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新幹線の車内で、糸は落ち着かなかった。
空腹ではなかったが、売店で買った天むすの包装紙を開く。
最近、新幹線に乗るときは必ず天むすを買うようになった。
堂道がいつも食べるのを見て、糸も食べてみたらおいしかった。
天むすが好きで、出張の密かな楽しみがそれであると知ったのは、堂道が転勤し、新幹線に乗る機会が増えたからだ。
スマホで時間を確認する。今から行けばちょうどいい時刻に着きそうだ。
どきどきする。
サプライズで会いに行くのは初めてではない。
むしろ初めて行った時もサプライズに近かった。
転勤先の住まいを、糸は教えてもらえなかった。
二年前、転勤を機に二人は別れたことになっている。
『ことになっている』というのは、対外的な偽装とかいう凝ったことではない。単に糸が破局を認めていないだけで、「別れる」と言った堂道に、糸が往生際悪く交際の継続を主張しているだけのこと。
「別れる」「別れません」を繰り返すだけで、結論は平行線だった。
「とりあえず引っ越し先教えてください」
堂道は「彼女でもないのに教えるか」と言った。
「お米とかお野菜とか送りたいんで」
「田舎の母ちゃんかよ」
そして、大きなため息をつき、
「教えたらお前来るじゃん」
「ええ、行くために聞いてます」
「相変わらず素直でいいねぇ。しかし、教えられません」
結局、本当に教えてもらえないまま、旅立った。堂道は頑固だ。糸も大概だが。
会社持ちであろう住居について人事や総務にも探りを入れてみたが、当然教えてもらえなかった。
堂道は処分上、ひっそりと東京を後にしたが、予想外になかなかに惜しまれながらだったことは『茂部田ショック』の数少ない収穫だった。もちろん一部の人間にだったが。
その一部の人間の代表である羽切も、新参者の当馬も榮倉も住所は知らされておらず、確かにこのご時世、普段から住所を知らせるような慣習はもはやなくなっている。
それで、糸は行ったのだ。
場所を知らないまま、教えてもらえないまま、飛び込みでアポなしサプライズの突撃をした。堂道の転勤先の支社のある地方都市へ。
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