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俺は幽霊だ。それも49日目の。特段変わった死因でもない。
バイクに乗っていたら雨で滑って転倒、そのまま崖から落ちて事故死だ。
まだ20代でやりたいこともあったが、自分の責任だから受け入れている。家族には申し訳ないと思うが……。
慣例に従って49日目までは地上にいようと考えて、特にやることもないが地上に居座っていたわけだが、そろそろお暇しなければならない。天国からの通知で「49日を超えて居座り続けると、地縛霊または怨霊として扱われ、場合によっては除霊もありえます」とあったし、あまり長居はしていたくない。
そろそろ去ろうか、と思って玄関へと向かう。別に壁を抜けられるのだから玄関に行く必要もなかったのだが、無意識に足が進んでいた。いや、足もないのだが。
玄関で家の中に向かって一礼し、きびすを返したところで、呼び止められた。
「わん」
犬に。
「わんわん!」
ポチが俺に向かって全力で吠えている。まさかとは思うが見えているのか……? 俺が……?
葬式どころか通夜のときでさえ、家族の暗い雰囲気の中でも平常運転で、飯を食ってソファで眠る生活を続けていたポチが、俺に吠えていた。
「なぜだ、俺が生きているときでもお前は俺に懐いていなかったじゃないか」
「……くーん?」
すいません、よくわかりません、みたいな顔をするな。
「俺がしばらく家を空けると、家に帰ったときすごく吠えたよな」
「わん」
「絶対あれ俺の顔忘れてたよな」
「わんわん」
「なのに、俺が家から去ってしまうから、寂しくて吠えてくれてるのか」
「くーん?」
「そこはわかりませんってするな」
こんなに惜しまれているならもう少しだけいようかな。
俺は玄関に腰をかける。すると、ポチは吠えるのをやめると俺に寄り添うように横になった。
「ポチ……!」
幽霊だから触れないが、せめて撫でてやりたい。手をポチに近づけると、
「ぐるるるるる……」
すごくうなられた。俺から近づくのは気に食わないらしい。
「じゃあ、俺、そろそろ家出るから……」
俺が立ち上がると、動きを合わせるかのようにポチも立ち上がる。
「じゃあな、ポチ」
「ぐるるる、わんわんわん!」
また、すごい勢いで吠え始めた。なにがそんなに気に食わないんだろう。俺に懐いてもないのに、俺がいなくなることのなにが嫌だというのか。
理解できず、俺は立ちすくむ。
ふと、居間から足音が聞こえた。誰かが、こちらへ歩いてきている。
「ポチ? どうしたの?」
母だった。通夜のときも葬式のときも泣かなかったが、寝室ではいつも独りで泣いて、次の朝には顔を真っ赤に腫らしていた。49日経って、さすがそういう日はなくなったが、それでも俺が死ぬ前に比べればかなりやつれている。
「ぐるるる、わん!」
「ポチ、外に誰かいるの?」
母は靴を履くと、玄関のドアをあける。俺の身体と、母の身体が重なる。反応はない。ただ、像が重なっただけで、母に触れることはできない。
「外、誰もいないけど。ポチ、どこに吠えてるの?」
「わん、わんわん!」
母は困ったような顔をし、玄関に腰をかける。ポチが空に向かって吠えているのが不思議なようだった。無理もない。ポチは普段吠えるどころか、ソファから離れること自体が少ない。よくいえば大人しく、悪く言えば淡白で出不精な犬なのだ。
「どうしたのかねえ……」
母はポチを撫でる。ポチが吠える原因を探しているようだった。ポチはその間も吠え続けている。郵便配達が来ようが、近所の人が回覧板置きに来ようが、我関せぬなポチが、全力で吠える。そんなことは、俺が生きているうちにも両手両足で数えるほどしかなかった。
「あ」
母は何かに気づいたかのように声を出す。つぅ、と涙が瞳から垂れていた。
「サトル……」
母はポチの頭を撫でる。ポチは、機嫌良く「くーん」と鳴くと、吠えるのをやめて母に頭をすりよせた。まるで、やっと気づいたか、というように。
ポチが全力で吠えるのは、俺が相手のときだけだった。俺が長く家を空けたあとと、俺が長く家を離れそうなとき。その二つ以外で、ポチが吠えることはない。
「お前……母さんに教えてくれていたのか……」
「わん!」
ポチは威勢よく声をあげ、鼻を鳴らす。
お前のためじゃねえぞ。そう言われた気がした。
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