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ここへ来て、二日目の夜が来た。
「おれは寝てくる」
男はそう言って部屋を出て行った。
ひとりになった部屋で僕は、昨晩は眠れなかったから今晩は眠りたいと思った。しかし眠気や睡魔はいつまで経っても訪れる気配がない。僕はこっそりと男の後に着いていくことにした。男が普段、どういうところで寝ているのか気になったからだ。足音でばれるとまずいので靴と靴下を脱いだ。余計な服ずれの音も出したくないので下着一枚になる。ある意味危険な姿ではあるが、ばれなければ危険ではない。ぜったいにばれなきゃいいのだ。それにここにきてから誰一人としてすれ違っていない。気配もない。さらに言えば、誰かに見つかったとしてもその相手は感情を失っている。僕の裸を見てもなにも思わないだろう。
少し先に男は歩いていた。あたりを見渡すのでもなく、すたすたと迷いなく進んでいる。もうすでに行くところが決まっているような足取りだった。何回か右左折を繰り返した後、パイプをでたらめにくっつけたようなドアに行き当たる。男はポケットからキーを取り出し、ドアノブに差し込んだ。カコン、と軽い音がしてドアが開く。中からスチームが噴き出し漏れてきたせいで奥が見えない。男は構わず進んでいった。ここで引き返すべきか迷う。ドアの奥で、男が立ち止まるのがわかった。僕は扉の外から中から様子を伺う。スチームの中、男の輪郭がぼやけている。さらにその奥にはなにか巨大なものがそびえているように見えた。男はそれを見上げている。僕もつられて、ドアの先に足を踏み入れる。
しかし、その先に足場はなかった。
「え、」
そのまま前にのめり込むように、落下していく……かのように思えた。実際、もう体の半分は宙の中だった。しかし、僕は落ちなかった。落ちる瞬間、誰かに腕を掴まれ、ドアの手前に強く引っ張られた。
「大丈夫か?」
尻もちをついて唖然としている僕に、眠り男は言った。
「後をつけられてるのは知っていた。だけど途中から、ついてきてないことに気づいて、まさかと思ったらこれだ。ここは人を惑わす。おまえは化かされたんだ」
気づいて僕のことを探してくれたと思うと嬉しくなった。
「ありがとうございます……」
「今度からは気をつけろよ、ひとりで行動するときは特にな」
「はい……」
それから僕たちは眠り男の提案で一度部屋に戻ることにした。部屋に着いて眠り男は引き出しから一枚の紙を取り出した。それはぎこちなく笑っている女の子の写真だった。まだあどけなさがあるけれど、しっかりと女性らしくもあった。
おれの妹だ、と男は言った。
「八歳下でな、高校一年生だった」
「あまり似てませんね」
「美人だろう? 実際かなりモテてた」
たしかに綺麗な顔立ちをしていた。中でも印象的なのが長く伸ばした黒髪。癖がなく豊かで、すとんと真下に落ちている。
「行方不明になったんだ」
男は悲痛な面持ちで言った。
「行方不明?」
「あぁ、当時奈緒子、おれの妹の名前だが、奈緒子は何かに悩んでいたらしい」
「らしいって、確証はないんですか?」
「おれはその時、アメリカでけん玉の全国大会に出場していた」
「けん玉大会?」
「そうだ。けん玉の世界一を決める大会だ。おれはそこで決勝戦まで進んだ。相手はカナダ人のダニエル・ジャクソンでこいつは十年連続世界一を保守している。おれは毎回準優勝。どうやってもダニエル・ジャクソンには勝てなかった。おれはもはや、実力の可否に関わらずダニエル・ジャクソンこそが勝者であらねばならないという国民の集団意識がそうさせているのではないかと思いはじめた。そこでおれは印象操作みたいなものを試しに行ってみた。ダニエル・ジャクソンの後をつけて、例えば彼がマクドナルドをテイクアウトしセントラルパークのベンチで食べ、残したものをゴミ箱に捨てているところを写真に撮り、ゴシップに流した」
眠り男は写真をじっと見たまま語り続けた。
「翌週、ゴシップ雑誌を購入して読んでおれは膝から崩れ落ちそうになった。彼の庶民感覚に親近感が沸くといった内容になっていて、残りを捨てたことはなかったことになっていた。この流れには逆らえない。国民はダニエル・ジャクソンがキングであることを望んでいる。なにか巨大な力によって、正当性は最も容易く揉み消させれるのだ。それからおれはけん玉をやめた。しばらくなにもしない日々を過ごしていた。そんな時に、奈緒子の親友から電話が掛かってきた。三日ほど奈緒子から連絡が途絶えているということ。最後に残したメッセージが『スチールジャングルにきてはだめ』ということ」
「スチールジャングル……つまりここに、妹さんが……?」
「わからない。けれど、おれにはここに来る以外ヒントがなかったんだ。だからおれはここに来た」
「でも、妹さんは来るなって」
「行くよ。来るなって言われても、探すなって言われてもな。それがきょうだいというもんだろう。お節介してなんぼだ」
「眠るところを探しているというのは口実だったんですね」
本当は妹を探すために各地を旅していたのだと思ったが、男の返答は違った。
「それは本当だ。おれは昔から眠るところを探して回っている。まあ、君に協力しろとは言わない。むしろ外は危険だからここにいてくれ。おれは行ってくる。おやすみ」
「おやすみ」
僕はあえて止めなかった。もちろん彼の妹の捜索に協力したいけど、きっと僕は足手まといだ。それならここで待っているほうがいいだろう
久しぶりに眠気が来たことに気がついた。今なら眠れる。そっと目を閉じ、息を整えて、僕は眠りついた。
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