「……荷物。昨日、何で置いたまま行った?」
「持って帰りたくなかったからです」
堂道はパンツのポケットに手を突っ込んで、小さな輪っかを取り出した。
まるで、飲み物を買うのに足りない小銭を探すくらいの気安さで。
「……あ。え、中身!? 信じられない。そのままそんなとこに入れてたんですか? こんな高価なものを……」
「なんかいろいろ考えてたら、頭ごちゃごちゃしてきて今後どんなタイミングがあるかもわかんねーじゃん。だから、とりあえず持ち歩いてたんだよ。あんな箱に入れたまんまじゃ、かさばるだろうが」
「だからって、こんな……。落としたり、なくしたらどうするんですか。危ないなぁ……」
「ってか、お前こそなんだよ。あのメッセージ。『次長が、課長でも部長でも代理でもなくなったら』って。それ俺、無職じゃん。定年後ってことかよ。いつの話だよ」
糸が、白紙に書き殴った文言だ。
書いた糸にも真意はわからない。思いついたまま書いただけだ。
「さすがにまあ、そんなに長くは待てないと思いましたけど、実際、池手内課長のことがどうなるかわからなかったし。その頃になったら、次長の仕事的な障害もなくなるし、ちょっとした願掛けっていうか、ちょっとした謎かけっていうか」
「全く可愛げのないメッセージだよ。ごめんなさいとか、お願い、許してとか……さぁ」
「許してって何ですか、それ」
糸が笑うと、堂道も少し笑った。
「私はどうしても次長を守りたかったけど、やっぱりどこかで助けてほしかったのかもしれません」
堂道は大きく足を開いたまま、前屈みになり、腕を伸ばした。
コップに添えていた糸の左手を自分の方に引っぱって、そこにおもむろに指輪をはめる。
「お前のことは信じてるよ。でも、それとは別で、お前との未来にまでは、なかなかあぐらはかけねえ。たぶん、一生、俺はお前の気持ちにビビりながら生きていく。毎朝、今日も糸は俺のことが好きなんだろうかって思いながら目を覚ます。でも、そんなスリルも、お前が若いんだから、しゃーねーな」
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