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――ゼロ?
躊躇いがちにかけられた、聞き慣れない低い声に、私は弾かれるように振り向いた。
後方左側、トートバッグを肩に下げた青年が、こちらをやや覗き込むように立っている。
道行く一〇人中八人以上が振り返りそうな秀麗な顔にも、その顔を縁取る明るいオレンジブラウンの髪にも、私の頭を見下ろす長身――これでも私は、成人男性の平均身長より背が高い――にも全く見覚えはないけれど。
私、小野原 零を「ゼロ」と呼ぶ存在は一人しかいない。
「……イチ?」
呆然と、半ば無意識的に唇に乗ったのは、約一〇年ぶりに呼ぶ幼馴染の渾名。
その途端、男の人が破顔した――それは時間を巻き戻す、かつて最も近くで見続けていた少年と同じ笑顔。
「やっぱりゼロだ」
「え? 本当にイチなの?」
瞠目する私の前で、端正な顔が笑みを深くしながら頷く。
「暫くぶりの偶然の再会が美術館前とは。相変わらずだな、ゼロ」
「久しぶり――そっちは随分変わったね」
予想外の邂逅に、私の顔も自然と綻んだ。
イチ。本名、神楽 一希。漢字の並びだけなら女の子でも通りそうだが、これでもれっきとした男の名前。
家が隣同士で、両親は互いに友人。誕生日は二ヶ月違いで (私の方が早い) 同学年、生まれた産婦人科も一緒となれば、それは最早生まれる前から腐れ縁と言っても過言じゃない。神楽家が仕事で海外に引っ越す中学二年生まで、文字通りほぼいつも一緒だった幼馴染の男の子、それがイチだった。
「こんなところで会うなんて、ホント偶然! 何年も会ってなかったのに、よく私だって分かったね」
「美術館眺めてる雰囲気、変わってなかったからな」
さらりと言われた言葉に、軽い引っ掛かりを覚える。
そんな、美術館を前にするだけで他人様と違う雰囲気を醸し出しているつもりは、今も昔もないのだけれど…。
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