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 店の中は至ってシンプルで、小洒落たティーカップを口元に寄せる老婆の姿が美しく映える古風な内装をしている。僕はカウンター席へ向かい、マスターである吉川さんに「いつものをちょっとだけ苦くして」と頼んだ。 「かしこまりました」  お店に来た以上、何かしら飲み物を頼むことは忘れない。ライブハウスのドリンク代と一緒で、サービスには何事も場所代がかかるものだ。 「お待たせしました」  吉川さんは僕に深海のような不気味さを持つコーヒーを差し出して、他の客のために豆を挽き始める。僕は鼻に染みていく安らぎの香りを楽しみながら、少しずつ、少しずつコーヒーを嗜んでいく。亜空間に入るには、とにかく気持ちを落ち着ける必要があった。焦る気持ちや唆かすもう一人の自分を沈め、本心だけで入り込む。そうでなければ、僕の人生は止まることなく、やはりこの星のシステムに従順に作動してしまう。  十五分かけてようやく全身を静寂に包み込み、カエルの泣き声すら趣を感じるほど穏やかな気分になったところで、僕は吉川さんに声をかける。 「あの、『ひとときの息抜き』をください」  すると、吉川さんは拭いていたカップをそっと置いて、「かしこまりました」と僕の目を見て言った。 「では、こちらを持っていつもの部屋へどうぞ」 「分かりました」  僕はいつも通り一枚の紙切れを受け取り、トイレがある通路へと向かう。一番突き当たりにあるドアの向こうが、これから僕が入ろうとしている亜空間へと繋がっている。普段なら『staff only』と書かれているプレートは、今は何も書かれていない面がこちらを見つめている。僕はゆっくりとその扉を開けて、薄暗い部屋を見渡す。 「ようこそ、『ひとときの息抜き』へ」  パンっとクラップ音が鳴り響いた直後、部屋に光が灯る。全体的に青っぽい、まるで海の中にいるような感覚に襲われる部屋だ。 「えっと、あなたはたしか、織田勝さんですね?」  その声の主が僕に尋ねる。 「はい」 「それなら、このサービスの説明は必要ありませんね。吉川さんから渡された紙をください」 「分かりました」  僕は受け取った紙切れをその主に渡す。主は紙をじっと見つめ、それを食べる。 「うん。これで織田さんの人生を理解しました。まあ、本当は過去の履歴が残っているから、いちいち食べる必要もありませんが、一応儀式ですので悪しからず」  その主は、僕が見てきたどの生命体にも属していない、奇妙だが恐怖心を抱かない見た目をしている。最初に見たときは思わず驚いて声を上げてしまったが、その主、ジョニーさんが冷静に日本語で会話をしてくれるおかげで、だんだんと慣れていってしまったのだ。 「では、前と同じようにそこのベッドで横になってください」 「はい」  僕は指示されたように、ジョニーさんの近くにあった木製のベッドに横たわる。ギギッと軋む音がして、少し不安になる。 「さてと、では現在の日時は、六月十三日の十四時十八分です。ですから、キリが良い十四時二十分に、あなたの人生を一度休止します。そのままリラックスしていてください。それでは、おやすみなさい」  ジョニーさんは僕の頭を二、三度撫でて、再びクラップ音が鳴る。  瞬間、僕は魂だけの存在になる。
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