エピソード6

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今日は三者面談の日だった。 母親が出席することになっていて、午後14時からの予定だ。 朝から母親の様子がおかしいのはおそらく緊張しているからだと思う。午後からだというのに、洗面台で何度も髪型を整えていた。 その様子を見ても私の心情は何も動かない。どうせお母さんが一方的に先生に宣言するだろう。 この子はT大しかありません、それが目標ですそういうのだろう。ずっしりと重い鞄を肩にかけて私は家を出た。普段よりも足が重いのは教科書が重いからだけではない。 ドアを開けて、空を見上げた。今日は天気がいいようで、青空に浮かぶ雲がゆっくりと流れていく。その間を太陽が燦々とアスファルトを照らす。 眩しくて目を細める。 生ぬるい風が頬を撫で、もう少しで夏本番を知らせるかのようなその風に顔をしかめた。 朝から今日から始まる三者面談の話題が教室内で飛び交う。 頬杖を突きながら窓の外を見ていた。 朝陽君は明日の予定らしい。朝陽君のお母さんに会ったことのない私はどんな人なのだろうと想像を膨らませる。きっと朝陽君のように笑顔の素敵な人なのだろう。 午前中の授業はあっという間に過ぎて、昼食の時間になった。 仲の良い友人同士机をくっつけて食べるありふれた光景が一番苦手だった。 みんなちゃんと“友達”を作って楽しくお喋りをしている中、私だけがぽつんと一人でいる。 それが苦痛でお弁当を持って誰もいないところで昼食を取ろうとしても学校内にそんな都合のいいところはなくて、最近は、かきこむようにしてお弁当を食べて教室から逃げるように去る。 教室に一人でいるとまりちゃんらが「一人って可哀そう」などと聞こえるように言ってくるから早くこの場から逃げたいという感情で私を駆り立てる。 けれど、今は違う。 隣の席の朝陽君が一緒に食べようと誘ってくれて二人で食べている。だからなのか、私たちが付き合っているのでは?と女子トイレで喋っている生徒の話を盗み聞きしてしまった。 でも、すぐに彼女たちはそれはない、という結論に落ち着いていた。あるとしたら、同情で一緒にいるのでは?と話していて自分でもそうなのではないかと思ってしまった。 それほど、私と彼では釣り合わないのだ。そんなことは自分がよくわかっている。 「午後からだね」 「うん…」 お弁当箱を開けるとそぼろご飯と白身フライやちくわキュウリ、ポテトサラダなど私の好きなおかずが詰められていた。お母さんはどうしてあんなにも私を縛り付けて自分の思い通りにさせたいのだろう。 たとえそれが正しくても、私の気持ちは無視で勝手に話を進める母のことは好きにはなれない。 朝陽君は、お弁当美味しそうだ、と言って笑った。 お互い窓から席が近いから、心地の良い風が入ってきて昼食を食べたら眠ってしまいそうだと思った。 朝陽君のお弁当も人参の肉巻きに、卵焼き、ミートボールにウインナーなど美味しそう。 「緊張する?」 「そうだね。まぁ、何事もなく普通に終わるには私が黙って聞いていたらいいから。今日もそうなる」 諦めたようにそう吐き捨てると朝陽君の箸を持つ手を止めた。 「前も言ったけどお母さんの言う通りの進路にするとしても、それを決めるのはみずきだ。ちゃんと向き合った方がいい」 「…それは、わかってる」 「宮野さんたちとちゃんと向き合ったじゃん。あれだけ言い返せたんだから大丈夫だよ。みずきならできる」 「大丈夫…?」 「そう。大丈夫だよ」 それは魔法の言葉のように私の緊張を溶かしていく。朝陽君の言葉には力があるように思う。言霊という言葉があるように、彼が大丈夫だと言ってくれると本当に大丈夫だと思える。 精悍な顔つきで私を見据える彼に私は頷く。 自分の人生は自分で決めたい。それだけは私の心の中にしっかりと存在している。それだけでいい、それをお母さんに伝えてみよう。たとえ、否定されても私がどうしたいのかを伝えるべきだ。 今朝とは違う感情を携えたまま、私は午後の三者面談に臨む。 14時少し前、母親からメールが入った。 今到着したとのことで、私は教室を出て、昇降口へ向かう。二年生は全クラス三者面談のスケジュールとなっているから、昇降口には数人の保護者がいる。 お母さんが学校のスリッパに履き替えて、笑顔を作っているもののどこか顔の筋肉が強張っている印象で私よりも緊張しているのかもしれない。普段よりも化粧の濃い印象を受けた。髪も下ろしていて綺麗にストレートになっている。 「行こう」 「うん」 短い会話をして、ポン、と私の背中を押す母親を見上げた。 職員室へ向かう間、他の生徒の保護者とすれ違う。にこやかな笑みを子供へ向けている。 どのような会話をしているのか気になる。 職員室のドアをノックして入ると、担任の先生のデスクが見える。ごちゃごちゃした職員室のデスクを通り過ぎて、普段よりも片付いている担任の先生のデスクへ近づくと先生が立ち上がり挨拶をした。 お母さんも深々と頭を下げている。 その様子は、先生を信頼して子供を託しているように見えて、結果の出せない自分が不甲斐なく感じた。 二人分の椅子が用意されていて、パソコンを動かしながら先生が成績表を表示する。 正直、担任の先生は好きではないけどこうやって私たち一人一人のために資料を作るのはすごいなと感心した。 「それでは、始めますね。まず…天野さんの成績なんですが、悪くはないんです。ただ全体的に標準といいますか、苦手科目もないけど得意な科目もないように思いますね」 はい、と言って母親が老眼用の眼鏡をかけて真剣にパソコン画面を見つめる。 はやく終わってくれないかな、という気持ちと朝陽君に言われたように正直に自分の気持ちを伝えたらどうなるのだろうという他人事のような感情も相まって複雑な面持ちをする。 ―大丈夫 心の中でそう唱えるように何度も言う。 「この間のテストも順位的には平均よりも若干下回っていて、全国模試も去年からのデータだと…」 先生は言葉を選んで話してくれるが、要するにあまりいい成績ではないということを間接的に伝える。 母親の顔がどんどん曇っていくのを隣で感じながらも私もパソコン画面を見つめる。 それで、と先生が言葉を止めた。 ぴりつく空気感はきっと、お母さんのせいだろう。言葉は発しないがひしひしと伝わってくる。 「現段階での志望大学学科は決まっていますか?」 先生は、私を見てそう訊いた。過去の全国模試で志望校を記入する欄があるが毎回変えていた。 理系、文系すら決まっていない。 それを先生は過去のデータを見ながら知っているのだろう、だから私にそう訊くのだ。 ―今はまだ、決まっていません そう言おうとした瞬間、母親が前のめりになりながら言った。 「T大です。それしかありません。この子だってそれを望んでいます。実力が足りないのは承知していますが、そこは何とか学校でもフォローしてください」 「あ…そうですか。T大…ええっと、学部は?」 「そんなのはどうだっていいんです。とにかく合格させてください」 困った様子でこめかみをポリポリとかいて、そうですか…と言葉に詰まる先生に私は慎重に、言った。 お母さんがどうしてこうもT大に拘るのかわからない。でも、朝陽君の言うようにこれは私の人生だ。 たとえ、お母さんの指示通りの大学へ進学するとしても、それだって私が決めなければいけない。 朝陽君の真剣な眼差しを思い出して、深呼吸した。 「T大に…行くかはわかりません」 「っ」 はっとして私を見る母親を無視するように先生に言う。 「私の中では、決まっていないんです。やりたいこともないし、何に興味があるのかもわからない。それに…T大に行きたいとも思えない」 初めてだった。お母さんの前で本音をぶつけたのは。 お母さんに反抗したいわけではない。私は、私の人生を生きたいだけなんだ。 でも、いつもそんなことはわかってくれないとかお母さんの言う通りに生きることが正しいのだと自分に言い聞かせていた。それは、そうやって逃げる方が楽だからだ。 窮屈なのに、苦しいくせに、自分で解決しようと向き合ってこなかった。自分自身にも嘘をついて、欺いて生きてきた。そのツケが今、回ってきただけの話だ。 お母さんは怒りからか、戦慄き怒気を孕んだ目を向ける。 「どういうこと?」 絞り出したような声に私は怖気づいてしまう。 目を逸らして黙っていると、盛大なため息を吐いて呆れるように言った。 「すみません、先生。この子はまだ未熟で正しい判断ができません。ちょっと反抗期も相まってこんな発言したのだと思いますけど、気にしないでください」 やけに明るい声が耳朶を打つ。先ほど発した「どういうこと?」という私へ向けた言葉とは違って外向きのワントーン高い声だ。 大丈夫なんかじゃない。朝陽君の言ったように自分の思いを伝えたけれどうまくはいかなかった。お母さんにもお母さんの考えがある。それはわかるのに、どうして私の思いは無視するの。 悔しさと、絶望と、息苦しさ。 「そ、そうですか。では、学部は天野さん自身に考えてもらって…まだ時間はありますからその辺も含めて考えてみてください」 先生がこの空気に耐えられなかったようで、予定よりも10分も早く三者面談を終えた。 ありがとうございました、そう言って二人で教室を出た。残りの時間はクラスで自習だ。長く続く廊下を歩く。その間、二人とも無言だった。声をかけたってどうせ怒られるだけだ。 昇降口まで見送ろうかと思ったけどそれすらストレスだった。 「家に帰ったら話しましょう」 「…うん」 「今日のことはお母さんとても恥ずかしい思いをしたの。わかる?」 うん、とは言わなかった。どういう表情をしているのか見たくもなくて知りたくもなくて、積もっていく不満はどこに発散したらいいのか自分でもわからない。 すぐにでも朝陽君に会いたくなって、昇降口が見えると急ぐように踵を返してじゃあ、と素っ気なく言って去った。 こうなるのならば、最初から自分の思いなど封印してしまえばよかった。 大丈夫なんかじゃないよ。 心が、痛くて苦しくてどうしようもない。 教室へ駆け足で入るとすぐに奥の席に居る朝陽君の姿を探した。 彼は普段通り朗らかに友人と談笑している。 大股で自分の席へ移動して、顔を伏せたまま椅子を引き座る。 朝陽君が私に気づき、「どうだった?」と尋ねる。 「ダメ…だった」 「ダメ?っていうと…?お母さん、理解してくれなかった?」 「うん。最初から私の話なんか、聞くつもりはないみたい」 肩を落とす私に朝陽君がそっという。 「そんなことない。大丈夫だよ。もう一度話してみよう」 「大丈夫じゃ…ない」 「みずき…」 視線を落としたまま、吐き捨てるように言った。 朝陽君は何も言わなかった。呆れたのかもしれないし、もう無理だと彼も悟ったのかもしれない。 今週の三者面談は基本自習時間になる。 勉強する気もない私はひたすらに窓の外を眺めていた。真面目に受験と向き合っている生徒たちのようにならなくてはいけないのに何も変われない。
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