私は秘密を持っている 第九話

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私は秘密を持っている 第九話

 信じがたい出来事が起こってしまってから、いったい、どれほどの時間が流れたのだろうか。その出来事の中で自分が果たした役割についても、さっぱり、わからない。今となっては、それがいつ起こったのかさえも、すぐに認識できるはずもないのだ。単純に表現するなら、あの信じがたいほどの不幸な事件が起きた際の記憶は粉々になって、大気の中に霧散したか、それとも、この星の何処かの深い海の底へ消え去ってしまったのだ。私の命は守られたようだが、秘密の正体についての情報はまたしても全て失われてしまったようだ。  そもそもの始めから考えてみよう……。自分は一般的なサラリーマンであり、秘密も重大な事故も何も体験してはおらず、ただ、正常な生活を送っていただけなのだろうか。それとも、また、何週間にもわたって意識を失ったり、普通に活動が出来るようになったりを際限なく繰り返しながら、まるで、脳に深い損傷を負った重病人のように、精神病棟の一室のベッドの上に縛りつけられて、一般の目に触れないように隔離されていたのだろうか? ここに運び込まれる以前の記憶が、ばっさりと途切れてしまった今となっては、例の一日の全ては謎となり、もはや、何もわからないのだ。ここは明るい未来のどこかへと通じている、太い道の途中経過なのかもしれないし、私はこの歳になって未だにスタート地点にいるのかもしれない。背負いきれぬ重い記憶の束を、自分の意志により強引に消し去ったのかもしれないし、通りすがりの何者かが、テーブルランプの灯りでも吹き消すかのように、跡形もなくすべて抹消していったのかもしれない。『体内に重大な秘密を植え付けられた気がする』という私にとっての第一歩の記憶から始まる、これまでの人生の各種イベントが、実際にはその全てが幻想と嘘で塗り固められたものであった、という悲しい事実の確認だけでも何とか取りたかった。しかし、おそらくは、それすらも叶わないのだろう。  気がつくと、私は白い壁に囲まれた、とても狭い、まるで学校の医務室のような、無機質な空間に仰向けに寝かされていた。体内に栄養補給剤を通すための幾つもの透明なチューブが皮膚の上に突き刺さった状態で、この部屋にたった一つしか置かれていない患者用のベッドの上に横たわっていた。意識がはっきりとしてきてからも、まるで鉄製の鈍器で激しく叩かれているような、強烈な偏頭痛に何度となく襲われることになった。数時間にも及ぶ深刻な手術の直後のようであったが、なぜ、こんな空間に閉じ込められて生かされているのだろうか? これまでの記憶を呼び起こすことも、これからの善後策を講じる事すらも、まったく出来なかった。今にも誰かが駆け寄って来て、私を抱きしめて慰めてくれるような気がしたし、反対に次の瞬間には邪魔者扱いを受けて、あの世に送られてしまうような不安も感じていた。思考回路が正常に動き出すまでは、じっと、真上にあるシミひとつない白亜の天井を見上げていた。自分がまだこの世に在る魂として、あの凄惨な現場から特殊部隊に救出され、命からがら抜け出してくることができた事実を、しっかりと実感できたのは、ずっと後のことだった。  担架に乗せられて、ここに運び込まれてから幾日も経ってから、自分がどこの何者で、どんな使命を帯びた人間なのかを思考していく能力は少しずつ蘇ってきた。その頃になっても、視界はまだ随分とぼやけていて、強力な全身麻酔の効力によって、指先すらまともには動かず、ただ、鋼鉄製のメスやハサミと思われる医療器具が、自分の顔のすぐ横で、かちゃかちゃと聞き苦しい金属音を立てているのを聴いていた。『大きな交通事故に遭ってしまったらしいんですよ』『ねえ、とにかく、運が悪かったですね』『傷口の損傷が大きいので、完全に元に戻るかは未知数だそうで……』朦朧とする意識の中で、本当に自分に向けられているのかもわからぬ、そんな囁き声を耳にしたはずだが、その内容は、まったく真実とは異なることが、声の調子からも、すぐにわかった。幻想と想像の狭間にいる私の知性に対して、今のうちに間違った認識を植え付けようと訴えかけてきているわけだ。 「そろそろ、ベッドから降りて、床の上に立ち上がってみたいのですが。それは可能でしょうか?」  ベッドのすぐ近くに誰か看護人がいることは、意識を取り戻したとき、すぐにわかっていた。その人は私が夢から覚めて意識を保っていられている間は、ひと時もベッドから離れないらしかった。これまでの経過から鑑みて、私が気をおかしくして、自殺を図るのではないかと考えていたらしい。意識が戻ってから、五日ほども経った頃、勇気を振り絞って、そう尋ねてみた。  後になってわかったことは、私があの事件の直後に運び込まれたのは、病院などではなく、ベッドの隣に影のごとく佇んでいたのは看護婦でもなかった。彼女はおそらく防衛庁の諜報部門に属するスタッフのひとりであったのだろう。『秘密』という重要な部門における危機管理について担当しているのだ。その冷静な声から、私が例の化け物によってあっけなく打ち倒され、瀕死の状態にまで追い込まれ、現場に駆けつけた救急隊員によって、すぐさまここまで運び込まれたこと。そして、そのまま、もう数日間にもわたって、意識を失っていたことなどを知らされた。事の発端は、私が自分からヘマをして、ならず者たちに捕えられてしまったことであることは、彼女の口から、すでに各省庁の上層部へと報告されてしまったはずだ。あの人は本当にどうしようもない、どうにも使えない男なのだと。まことに遺憾ながら、それは明確な事実であり、どのように蔑まされても致し方がない。ただ、ベッドの横に立つ彼女は、一応は心配そうな顔をして、自分に出来る限りの哀れみを込めて、優しく話してくれた。それは決して演技とはいえまい。どうやら、この私が何度となく、同じような状態にまで追い込まれていることを知っているようで、『万全を尽くしても、秘密を守るのは容易ではない』という悲しい事実を目の当たりにして、余計に哀れんでくれているようだった。 「何にしても、秘密が守られて良かったですね。誰にとっても、それが一番大切なことなのですから……」  私の点滴剤を新しいものに取り替えながらも、何とか慰めてやろうと、彼女は静かな声でそんなことを呟いた。その瞬間、月見草の花びらが夜間の一刻に突然花開いたかのように、私の記憶の全ては、大多数の関係者から、ものの見事に見捨てられたことへの怒りとともに蘇った。 「おい、君にいったい何がわかるというんだい? 命を賭けて職務を遂行した人間に対して、年から年中、内勤でのうのうと過ごしている人間が、かける言葉なんて、そもそも在るのかい? 血や殺意や恐怖といった概念では、とても表現できないほどの大事件が起きたんだよ。相手は私の中に眠る秘密を求めていた。渡さぬなら、貴様を殺害することも辞さないと喚いていた。何とか逃れようとしたけど、否応なく巻き込まれてしまって……、あれはまるで悪夢だった……。まったく、私が持っている秘密とは、とんでもないものなんだ。とてつもない価値を秘めているものは、常に人の心を狂わせるからね。心の中の秘め事一つのために、あんな惨劇が起きてしまうとは夢にも思わなかった……。目の前で地上のありとあらゆる生物の欲情が破裂したように見えた。そのために人間が否応なく食い殺されていくなんて……。どんなに存在意義のない人間であっても、ああいう死に方をすべきじゃない。あの解決方法では、決して、こちら側の正義の表明にはならないはずだ……。あんな凄惨な光景は、もう二度と見たくないよ」  私の心はまだ激しく動揺していて、あの底知れぬ恐怖からは、当分の間、立ち直ることは出来ないだろう。せめて、目の前にいる純情そうなスタッフにだけは同情してもらおうと思い、そのように告げた。人はいくつになっても、女性からの同情を欲するものなのだ。 「あなたに埋め込まれた秘密は、複雑な社会構造の片隅において、遥か昔に必然的に生まれたものであって、いつの日にか行政によって最新の記憶忘却装置が発明されて、処理し終わるまでは、第三者が手に入れてはならないもの……。そのことは、この世界に生きる、大多数の人が、すでにわかりきっているものとばかり思っていました……」  女性スタッフはまたしても悲しそうな表情に戻りつつ、そのように答えた。彼女は秘密を巡る見苦しい勢力争いが、またもや起こってしまったことについて、上官からある程度の情報を知らされているようだった。しかしながら、その内実がいかに凄惨であったか、までは知らされていないように思えた。例えば、中高生の歴史の教科書で戦争の被害は教えるだろうが、亡くなったほとんどの兵士が飢餓で発狂して死んだり、腕や足を爆風でもぎ取られた姿で、無念きわまりない思いのままに、この世を去ったことまでは教えないだろう。そこには、様々な思惑がある。良かれと思ってのことなのかもしれないが、どちらとも取れるその半端な思いが、新たな秘密を創り出してしまうこともままある。しかし、だとすれば、重傷を負った私を、あの現場からここまで運ぶように指示を出したのは、いったい、誰なのであろうか。生身の人間を次々と喰らっていった、あの巨大な怪物が暴れ出す以前に現場に着いていて、あの異常事態に勘づいていなければ、警察やマスコミ記者に先を越されてしまい、秘密はとうに暴かれてしまったはずだ。私の他にも、あの現場で例のやりとりを見ていた人間がいたのだろうか。 「意識が戻られたなら、ぜひ執務室まで来てほしいと書記官が申されていました」 「すぐにでも行きたいな。こちらだって、彼と面と向かって話したいことが山ほどあるんだからね。『絶対に危険はない任務』だなんて言われて引け受けたけれど実際には、こんな目に遭わされながら、『危ないところを救助していただいて、誠にありがとうございます』なんて、頭を下げる奴がどこの世界にいるもんか。例え、パンダの檻の内部であっても、私の暴言で戦場にしてやるさ。そのくらい熱くなっているんだ。つまりね、礼服を着る気になんてなれないわけだが、この恰好で書記官と接見しても大丈夫なのだろうか?」 「ええ、書記官としても、あなたの元気なお顔をご覧になれば、随分ご安心なさると思います。今回の事態を知らされて、今後のことをずいぶんと憂慮なさってました」  私の全身の拘束具は解かれ、腕からは点滴の針を外されると、真っ白なパジャマを着たまま、ベッドからゆっくりと降りてみた。まだ、身体のあちこちが痛かった。この後遺症はしばらく消えないだろう。ギャングに脅迫されたときに、顔面や腹部を何度も殴られたような記憶が蘇った。ただ、彼らもすでにこの世を去っていることを思えば、今さら恨む気にもなれない。あの場面において、ことの本質を正確に伝えきれなかった自分にも、一定の責任はあるのだろう。  部屋の外へ出てみると、ここは例の省庁の最上階の一角であることがわかった。以前にもこのどこまでも続く純白の廊下を、誰かに導かれながら、歩いた経験がある。まるで、建てられたばかりのビル内部のような、清潔で清々しい匂いを覚えていた。床には埃ひとつ付いていない、真っ赤な新品の絨毯が敷かれていた。一日にたった数人しか、ここを往復していない証拠だった。窓の外には、日中の平和な都会の様子が一望にできた。やっと、現世に戻ってこれたような気がした。表の広場の全面には隅々まで陽が当たって明るいわけだが、このビルの内部は様々な悪徳情報を隠匿しているために暗く感じるのだろうか……。通行人の誰もが、先日起こったばかりの、あの惨たらしい出来事を知らされていないようだった。はしゃぎ回っている子供たちの純朴そうな表情でそれが分かる。まだ、最悪の事態は起きていないということだ。普段は皆が皆、他人が隠し持つ秘密を、何とか暴き出してやろうと、躍起になってその後を付け回して来るくせに、いざそれが裏社会から顔を出した悪人によって暴かれしまっても、少しの、危険な匂いを感じとったというだけで、誰一人として、その事実を手に取ろうとはしないなんて……。容易には手が届きそうには思えない情報であるからこそ、他人がコートの右ポケットの一番奥に隠している情報には膨大な価値があるのだろうか……。私は実に不思議な感情を抱きながら、たった一人で、その長い無音の廊下を歩き、執務室の豪奢なドアをノックした。 「よく来たね、どうぞ、入りたまえ」  部屋の内部からは聞き覚えのある声が響いてきた。つい最近、語りあったことのある間柄の人物がいるようだ。ただ、分厚いドアの外からでは、声の主の詳細な人物像は、なかなか浮かんでこなかった。私は内心警戒をしつつも、ドアを静かに開けて、この建物の中でも、ひときわ広い豪奢な部屋の内部へと進んだ。洋風の花瓶に黄色の華やかな花が生けてある、その鮮やかな色彩が、最初に網膜まで飛び込んできた。書記官は奥の豪華なソファーに、この間、会ったときとまったく同じような体勢で、身体をこちらへ向けて、こちらを不要に警戒させぬように、余裕の表情を浮かべながら座っていた。部屋のあちこちに視線を巡らせてみたが、どうやら、ここには我々二人しか居ないようだった。  ここは彼個人が占める特別室になっていて、一般の官吏が通常の業務で簡単に踏み込めるような部屋ではない。内閣府から特別な許可を与えられた、エリート官吏だけが、ある種の特別指令を受けるために、入り込める部屋となっている。与えられた任務は、その全てが隠密行動となり、与党の有力政治家たちでさえ、その詳細を知ることはない。私についていえば、その指令の詳細とは言うまでもなく、今後の処し方が国のトップによって決定されるまで、この重大な秘密を、長期間にわたり保管することである。私の体内に埋め込まれた秘密は、今後の我が国の政治的運営にとって、どうあるべきなのだろうか。警察、軍隊、マスコミ、裏社会、二重スパイ、全ての目がここに注がれているわけだ。もっと踏み込んでいえば、私という存在の両手と両足を左右から引き合い、綱引きをしている。  しかしながら、最大の鍵を握っているのは、今現在、私の眼前に座っている、この男である。彼は私の復活をその目で見ても、まだ、少し笑っていた。巨大な秘密を生むも消し去るも、全ての判断は、彼の一存によって決定されるといっても良い。我が国では最高クラスの権力者ともいえるが、この世で最大の悪人という捉え方も出来るだろう。正直にいうと、彼と面と向かって会話をすることは、いつも、この上もなく怖いことだった。彼の選ぶ、今後の方針によっては、私の持つ秘密の全ては意味の無きものとされ、その瞬間、私の存在自体が無価値になるからだ。他人から、『ぜひ、隠し持っているそれを見せて欲しい』とせがまれるような要素を、何一つとして持っていない人間としては、金銭的価値がまったく無くなるわけだ。少なくとも、私は幼い頃からそう教えられて育ってきた。本音を言わせてもらえれば、もう少しの間だけでも、この秘密の所持を許して欲しいものだ。弱い心の動きを見せぬために、そこで不自然に目を逸らすと、壁には、ゴッホのヒマワリが掛けられていて、その花は金色に輝いていた。何の才能も持ち得ないために、権威の歯車となって働かざるを得ない、自分の存在の小ささに、そこはかとなく引け目を感じた。 「例の事件についての話は、現場に向かわせた数人のスタッフから、詳細な報告を聴いたところだよ。君の存在は重要だが、一般的なやり方で始終護衛していくことは容易ではない。秘密を狙う者たちの手口も、年々巧妙になっている……。ただ、SPを付けるだけでは何の対処にもならない。一筋縄ではいかない。今回の場合は、おそらく、無謀にも国家に歯向かう、反社会的組織の息がかかった者たちによる凶行であると思う……。幾らかの金も動いているんだろう……。残念ながら、我々が事前に危険を察知していたとしても、それによって取り得る対抗手段は、決して多くはない。かいつまんで言えば、君が襲われることで、容疑者の身元を特定した後に、処置をするしかないと思っている……。毎度毎度、辛い目に遭わせてしまい、こちらとしては、本当に申し訳なく思っている」
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