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 僕の視線は、アスファルトの地面からすぐ近くにあった。ぼんやりとしか見えない光。ヒリヒリする足、そして全身が痒い。  慣れない四足歩行で少し歩いて、近くにあった水面を見てみると、そこには毛繕いされていない三毛猫を映し出している。  どうやら、僕の魂は無事に猫になることができたらしい。よし。この街を散歩してみよう。  ただ、見渡すかぎり僕の魂が今まで見てきた景色が一つも見当たらない。  ここはどこ?  おまけに車や自転車が容赦無く僕の魂の横を通り過ぎて、いちいち怖気づく。  人間だったときは、こんなに怖くなかったのに。  一匹の三毛猫になった僕の魂は、人気のないところに寂しく作られる陽だまりで、身体を丸める。忙しなく動く人々をじっと見つめながら、高みの見物をするように何もせずにぼおっとする。 「あら、見かけない猫ちゃんだね。餌あげちゃおう」  見たこともないおばあちゃんから、食べたこともないキャットフードをもらう。食べる気はしないが、腹も減っているので仕方なく口に入れる。 「いい子いい子」  猫って、こんなに美味しくないものを食べているんだ。 「じゃあね」  おばあちゃんは笑顔で去っていく。僕の魂は何も言わず、ただおばあちゃんの背中を見つめる。  コーヒー、欲しかったな。  やがて陽だまりが無くなり、あたりが暗がりに満ちていく。僕の魂は近くにあった草木の茂みに隠れて、一夜を過ごす。同じような猫が何匹かいたが、もちろん話すことなどなく、僕の魂を警戒してどこかへ逃げていく。猫は日本語なんて話すわけがない。僕の魂は改めてそのことを思い知った。  来る日も来る日も、僕の魂は退屈な日々を過ごす。おばあちゃんか小さな娘がくれる餌を食べ、それ以外はその辺を散歩するか眠るか、それ以外の時間は、ただぼおっとして空虚な気分で時間を進めていく。遠くへ行くのは怖いから、ずっとこの場所で留まってしまう。誰とも話さず、誰とも触れ合うこともなく、マスターの淹れるコーヒーが飲めるわけでもなく、ただ吹いてくる風を頬で感じながら、陽が昇り、煌々と街を照らし、夕陽に変わって沈んでいく様を眺めている。  これが、猫の生活。  家で飼われたらもっと楽しいのかな。おそらくほとんど変わらないだろうか。  つまらないな、この生活。寂しいな、この『人生』。いや、今は猫だから人生ではないのか。  僕の魂は、早くも絶望の淵に立たされている。戻りたい、そんな欲望すら出てくる。人間って、どうしてこんなに欲深いのだろう。決して満たされない、残念な生き物。 「織田さん、織田さん。聞こえますか、私ですよ」  僕の魂は辺りを見渡すが、誰もいない。ただ、脳内ではずっとジョニーさんの声が鳴り響いている。 「織田さん。今、私はあなたの脳内へ直接話かけています」  そうなんですね。僕の魂が答える。 「どうですか、猫の生活は? 楽しいですか?」  僕の魂は正直だから、「うん」とは言えなかった。 「そうですか。やはり、人間が猫として生活するのは難しいみたいですね。あなたと同じように猫になって生活する人は何人かいましたが、ほとんどはすぐに辞めてしまいました。続いているのはあなたに話しかけたマンチカンくらいでしょう」  僕の魂は何も言えない。猫には猫なりの厳しさや虚しさがあることを知った僕の魂は、恥ずかしさと後悔に包まれている。 「戻りますか? 織田勝さんに?」  僕は問いかける。できるのですか? 「はい。それは可能です。あなたは別に死んでしまったわけではありません。人生をお休みして、猫になっているだけですから」  僕の魂は一生猫のままだと思い込んでいたので、安堵してホッと息を出す。 「私から一つ提案があります。あなたはおそらく、今の環境が向いていないのでしょう。人として生きていく上で、どうしても社会に出る必要がある。だけどそこに適応する能力が、あなたには足らない。でも落ち込むことはありません。あなたは自分が生きていくことができる世界に行けばいいのです。その場所を、私は知っています」  どこですか? 僕の魂は食い気味で訊く。 「はい。そこはレストハウス、つまり私のお店です」  僕の魂は驚きを隠せず、それ以上思いを伝えることができない。 「実は私のお店、あまり人がいなくて困っているのです。あなたは私が作るコーヒーが大好きですよね。私が淹れるコーヒーを飲むとき、あなたはとても幸せそうな顔をしていました。私はそんなあなたに、ぜひこのお店で働いてほしい。どうですか?」  僕の魂が、ドクドクと音を立てて泣いている。ずっと求めていた優しさが目の前で花を咲かし、モノクロになった魂を彩っていく。  お願いします。僕の魂ははっきりと意志を伝えた。 「分かりました。では、戻しますね」  パン、とクラップ音が鳴り響くと、僕の魂に宿っていたあらゆる感覚が一瞬消えて、真っ暗になった。 
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