私は秘密を持っている 第十話

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私は秘密を持っている 第十話

 その眼はまったく笑っていなかった。この一件については、心底同情しているように見せようと、恩着せがましくそう切り出したように思えた。むしろ、私の死を望んでいたかのような印象を与えた。誰よりも国家から信頼されているはずのこの私が、あっけなく切り捨てられるなどということがあり得るのだろうか? どうも、それは考え過ぎのように思えた。私でなくて、誰がこの秘密を持ち得ようか? それは書記官とてご存じのはずだ。彼の温厚な表情からは、私の身に起きた悲惨な事故については、心身の深い傷が癒えるその日まで、何とか慰めてやろうという気持ちだけは、伝わってきた。しかしながら、実際のところをいえば、この国の全ての暗い秘密をその手に握っている彼にとって、今回の私の一件など、ど田舎の畑の片隅で、そよ風に吹かれながら揺れている案山子が予期せぬ突風に煽られたようなものだろう。何処かの局面で、運悪く我々を繋いでいる糸が千切れてしまっても、政府の高官としては、まったく構わない、意に介さない枝葉の存在なのだろう。二人の地位には余りにも大きな差があるからだ。こちらは床に額をぐいぐいと押し付けるほど、頭を下げてまで、自分の価値を高めるために危険な指令を受け取る、働き蟻のような存在である。上から眺める者たちからすれば、私の願望には見苦しさすら感じるのだろう。しかし、大地の上にある以上、虫の命にだって、幾ばくかの価値はあるはずだ。何の役にも立たない命など、この世にはないのだから。例え、小さな存在に思えても、それを思い通りに動かしていくための信頼関係も、非常に大切なはずだ。今の状況が、さらに切羽詰まった場合、私には突然の失踪や、海外への亡命や自殺といった最終手段が残されているからである。それ以外にも、日々のストレスに耐え切れず、精神に破綻をきたしてしまい、肉体に埋め込まれた秘密が、ある日忽然と消え失せてしまう……、他国のスパイに奪われてしまう……、といった思いがけない事故も当然あり得るだろう。いつ何時、雇われスナイパーの銃口に自分の脳天を狙われるかも分からぬほど、国家的に重要な秘密を持たせるのであれば、せめて、食うには困らない程度の資産と地位を手渡して、少しは要人として扱って欲しい……。おまえは世間の注目を浴びてはいるが、実際には吹けば飛ぶような存在なのだと、私に思わせないことも、彼の重要な仕事のひとつだと思うのだが……。 「まったく、何と切り出せばいいのか……、今さら、誰を恨めばいいのかも、わかりません。とにかく、あの惨劇を無事にくぐり抜けて、ここまで戻って来れましたよ……。今回の事例に関していえば、人間の力だけでは、例え、軍隊や警察による、わずかな助力があったとしても、おそらく、助からなかったでしょう。加害者たちは、義務教育の範囲で学べる程度の判断能力すら持ち合わせていなくて、その無謀な行動の一つひとつが、余りに無鉄砲であったからです。こちらがどんなに腰を低くして嘆願しても、交渉には応じてくれなかったわけです。おそらくは、彼らの薄暗い背後でごそごそと動かされている、多額の金銭のためでしょうが。もはや、引けぬ。どうしても目的を達したいと、私の顔に拳銃が向けられたのです。普段から護身用の武器を持たされていない私としては、もはや、天に祈る他はなかったわけです。これほど危険なモノを体内に埋め込んでおきながら、この組織の首脳部やそのスタッフたちは、誰一人として、助けに来てはくれなかったんです。結局のところ、人や武器や組織ではなく、運命だけが私を生かしたと思っています。その理由はよくわかりませんがね……。ただ、混乱の最中、ふと、過去の事例を思い出したのです。たしか……、かなり以前にも、今回の一件と、ほぼ同様の出来事が起きていたはずでは……、という雷光にも似た閃きを、記憶の沼の一番底に見出したのです。ただ、暴漢に突然襲われて、身動きひとつすら出来なくなってから、ようやく、それを地下深くから掘り起こしたわけでして……。貴方がたのスタッフが開発した、最新の記憶改造術によって、自分の認識能力すら遠く及ばぬほどの深みに、あれほどの『秘密』を埋め込まれてしまいますと、凡人の閃きなど、今さら、何の役にも立たないわけです。どんなに脂汗をかいて、死海文書を捧げて祈ってみても、残念ながら、テレビドラマで毎週高視聴率を叩き出している、名にしおう名探偵たちやスーパーマンのような逆転劇には結びつかないわけです。しかしですね、この国の中枢に『秘密』というものが在る以上、こういった恐ろしい事例が、近い将来、確実に起こるであろうと予感していたはずの貴方が、現場から遠く離れた、一ミリの危険すらない、この華やかな部屋の内部で、数百万円はするソファーにその腰を深く沈めて、パイプをくゆらせながら、何を考えておられたのか、までは想像出来ません。ただ、私の生命が本当に大事だと思っていらっしゃるんでしたら、もう少し、危険に対して、早めに手を打って頂けませんと……」  私は多少の苛立ちを隠せずに、少し声を震わせながら、そう告げた。この時はさほど意識しなかったが、大覚悟の上の直訴のために、両足もぶるぶると震えていた。最初は冷静に議論を進めるつもりが、次第に顔が熱くなっていくのを覚えた。『ただの一般人として振る舞わなければ!』しかし、このくらいの強い口調で責めていかなければ、書記官の冷静な態度を崩せそうにはなかったからだ。今回は結果として当たりくじの方を引いたが、次に似たような事件が起これば、死神の鎌の方を掴まされる確率が高くなってくるだろう。いくら行政の頂点にあるお方とはいえ、ある程度の反省をも促さなければ、この次に与えられる指令も、また似たような危険を伴うものになってしまう。  そのとき、背後のドアが微かな床ずれとともに開いて、秘書と思われる、グレイのスーツ姿の若い女性が入ってきた。私のためにわざわざコーヒーを淹れてきてくれたらしい。私は目の前にカップが置かれると、ぎこちなく一礼をした。その間も書記官の鋭い目はじっとこちらの動向を観察していた。自分の強い意志を曲げる気など微塵も無いのだろうが、どうすれば、これまで通り、私を組織に従順に働かせることが出来るかを熟慮しているのだろう。 「自分の中に存在する秘密を巡って、同じような出来事(他人の欲望が絡む、乱暴ないざこざ)が過去にも、何度となく繰り返して起きているのではないか、という疑念を得たわけだね。つまり、自分の脳は幾度もの手術によって、記憶がいじられているのではないかと……。それはつまり、我々の組織全体への根本的な疑惑が発端になっているんだろうね。こちら側から、『君を騙して喰らうような真似はしたことはない!』と、それを全面否定するつもりはないが……、ただ、言わせてもらえば、現実と幻覚とは常に紙一重なんだよ。これも確たる事実なんだ……。特に我々のような特別な身分にいる人間にとってはね……。言い換えれば、君はこれから先で、どんなに信じがたい不幸にぶち当たったとしても、それを真実として受け入れてはならない。全ては幻覚の成せる技と思えばいいんだ。今回の件で君が感じた極限ともいえる恐怖も、積もり積もったストレスが呼び起こしている、錯覚や幻覚の第二章と思って欲しい部分もあるんだ。過去のいずれかにおいて、人には決して見せられぬ負い目を持っている人間が、宵闇の街の中で、常に背後から誰かに見張られているような気配を感じるという、不安障害とほぼ一緒なのさ。  だが、こちらとしても、君が感じている不安現象の全てが妄想だと完全に否定するつもりはない。今回の悲劇をこれからの教訓とするために、隠れていた恐ろしい記憶を、現実の問題のひとつとして、何とか蘇らせようとしていることは、君自身にとっても、実にいいことなのさ。君の様子を眺めていると、先ほどから、どうも見えぬ何かにビクビクしているように見えていた。しかし、その実、きちんと前向きに思考できているじゃないか。今回の一件でも、我々が想定していなかった、相手方のこちらを巻こうとする、不可解な行動も色々とあったようだが、実はそのイベントの結果のすべてが、こちら側の思い通りになったわけでね。全てが終わってみれば、まんざら悪いことばかりではなかったわけだ。本当のところを言うと、強盗を働こうとした相手方の動きは、警視庁の公安の力を借りて、事前に察知していたわけでね。こちらも先手を打つ形で、君が訪れるであろう都心の広域に多くの部下を派遣していたのだよ。我々としても、ある目的から、裏社会全体に至る、詳しい情報を集めていてね、君を襲った例の陰謀の、一から十までを、発生の数ヶ月前には完全に把握していたんだ。つまり、我々には格段の余裕があった。レアで焼いたローストビーフを食しながら、グラスワインを片手に持って、事態の推移を見守っていたというわけなのさ。ああいった凶暴な事件というのは、少数犯による、単純な欲情の破裂から起こるのではなく、全ての大衆の心理に秘められた、他人のプライバシーへの嫉妬を含んだ興味が、二十数年以上にもわたって、北国の根雪のように積もり続けた結果として、やがて、ゴリゴリに凝り固まって、山頂から流れ出る湧き水が春を待たずして濁流へと変わって流れ落ちていくように、それに続く大被害も、ごく自然に発生してしまうものなのさ。どんな武闘派の組織が秘密を奪うために動いていたとしても、それは、金銭的な目的などよりも、むしろ、人の我欲が余りにも高まり過ぎて、精神の中枢そのものに異常をきたした挙句、あのような武力行動に発展するものなんだ。ギャングたちの行動はこちらが予定していたモノよりも、ずいぶんと粗暴であったわけだが、結果的には短時間で決着が着き、興味本位の第三者には、いっさいの秘密を関知されずに済んだわけだ。覆面パトカーで現場に待機していた、部下たちの調査によれば、要らない証言を誰彼構わずばら撒くような、無知で蒙昧な連中は、少なくとも、あの付近にはいなかったはずだ。二、三人の野次馬が興味本位で覗いていたとしても、万札入りの封筒を手渡してやれば、こちらから何も要望せずとも、『自分は何も見てはおりません! 全てはお上のご判断にお任せ致します!』となるわけさ。そういう連中は、例え、手にした金を数日で散財してしまったとしても、もう二度と余計な口を叩くことはない。事件現場に万が一の視線が存在したとしても、どこの新聞記事にも載っていないわけだ。ふふ、それでも不安かね? 例えば、これを嗅ぎつけてしまった、鼻のよくきく新聞記者がいたとして、後から、この事件は単なる事故ではなく、大いなる陰謀を含んだものであると、どんなに騒いでみたところで、大衆から見れば、それは事実とはならないわけさ。残念ながら、権力とは自己の信用作りのためにあるのでね……。  そして、あれだけの大ごとであったにも関わらず、君が無事で済んだこともこの上なく良かった。あの二人のギャングの無残な遺体は、こちらで跡形もないように片付けておいたので、その点についても、君は何も心配する必要はない。もう二度と、彼らと出会うことも、恐ろしい脅迫に遭うこともないわけだ。地震か道路工事か、その少しの地面の揺れによって、水槽から不意に溢れ出た水しぶきが、たまたま、その顔にかかってしまっただけなのさ。瞬間的には、視界を塞がれて不快な思いはするのだろうが、それで命を失うことまではあり得ない。そもそも、君がその手で奴らを死に追いやったわけではないし、諜報機関に要望を出したわけでもない。自分の膨張した欲望に殉じた人間たちのために、何も気に病む必要などないはずだ。今日は思い苦しむことになろう。だが、明日からはまた、美しい太陽の下での平凡な日常が戻ってくる。すべては済んだことなのさ」 「そういうことでしたら、一つだけ、お聞きしたいことがあるのですが」 「何でも聞いてくれたまえ。君には尋ねる権利があるし、私にはどんな手厳しい問いにでも答える義務があると信じている」 「こういう悲惨な出来事が起こった後に、必ずといってよいほど、私の記憶から、事件前後に自分が確かにとったはずの思考や行動の主要な部分が、ベテラン漁師がサンマの大群を大網で救ったかのように、ごっそりと抜け落ちているのですが、こういった奇妙な事実は、あなたがた高級官僚の仕業なんですか?」  その鋭い問いに対して、書記官は一度口を結び、顔は下を向き、物事を深く考えるときの癖なのか、万年筆のキャップで、トントンと机の表面を何度か叩いて、ある程度考えをまとめてから説明を始めた。 「いや、決してそのようなことはない。我々高官の意思によって、特定の人間の記憶を恣意的に操作するなどということは、これまでにだって、一度もしたことはないよ。いったい、誰がそんな残酷なことを……。ふむ、しかし、その顔はあまり信頼していないようだね。私だって人間だ。嘘をつく可能性は否定できない……。しかしね、その点については大丈夫さ、間違いないと、ここで約束をしようじゃないか。何なら、ここでがっちりと握手して見せたっていいくらいさ。いいかい、君があの事件の主要部分の記憶を失ってしまっているのは、あの忌むべき手術によって、体内に無理やり秘密を埋め込んだ際のショックが記憶能力にいくらか害を及ぼしているのかも知れないな。もちろん、君の体内に秘密そのものを埋め込むという裁決を主導していたのは、我々だがね……。あの手術を受けた当事者である君には、ひとつだけ認めてやってもいいが、胸部に秘密を埋め込むという大手術を行うことについて、契約を結んだ際には、お互いの同意があったわけだから、こちらだけの不手際とは言えないだろう……」 「ですが、秘密という社会の劇毒が我が身に埋め込まれてから、たった数年の間だけで、こんな不愉快な事件が、もう何度となく起こっているというのに、私の記憶には、いつもその恐るべき事件の詳細が何一つ残っていないんです。過去において、秘密に迫ってしまったがために、貴方の命令により、この世から抹殺される羽目になってしまった人々の顔も、今となっては、その欠片すら思い出せません。その上、今回の事件では、幾人もの猛者をあっさりと葬り去った、あんな強烈な化け物の印象が、事件の唯一の生き残りである私の記憶からも、まるで、グラスの氷が時流に敗れて、音もなく溶けていくかのように、そのことを誰一人として注目していないかのように、すでに消え去ろうとしているわけです。あの怪物がどのような顔をしていたのか、どんな獰猛な声を張り上げていたのか、何故、あの時に限って、都心にほど近い場所に匿われていたのかも、今の私には、思い出すことは出来ない……。それが、どうにも息苦しい……。こうしているうちにも、少しずつ、霧がかかったかのように、秘密自体が意識の内でレースのカーテンのように透けていくのです。おそらく、このまま夜が明けてしまえば、私の意識や記憶は完全にリセットされ、自分のことを危険な事故になど一度も出会ったことのない、一般的なサラリーマンだと思い込み、事故以前と同じように平穏な生活を続けていくことでしょう。会社では、みんなが私のことを秘密以外は何の特徴も持たない青年社員として、扱ってくれます。私は前日と同じように、自分でさえ詳しくは知りもしない秘密を、周囲に勿体ぶったり、仄めかしたりしながら、悠々と暮らしていくわけです。自分の喉元に刃が迫ってくる危険な体験という、一刻の記憶さえ失ってしまえば、人は過去と同じ失敗を際限なく繰り返すものです。つまり、またしても、たった数ヶ月の平和の後に、裏社会に潜む怪しい連中に嗅ぎ付けられて、またしても、凄惨な事件に巻き込まれていくわけです。  私にとって一番重大な疑念は、『汚れた金の残り香を嗅ぎつけてくる連中というのは、こちらがどんなに懸命に隠そうとしても、必ずや自分の秘密に狙いを定めて、後を付けてくる』という非常に肝心な部分だけが、このもっとも大切な部分だけが、おそらく、誰かの思惑によって、記憶の泉の中から、すっぽりと抜け落ちてしまっているということです。自分の身の上に、あんな衝撃が起こりうるということを、もし事前に知っていたならば、私はもっと自分の身辺に気を使い、あなた方高官に対して、空手有段者のボディガードなど、屈強な護衛を要求したはずなのです。現状では、夏場ならば、Tシャツ一枚でぶらぶらと買い物に出ていても不思議はありません。いつ背後から鋭利な刃物で襲われても、まったく不思議はありません。高校生の二人組程度でも、樫の木の太い枝一本でも持てば、私を打ち倒すことくらいは容易に出来るでしょう。一人の平民に、国家の指令として、これだけ重要な任務を課せられるのであれば、薄給のサラリーマン生活など、やってはいられません。余りにも、分に合わない生活です。大多数の国民に、私の抱えている偉大なる任務や、果てしない苦労が、ほとんど伝わっていないことも納得が出来ないのです。どうも、思うところでは、社会の情勢が上下でも左右でも、どう転がっていこうとも、結局のところは、政権に関与している一部の高官だけが、その転がる先を見て、楽しんでいるようにさえ思えるのです。私という存在が、この国にとって本当に大切であるのならば、少しの危険が迫ったと判断できるときでさえ、大銀行の一番奥にある、侵入不可の巨大金庫の中にでも匿って貰えるはずなんです。そうでなければ、私は秘密を包んでいるだけの、ただの薄っぺらい抜け殻のようで……」  私は両手の拳を握りしめて、力強くそう訴えた。この議論が始まってから、どれだけの時間が経っただろう? まだ、太陽は空の頂上付近にあるらしい。窓からは強い日差しがさんさんと照り付けて、室内を明るく照らしていた。それが少し眩しく感じたのか、書記官は一度ソファーから立ち上がり、窓の外の光景を一度眺めて、何も異常のないことを確認すると、慣れた手つきでカーテンを閉めた。私の強い訴えに対して、彼がどのように感じているのか、『なかなか、鋭い意見をぶつけて来るじゃないか』と思って感心しているのか、それとも、『不満を吐くようになったか……。こいつも、そろそろ捨てどきだな』と思って蔑んでいるのか、彼のギリシャ彫刻のような、冷静沈着なる表情からは、まるで読み取れなかった。 「おそらく……、以前にも同じことを話したと記憶しているが……、いいかね? 我々としては、秘密の保持と同じくらい真剣に、君の幸せと平穏無事を願っているのだ。記憶の操作や裏組織との情報のやり取りなどは断じてしていないと誓おう。君が身分不相応の大それた秘密を抱えながらも、一般の人とほぼ同じような生活を送れるように、常日頃から善後策を講じているわけだ。もし、大切な記憶が忽然と消えているとしたら、それは、普段の充実した生活を送っているうちに、度を超えた満足感に浸りきってしまい、脳の活動の一部として、自然とそれを忘れ去ってしまっているんじゃないのかね? 人間という生物は、常に自分にとって、もっとも都合の良い記憶だけを虹色の箱に残したがる。記憶の鍵を失くしても、開くことが出来るのはその箱だけだ。自分の生活は危険に晒されていて、常にマスコミ関係の誰かにその行動の一部始終を覗かれていて、いつギャングやマフィアに背後から襲われるかもわからない人生だ、などとは決して思いたくないものなんだ。自分は誰にも持ち得ない立派な秘密を心の底に隠し持った、特別な人種なんだと、自分自身を美化したいだけなんだよ。ある種の肥大した妄想にも似たその思いが、余りにも強力すぎて、悪い方向へと膨らんでいってしまい、今回のような忌まわしい記憶を、あやふやなものにしているんだ……。激辛の中華料理と甘ったるいイタリアンワインを一緒に口にしても、舌の上では上手く混ざらないのと同じさ」 「本当にそうなんですかね……。しかし、どんなに日常に忙殺されていたとしても、あんな強烈な化け物を何度も目にしておきながら、その外見や行動の印象を完全に忘れうるものでしょうか?」 「残念ではあるが、この世界においては、簡単に起こりうることだね。何しろ、この広い世界において、自分一人だけが秘密を持っているのだ、という自尊心には、それほど大きな心的作用を単純なる人の精神の内部に起こさせるものだからね。その勘違いが発生する前と後とでは、まったく別の人間になると断じてもいいほどなんだ。例えば、多くの大衆の目を惹く、シンデレラストーリーを経て、スーパーアイドルになった若く可憐な女性などは、元の自分、高校生の時分に同級生にいじめられていた自分や、学費が払えなくて、定食屋で皿洗いをしていた当時の自分の姿などを、わざわざ思い出したりはしないだろう? 数百万円のドレスを着飾って、咲き誇る真っ赤な薔薇のような笑顔で、テレビカメラの前で華麗に歌い、社交界を取り仕切るプロデューサーや元女優の貴婦人たちからは、毎晩のように素晴らしいパーティーに招待される。少しはにかみながらも優雅な態度を崩さずに出席する、まさに、ガラスの靴で階段を昇りつつある自分の姿しか見えていないはずさ。そう、成功者の寝室の鏡には、呪われた深夜になっても、落ちぶれていた過去の自分の姿などは、決して映らないものだからね。今だけを凝視しているからこそ、必然的に過去の記憶は、まるで他人のもののように遠ざかっていく。それは誰にだって起こり得る、ごく自然なことなんだ。むしろ、人間はそうでなければならない。だって、そうだろう? 周囲の人間のちょっかいに対して、いちいちびくびくしていた過去の弱々しい自分の外見を思い出すことなんて、屈辱を通り越して、輝かしい未来の足枷になるだけさ。もちろん、君が時間の流れとともに、過去の様々な事例を忘れていくのは、非常に良いことだ。その上で、秘密のある無しを武器にして、あるいは、それを口実にして、自分の力量以上に出世したり、自分が特別な人間であるかのように家族や知人に説いて、それを自慢話にしたり、普段なら、指の先を何メートル伸ばしても届かないような美少女を口説いたりすることだって自由だし、君の人生にとっても、そういった行為の全てはとても有益だ。我々もそれは止めたりしないよ。何しろ、秘密という存在を創り出すことによって、世の愚かな人々の注意が、なるべくなら君の方へと向くようにと、仕向けているのは、誰あろう、この我々なんだからね」 「今、恐ろしい事実を簡単に仰いましたが、その思惑にはどのような意味があるんですか? 私のようなつまらない市井の人間が、国家最大の秘密を持つという理由だけで、マスコミ各社に追い回されたり、必要以上に一般人の興味を引くということが、政治や行政にとっては、どのような効果があるというんですか?」
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