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今夜俺は
「――場所を……変えますか?」
耳元で囁かれた誘惑。
これに頷けば向かう先はきっと――。
ほんの数日前なら絶対に頷かなかった。
だけど、今の俺には頷く以外の選択肢はなかった。
今日は酔ってはいない。意識もはっきりしている。
だからもう言い逃れはできない――。
小さく頷くと男はくすりと笑って俺を抱きしめていた腕から解放し、消えた温もりを寂しく思う暇も与えずすぐに肩を抱き寄せ歩き出した。
全身が心臓になったようにドキドキと煩くて、何の音も聞こえなくなるのに男の声だけははっきりと聞こえた。
「今日は……あなたを私の物にしますから……いいですね?」
男の甘い宣言に俺の全身は、喜び震え真っ赤に染まった。
「…………」
ゴクリと唾を飲みこむ音が夜に響く。
タチという自分にこだわっていたのには理由があった。前に言ったような男のアレを受け入れ難いという話ではない。
そしてそれは絶対に揺らぐ事はないと思っていた。
それなのに、この男になら本当の自分をさらけ出したいと思ってしまった。
それほどまでにこの男の事を放したくないと思うなんて、思ってもみなかった。
連れていかれた先はホテルではなく高層マンションの最上階、この男の自宅だった。
綺麗に整えられた部屋。この部屋にどのくらいの人が招かれたのだろうかとざわざわと胸が騒ぐ。
男はそれを見透かしたようにくすりと小さく笑うと、「キミだけですよ」と言った。
何がとは言わないが多分俺の不安に対する答えなんだろうと、容易に想像がつく。
人の心が読めるのかと本気で思うくらい、この男は俺の考えている事を分かっていた。
認めたくはなかった。いや、認めてはいけなかった。
俺のこの『飢え』は心の飢え。自分本来の姿で誰かを愛し愛されたいという心の乾き。
俺の中の不安定で一番弱い部分。
俺は先輩の事が好きだった。大好きな先輩を抱きながら、いつも感じていた少しの違和感。
それを言ってしまえば先輩との別れは目に見えていたから、俺は認めたくなくてそっと気づかないフリをした。その頃から少しずつ飢えを感じるようになったんだ。
大好きな先輩と思いが通じ何度身体を重ねても――、重ねれば重ねるほど心が遠く離れて行くのを感じたんだ。
俺の無理を先輩も感じてしまったのか、結局別れを告げられてしまったけれど、俺は先輩の事が大好きだった。この気持ちに嘘はなかった。
先輩と別れた後も先輩への気持ちを間違いにしたくなくて、沢山のネコたちを抱いた。俺はタチだ。先輩が大好きで先輩を抱いた事は間違いじゃなかった――。そう思いたかった。
俺に抱かれて気持ちよさそうに蕩けるネコたちの表情。それを見る度に俺の心は乾き飢えるばかり。
本当はこの表情をするのは俺のはずなのに――――と。そしてその顔は先輩と重なるのだ。
飢えを満たす相手を探すと言いながらひと夜の相手を求める事に意味はなく、かえって悪化させるだけだった。そう分かっていてもやめられなかった。
そんな時この男と出会い、少しだけ飢えが満たされた気がした。
この男となら本来の自分で愛し愛される事ができる。
そう思うのにちらりと浮かぶ別れを告げた先輩の顔。俺が素直に自分が抱かれる方だと告げていたなら先輩との関係もまた別の形で続いていたかもしれない。なのに俺はそうしないで先輩の心に傷をつけてしまった。それなのに今更俺がネコになっていいのだろうか?俺だけが幸せになってもいいのだろうか?
そんな想いから最初の時は逃げてしまった。なのにずるい俺は立場をあやふやにして男と会い続けていた。
俺のスマホの中には、先輩と別れて5年後くらいに送られてきたメールが一通あった。今から丁度6年程前の事だろうか。怖くて中は開ける事ができなくて、未開封のままフォルダーの中に保存されていた。
それを昨日…………ついに開けてみたのだ。
もしかしたら復縁の申し入れなのか、いやまさか。もしそうだったとしてももう遅い。
それとも5年経っても俺が負わせてしまった心の傷が癒えない事への恨み言なのか――。それも違う。先輩はそんな人じゃない。
じゃあどんな内容なんだ……?別れて5年も経ってから送られてきたメール。
どんな内容だったとしてもこれで俺はけじめをつけたい。
そうでないと俺は前にも後ろにも進める気がしなかった。
震える指でメールを開封し表示された文章に、俺の瞳から涙が零れた。
先輩は俺も抱かれる側だと気づいていた。それでも俺の事が好きで、気づかないフリをしてしまったと。段々沈み込む俺の様子に自分の我儘で俺を追い詰めていた事に申し訳なくなって、別れを切り出したという事だった。
本当に愛していた事と無理をさせた事への沢山の謝罪と、今はパートナーと幸せだから今度こそは自然な形で愛し愛される相手と幸せになって欲しいと書かれてあった。
もっと早くに読めばよかった。
わざわざ5年も経ってメールをくれたというのは先輩もずっと気持ちの整理ができなかったのだろう。だけど、先輩は愛し愛される相手と出会った。
俺の事なんてもう何の繋がりもないのだから放っておけばいいのに、わざわざメールをくれた。11年もかかってやっと俺の心は解放された気がしたんだ。
俺はそのメールへの返事を『幸せになります』というひと言だけ送った。本当は俺の方こそ謝罪するべきなのかもしれない。だけど先輩はそんな事は望んでいないと思ったから――。
そして今、俺はこの男に抱かれ、幸せになる為にここにいる。
男は甘く甘く蕩けるような笑顔で俺をベッドに誘う。
身に纏う衣服を脱ぎ捨て男に身を委ねる。
こしょこしょと優しくくすぐるように触れられ、俺は本物の猫のようにぐるぐると喉を鳴らした。
今夜俺はこの男の猫に――――、この男だけの猫になる。
-終-
本編はこれで終わりですが、『男』Sideのおまけがあります🌸
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