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「ふぅ……」
溜息がこぼれてしまう。
また喧嘩しちゃった。
どんよりとした気持ちと一緒に膝を抱えて、リビングから庭を見る。
トントントン。軽快なリズムで雫が青紫の紫陽花を濡らしていた。
鬱陶しい季節。
でも、もしも紫陽花だったら。
こんな天気だってイライラせずに、笑って彼と過ごせるのかな。
トントントン。
音は途切れずに続く。
そして。
いつのまにか寝てしまったらしい。
夢の中で私は紫陽花になっていた。
◇◆◇
気持ちのいい雨!
ひとつふたつと粒を数えられるほどだった雨が、あっという間にザーザーと激しく全身を叩くような大雨に。蒸し暑さもホコリも全部洗い流してくれる。
紫陽花になった私にとって、雨ってこんなに嬉しいんだあ。
これが夢だってことには、すぐに気がついた。こういうのって明晰夢というらしい。
雨が気持ちいいなんて、変な感覚。それに私は家の中から雨を眺めていたはずなのに、いつの間にか全然違う場所にいた。
動こうとしてもほとんど動けない。ただザワザワと揺れる大きな濃い緑の葉。
顔は回せないけど意外と視界は広くて、今いるのが懐かしい場所だと分かった。
小学校だ。
今はもう新しい校舎に建て替わったと聞いたけれど、ここは記憶の中のまま。
そういえば、大きな青い紫陽花の花が手洗い場の近くにあったっけ。
懐かしい小学校の校庭を紫陽花の視点から眺めなおすなんて、面白い趣向の夢だと思う。
目が覚めたら、この景色を思い出しながら絵でも描こうかな。
夢のこと、覚えてたらいいけど。
夢の景色を脳に刻むように集中して景色を見ていたら、いつの間にか目の前に男の子が立っていた。
雨の中、傘もささずに私の前に立ち止まった小学生の男の子。
「翔太!」
思わず声を掛けてしまった。
私は今、紫陽花なのに。
「げっ。花がしゃべった?」
翔太は大げさに驚くと、変なポーズを決めた。
そうそう。こんな子だったよ、翔太は。
この頃はかわいいなあ。
今じゃあすっかりむさくるしくなって、そして……私の婚約者だけれど。
小さい頃からずっと大好きだった翔太。
高校生の時に付き合うようになって、大学生の時にプロポーズされた。
卒業したら結婚しよう。
だけど就職したら、お互い新しい生活に追われてすれ違いばかり。
結婚の約束もどこへ行ったのか、もう卒業から一年以上経ってしまった。
「おい、花! お前がしゃべったのか?」
「紫陽花だよ」
「アジサイ、おばけアジサイか」
「失礼だな、翔太。私は今、アジサイ神なのだぞ」
「げげ。なんでおれの名前、知ってんの? 本当にカミサマなのか」
「ふふふ。君の名前は矢羽田翔太、誕生日は七月八日でしょう」
「おおおお、当たってるぞ。すげえな、アジサイ神」
すっかり信じてるみたい。
小さくなった翔太、素直だなあ。
「翔太はどうして傘もささずに歩いてるの?」
「だって傘さしてもどうせ濡れるもん」
「ああ……そう。そうだったね。君はそんな子どもだった」
「帰ってから風呂に入るから濡れたってかまわないんだ。アジサイ神はずっと外だから風呂って知らないか」
「知ってるわよ。お風呂大好きだもの」
「へえ。カミサマも風呂に入るんだな」
喋る紫陽花が面白いのか、いろんな方向から私を覗き込む翔太。まっすぐ家に帰る気はなくなったらしい。
子どもの翔太と話すのは何だか新鮮で楽しかった。
紫陽花になった私を相手にして、自分のことを話し始めた。理科が好きで国語が嫌いだとか、音楽の先生が美人なのに案外怖いとか、給食はハンバーグがおいしいとか。
そういえば学生の頃、私にハンバーグ作ってくれたことがあったっけ。
ハンバーグ、小さい頃から好きなんだね。
子どもの翔太は今よりもずっと饒舌で、素直だ。
「翔太は学校に好きな子とかいるの?」
つい好奇心に負けて、禁断の質問をしてしまった。
「……内緒だぞ、アジサイ神。二組の如月早苗だ。内緒だぞ」
私の名前だ。
ふふふ。夢って都合いいね。
小学校の時の私と翔太はただの幼馴染で、全然そんなんじゃなかった。私は翔太が好きだったけど恥ずかしくて、友達と陰できゃあきゃあ言ってただけ。
翔太はいつだって男の子と走り回って遊んでた。
「アジサイ神は好きな子がいるのか?」
「それは……内緒」
「ずるいぞ、俺だけ言って、アジサイ神はずるいカミサマだ」
「えー。じゃあここだけの話だよ? アジサイ神は小さい頃から好きだった人と婚約しています」
「コンヤク! かっこいい」
「そうかな? そんなに良いことばかりじゃないけどなあ」
「どうして?」
「だって……」
今日も喧嘩した。
本当に些細なことだ。雨が降るのにショッピングに行こうという彼と、家でゆっくり過ごしたい私。
そりゃあ晴れてたら私だってショッピングに行きたいよ。でも雨の中出掛けるのは面倒なの。
結局どうするか相談してるうちに私が怒って通話を切っちゃった。
休みの日に優雅に家でごろごろして、そのまんま寝てしまった。
リラックスできてるはずなのに、夢の中でも翔太の事をこうしてぐずぐず考えてる。
今頃、翔太は怒ってるかな。
私はなんであんなに些細な事で怒っちゃったんだろう。
雨でも一緒に出掛ければよかった。こんなに気持ちのいい雨なのに。
「アジサイ神はコンヤクシャとけんかしたのか?」
「まあね」
「だったら早く仲直りしないと」
「そりゃそうだけどさあ」
「今日のけんかは今日のうちに。だぞ」
「お子様は気楽でいいなあ。今はそんなふうに素直だけど、翔太も大人になると素直にごめんなさいって言えなくなるんだぞー」
「そんなことない。おれはゴメンナサイが言える」
「本当かなあ」
「絶対だ。ゴメンナサイが言えない大人はダメ人間だ」
「ぐぬぬ……」
子どもの言う正論って、言い返しようがないな。
しかたない。
「わかった。目が覚めたら彼にごめんなさいって言うよ。翔太も大人になってもこの言葉、忘れなさんなよ」
「わかった。アジサイ神に誓う。おれはちゃんとゴメンナサイが言える大人になる」
そして、翔太は良いことを思いついたと言うと、いきなり私をぐいっと掴んだ。
「アジサイ神を家に連れて帰ればいいんだ。ずっと俺のことを見といてくれ。ちゃんとカッコいい大人になるから」
「あわわ、そんなこと言って私、わあ、引っ張らないで! ぎゃあ、葉っぱがちぎれちゃう。なぜか痛くないけど。揺れる、世界が揺れるよう……」
紫陽花を折って持って帰ろうとする翔太に揺さぶられて目が回る。そのまま気を失い、そして目が覚めると家のリビングだった。
窓の外はいつの間にか雨もやみ、庭の紫陽花はキラキラと水滴を輝かせている。
そして不思議と夢のことはハッキリと覚えていた。
「しかたない。約束したから」
ごめんなさいって言いに行こうかな。
雨も上がってるし。
簡単に化粧を済ませてラフな格好で家を出る。
翔太の家までは歩いて五分もかからない。雨上がりの道は埃っぽさもなくて気持ちよかった。
翔太の家に着き、ふとその庭のまんなかにある立派な紫陽花の花に目をやった。うちの家の紫陽花は翔太の家から貰ったんだった。
簡単に挿し木できるって言われて、母が育てた。その翔太の家の紫陽花も、どこからか貰って来たって言ってたっけ……。
紫陽花を見ながら玄関で立ち止まっていると、ガチャンと音がしてドアが開いた。
「あっ」
「早苗……今、家に行こうと思ってた。さっきは」
「さっきはごめん」
「俺のほうこそ、ごめんな。勝手に買い物に行くとか決めちゃってて」
「ううん。怒って通話切ったの、私が悪かったと思う」
「いいんだ。来てくれてありがとう」
「お買い物、今から行く?」
「もし早苗がいいなら、一緒に行きたいなって思ってる」
「うん」
仲直り、完了!
どうだ、小学生の翔太よ、これが大人のゴメンナサイだ。
簡単だね。
そんなことを考えながらチラッと紫陽花に目を向けた。
そして翔太を見ると何故か翔太も紫陽花を見ていた。
「あのな、早苗」
「はい?」
「やっぱり最初から、ちゃんと言えばよかった」
「何を?」
「今日、指輪を買いたいんだ。一緒に行ってくれませんか?」
「え……」
「遅くなってごめん。俺と結婚してください」
「……はい」
「おお! やったぜ、アジサイ神!」
え?
今、なんて?
聞き返す間もなく、翔太に抱きしめられた。
雨上がりの紫陽花がキラキラと輝く庭で。
【了】
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