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堂道が荷物を取ってくると言ったので、その間に糸は化粧室に向かって、口紅を取った。
鏡に、さっき突然に輝き始めた自分の薬指が映っている。
しげしげと眺めているうちに、だんだんと涙が滲んできた。
慌てて目尻をぬぐう。
全くロマンチックじゃないプロポーズのシチュエーションに、泣いてやるなんてばからしい。そう思いながら。
二人で、社屋ビルを出る。
さっき資料室であった堂道裁きなど知られる由もなく、普段どおりに夜の街には仕事帰りの人々が行き交っている。
「しかし、わからんもんかね。いくら羽切がゴツくねえっつっても、女とは骨とか肉とか全然違うだろ。胸、わっしゃわっしゃ揉んでたけどよー。んなもん、全然違うのに」
「本物、揉んでみます?」
堂道が返事をしないで、糸を見下ろした。
そのまま数歩、黙ったまま、見つめあったままで歩き、
「じゃあ、行くぞ」
「どこにですか?」
「その辺の。もう、どこでもいいだろ」
「……ついに場末のラブホかぁ。釣られた魚にもはや文句は言えまい」
プロポーズのその日に、と思わないでもない。
しかし、
「文句あんのか。今は質よりスピード勝負だ」
とうとう、堂道は糸の手を取った。
「いますぐ抱きたいんだよ」
憎らしいのは口だけだ。
ロマンチックでなくても、感動的でなくても、王子様みたいではなくても。
堂道が堂道であるだけでそれだけで、糸はもう十分だ。
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