エピソード6

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自宅へ帰る足がこれほどまでに重いのは初めてだ。 頭の中には、苛立ちを前面に押し出す母親の顔が浮かび、胃がシクシクと痛む。 家の前に立ち尽くし、静かにドアを見つめる。 謝ればいいのだろうか、そうしたらお母さんの機嫌がよくなるかもしれない。 と、肩にかけてあるこげ茶色の学生鞄の中が振動していた。 携帯電話が鳴っているのだと気づき、私はチャックを開けて鞄の内ポケットに手を入れる。 “波多野朝陽君” とフルネームで表示されている。 はっとしてすぐに家のドアから数歩離れるとそれを耳に当てた。 「みずき、大丈夫?」 通話ボタンを押してすぐに彼の声が聞こえる。緊張しているのか、彼の声はかたいように感じた。 彼とはあの後あまり話せなくて、放課後も用事があるようで一緒に帰ることが出来なかった。 「うん。大丈夫だよ。今、ちょうど家の前で…」 「そっか」 数秒間があった。その間に家の前では数人の中学生ほどの子が友人と楽しそうに喋りながら下校している。 「お母さんにはなんていうの?怒ってたんだよね」 「…そうだね。自分の気持ちは伝えたけど、結局…お母さんが認めてくれないと更に家に居づらいし…とりあえず謝ろうかなって」 朝陽君はこれほどまでに私を理解しようとしてくれているのに、理解してくれているのに、どうして一番近い家族であるお母さんは理解しようとしてくれないのだろう。 「大丈夫だよ。絶対わかってくれる時がくる。ぶつかってもいいから自分の主張を曲げちゃダメだ」 「…でも、」 もうお母さんには言ったんだよ。もう伝えたんだよ。結果、理解してもらえなかった。私はこれからも流されるように母親のいうことを聞くのが正しいのではと思う。 「お母さんも、みずきのことが心配でみずきのことを思ってるんだろうね。ただそれにみずきの思いを乗せて考えていないから…乖離が生まれる。ちゃんと話そう。納得できないなら、何度も何度も」 私のことが心配?私のことを思っている? それはない。自分の理想通りにならなければ欠陥品だとでもいうような目を向けられ、お母さんのいうことが正しいと思い込ませる。 それのどこが私のことを思っているというのだろう。沸々と沸き起こる感情を吐き出すようにローファーでアスファルトを蹴った。小さな小石が私の足の動きに合わせるように転がる。 「とにかく向き合ってみよう」 「…うん」 「じゃあ、また」 そう言って切れた携帯電話の画面を見つめる。そして力なく重力に従うように腕を下ろした。 ゆっくりと振りかえり、私は家のドアを開ける。 玄関に入ると夕飯のいい匂いが鼻腔をくすぐる。お腹が減っていることに今気づいた。 ぐうっとお腹が鳴ってカロリーを摂取させろと体が訴える。 夕食の匂いのせいで忘れていた空腹を思い出す。 ローファーを脱いで、とりあえず自分の部屋に向かった。スタスタと階段を上る。私が帰宅したことをお母さんは気づいているような気がした。 おかえり、とも言われないのは今日のことを怒っているのだと思う。 部屋に入り、鞄を乱暴に床に置くとすぐに部屋着に着替えた。下はジャージで上にTシャツを着てベッドの縁に腰かけた。 自分の部屋が一番落ち着く。一歩でも外に出ると、まるで別世界のように心が黒に染まる。 お母さんの圧力や学校、勉強…全部が黒く歪んで私の心を蝕む。 でも、朝陽君は違った。彼といると楽しいし元気が出る。そして胸が高鳴る。こんな気持ちは初めてだった。ずっと続いていたいじめも今のところなくなって、学校へ通いやすくなったのも、彼のお陰だ。 そんな彼が向き合った方がいいというのならば、そうなのかもしれない。それが正しいのかもしれない。 けれど、今日学校で見た母親の反応を見ると絶望的なのは安易に想定できる。 長嘆して、天井を見上げる。 どうしたら、わかってくれるのかな。 私は立ち上がって、部屋のドアノブに触れた。ステンレス製のひんやりした感触が伝わってきて自然に背筋が引き上げられるように伸びる。 緊張しながら、階段を下りる。 今夜の夕飯は何だろう。そんなことを漠然と考えながら私はリビングのドアを開けた。 すぐに今日の夕飯が何かわかった。カレーライスだ。 お母さんはチラッと私を横目で捉えるが無視してキッチンへ移動する。 その背中には怒りが滲んでいる。 恥をかかされた、そう思っているのだから仕方がない。 ソファに座ったりご飯の準備を手伝ったりすればいいのに、動けずにいた。 どうしよう、そればかり頭の中に浮かんではウロウロといつまでも居座る。 「お母さん…」 ようやく絞りだした声は、おそらく届いてはいないと思えるほどに小さく、そして震えている。 でも、お母さんの手が止まった。 お盆を持つ手が止まり、ゆっくり振り返る。聞こえていたのだろうか。 「反省、してるの?」 単調な声が私へ向けて攻撃してくる。蔑むような目を向けられ何も言えずに俯いた。 苛立ったようにため息を吐かれ、また手を動かす。 カレーライスはすでに皿に盛られていてそれをダイニングテーブルへ移動させるようだ。 お母さんがテキパキと準備する。それを目で追って動かない私を手伝えとでもいうように一瞥する。 「お母さん、話そう」 「何を?早く夕飯食べなさい。今日のことは反省しているのなら許すよ」 語尾がほんの少しだけ優しく感じた。 ここで頷いたら今までの私のままだ。これからも窮屈な人生を歩むの?ずっと、ずっと流されたまま…生きていくの? 自分に問いかける。無言の私にお母さんがゆっくりと私の前に来る。 お母さんはすでに化粧を落としたようですっぴんの肌にはいくつものシミが浮かび上がっていた。 美容にお金をかけるわけでもないし、衣服を新調することもほとんどない。 全て私の学費や塾代に消えていく。 それを知ると益々ちゃんと期待に応えなくては、そう思うのに… 「お母さん、今日は恥をかかせてごめんなさい。でも…私は私の人生を生きたい」 「…みずき?」 私の言葉は想定外だったのだろう。大きく口をあけ、眉間には深く皺が刻まれる。 この世のものではないような目を向けられて私は顔を小刻みに揺らした。 「今はやりたいこともないし、将来の夢もない。だからお母さんの言う通りT大を目指すよ」 「そ、それなら別にわざわざ宣言しなくても」 違うの、そう声を張って言葉を遮る。お母さんの唇が震え、きゅっと真一文字に結ばれる。 「違うの…お母さんの言う通りにしたくないとかじゃない。自分で決めたいの」 「そんなのただの反抗期みたいなものよ。気にしなくても、」 「違う!今の私にはどうして勉強するのかわからないし、したくないし、縛られているようで苦しいの…」 ぽろっと涙が頬を伝った。 それに続くように、輪郭をなぞるように涙があふれる。必死に堪えているのにそれは止まってくれない。 面食らったように口を開ける。そのくらい私の発言は予想外だったのだろう。 「お母さん…私の気持ちを聞いてほしいの」 「…みずき」 「別に誰に理解されたいわけじゃない。お母さんに理解してほしいっ…」 語尾が大きくなり、ビクッと肩を震わせる母親に何か言い返す様子はない。 怒りに満ちた瞳は、すでにその色を失い嗚咽を漏らす私を見据える。 私のこの感情を思いを、どうしてもお母さんには理解してほしかった。 認めてほしいのは、私のテストの点数なんかじゃなくて私自身だ。 私の表面的な部分ではなく、もっと深いところを見てほしかった。 「…お母さんは、みずきに幸せになってほしくて…子供を幸せにするために導いてあげることも親の役目なの」 「そうかもしれない。でも、私に選択させてほしい。私の…人生だから」 弾かれたように瞼を開き、そのまま大きく息を吸った。 「…後悔、しないのね」 「うん。自分の足で歩きたい」 そういうと、あきらめたようにそう、とだけ言って私に背を向けた。 理解してくれたのかどうかはわからない。お母さんの言いたいこともよくわかるからこそ、私の思いを伝えることはひどく勇気がいることだった。 お母さんの背中はどこか寂しそうでまだ怒っているようにも感じられたけど何も言い返してこないことは今までにはなかったことだ。 朝陽君が言ってくれたように大丈夫、なのかもしれない。 お母さんが冷めるから食べるわよ、と肩越しにいう。私は頷き、ダイニングテーブルに並ぶ夕飯を食べた。 食事中、お母さんは終始無言だった。 チラッと気づかれないようにお母さんに視線を向ける。 皿の上には何も残っていない状態になり、カランとスプーンが皿に接触する音が響く。 ふとお母さんもこちらに視線を向けてお互いのそれが絡む。 そのまままたカレーを食べ始め、呟くように言った。 「後悔しても知らないからね」 「…うん。わかってるよ」 自分で決めるということには、責任が発生する。見放されたような言葉だけど今までと違って急に責任感が生まれたように感じた。 私自身が決める。たとえ家族が納得していなくても、誰かの言う通りに生きることがいいことだとも思えなかった。 私は、私の人生を生きる。 お母さんは納得はしていないようだったけど、すぐに納得してもらおうとは思っていない。 今までのように頭ごなしに威圧的に私の意見を否定しなかったことだけでもうれしかった。 早く今日のことを朝陽君に話したくて夕食後すぐに二階へ駆け上がろうとしたとき、お母さんに呼び止められた。 リビングのドアの前で立ち止まり肩越しに何?と訊く。 「そういえば、今朝回覧板が回ってきて笠塚さんが亡くなったって」 「え…―」 忙しそうに皿をキッチンへ運んでエプロンの紐を結びなおしてそう言ったお母さんの言葉に一気に全身が硬直する。 亡くなった。笹塚さんが亡くなった。 つい最近、回覧板を持ってきてくれた笹塚さんが…この世にもういない。 それはもちろん近所に住む優しい人が亡くなったら誰だって悲しいだろう。でも、それだけではない。 笹塚さんを最後に見たとき、確かにあの黒い靄が見えていた。 震える唇を必死に動かして訊いた。 「どうして…亡くなったの?」 「脳梗塞だって。元気だったのにね…」 お母さんは重々しくそう言ったが、すぐにキッチンの水道の蛇口ハンドルをひねって水を流して皿を洗う。 その様子をただじっと見つめながらやはり私の能力は人の死期がわかってしまう能力なのだと悟る。 それは同時に朝陽君の死期が彼の誕生日前に来ることを示している。 どうしたら彼の死を止められるのだろう。
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