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「夢島のとこの母ちゃんってさ、どこにいんの?」
七月。一学期の終業式が終わった後のこと。
「それではみなさん、良い夏休みを過ごしてくださいね」という担任の先生の言葉を受けた瞬間から、教室はすっかり騒がしくなっていた。
がらがら、ばたん。がら、ばたばたん。
……教室の扉が、勢いよく開閉されていく音が響く。
男子たちだった。早く家に帰るんだという気概が伝わってくる激しい音。この男子たちの群れの中には、朝顔の鉢を抱えた奴やその他大きな袋を片手に下げている奴もいた。ただ、荷物の大小には関係なく、この群れはどたどたと騒がしく校門へと足を動かしていった。
せんせーっ、せんせーっ。
……舌足らずでまのびした声音が、教室内に響く。
女子たちだった。一学期最後の先生との会話を楽しむべく、教壇の前をぐるりと囲んでキャアキャア騒いでいる。四年生の頃担任だった田中先生は、明るくて美人な素敵な先生だったから、とにかく人気があったのだ。甲高い笑い声が、くたびれた白い色の天井をツンツン突き刺していた。
僕は、男子の群れ、女子の群れからわざとあぶれてノロノロ行動していた。
その日の僕の頭は、うまく回っていなかった。
きっと、ちゃんと血液が頭にまでいっていなかったんじゃないかなと思う。黒っぽい僕の血たちは、きっと僕の足の辺りでたぷんたぷんと溜まっていたんじゃないかなと思う。
だって、足がとにかく重たくて、……一歩踏み出すのが本当に大変だったのだから。
そういう日だったんだから。
教室の片隅で、ずしんとしている手を動かしながら……僕は、ぼんやりと夏休みの宿題をちびちびとランドセルに入れていた。プリントをわざわざ一枚ずつファイルにしまい込むなんてこともしていたくらい、とにかく、ちびちびと入れていた。
そんな時だったのだ。
――夢島のとこの母ちゃんってさ、どこにいんの?
……タツキが僕に声をかけてきたのは。
タツキ。――本名・村上達樹。
同じクラスのクラスメイト。帰り道の方向は逆。共通の友達が二人ほどいる。何回か、近くの公園で野球をして遊んだことがある。……その程度の関係だった。
もうちょっと仲の良い友達は、タツキのことを「タッちゃん」って呼んでいたけれど、僕はなんとなく呼ばなかった。
苦手……というわけではないけれど、ちょっと、ビクリとしてしまうのだ。タツキの、……目の辺りなんかを見ると、特にビクリとしてしまう。
タツキの豆粒みたいな焦げ茶色の瞳が、蛍光灯の光にあたってチロリと光った。細長い白目の中にはめ込まれたそれは、抜け目なくぬるぬると動く。
それがとても気味悪く見えて、僕は小さく息を飲んだ。
「おい、聞いてんのかよ。だんまり決め込んでんなよ」
ふいにタツキが、威圧的な声を上げた。語尾を強めに伸ばして、「イラついている」というのを露骨に態度に出す。
そして、何回か瞬きをする。あの焦げ茶の豆粒が、嫌な感じで見え隠れしてみせる。
僕の心臓が、どどくん、と不規則な感じで揺れた。
――夢島のとこの母ちゃんってさ、どこにいんの?
タツキからかけられた言葉が、何回も何回も……しつこく頭の中を響き渡っていた。
ぐるぐる、言葉は巡っていく。
血が回っていない、空っぽな頭の中を、巡っていく。
――夢島のとこの母ちゃんってさ、どこにいんの?
指先にじんわり汗がにじみ出てきて、……ざらざらした紙に吸い付く。
ぐしゃ、と手元のプリントが嫌な音を立てた。
ちっ、という舌の音が聞こえた。……目の前から、至近距離で。
反射的に、僕の肩が震える。
答えなきゃ、できる限り自然な感じで……と僕は思った。
だってほら、世間的に見てもよくあることじゃないか。
タツキに対する僕の返答は、平凡そのものとなるはずだ。
おかしくない。変じゃない。意識しすぎるのがよくないんだ。
それに、母親だけが子どもの全てじゃないわけだし。……片方がアレだって、僕にはちゃんともう一人の親がいるんだから、別に……。
(あ、そういえば、今朝から父さんの姿を見かけてないんだった。)
「……どこって、……え? ど、こ?」
気づいたら、僕の口から情けない空気の音が飛び出していた。気の抜けた息に押し出されて、言葉がへろへろ零れていく。
いや、……“あんなもの”を「言葉」と呼ぶのは、おかしいのかもしれない。
「ど、どど、……どこって、……どういう意味?」
引きつった表情筋の張りまで、よく覚えている。無理に笑おうとしたんだ。
……逆に笑われて終わりだったけど。
誰に笑われたのか。どんな顔をされたのか。
その次に、なんて言われたのか。どんな声の調子で、なんて言われたのか。
この会話の後、僕がどういう風に家に帰ったのか。
全部覚えている。
覚えているから、もうこれ以上は思い出さない。
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