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「今日の五時間目、体育なんだよね」  一日の時間の中で、「朝」という空間だけが、異様なスピード感を秘めている。  今日もそうだ。  僕がパンをかじったり歯を磨いている間に、父さんは書類のチェックをしていたりスーツをびしりと着込んだりしている。  「ワイシャツにアイロンかけてくれないか」と申し訳なさそうに声をかけてこない限りは、僕たちの間にはまともな会話は成立しない。少なくとも、父さんから話題を振ってくることはないのだ。  ……まさに絶好の「嘘をつく」タイミングである。 「今日の五時間目、体育なんだよね」  玄関の上がり框に腰をおろしていた父さんに、僕はもう一回声をかけた。父さんは革靴の紐を解いている最中で、真後ろの僕の言葉に気が付かなかったらしい。  僕は、さっきよりも少し声を高くして声をかけた。  すると、父さんの広い肩が軽く上下した。そして、くる、とこちらへ体をひねってみせた。 「ん? ああ……そうか」  僕の体の、軽く二倍は厚みのあるゴツゴツした体が向けられる。  影が深い焦げ茶色の瞳が、僕をどんより映し出す。 「サッカーするんだ。今日」 「ああ、そうか。頑張れ」  低い声が、一定のトーンで僕を励ます。  次の瞬間には、その四角い顔はまた足元の革靴へと戻っていた。  革靴の紐を解き終わった父さんは、近くにあった靴ベラを手に取った。靴の舌革の部分をしっかりと掴み、靴ベラを使ってかかとをしっかりと滑り込ませた。両足とも革靴の中へすっぽりと納まったら、細い靴紐に指を伸ばして、するすると蝶々結びにしていく。  はっきりとした動作だった。……僕に対する返事より、よっぽどしゃきしゃきしていた。  そんな風に思いながら僕は、足元に置いてあった鞄を手に取り、すっくと立ちあがった父さんへと手渡した。鞄を手に取った父さんは、小さくその場で頷いて見せた。 「じゃあ、行ってくる」  そう短く言うと、その長い足で前へ二三歩すたすたと進んだ。これまた長い腕を伸ばして、金属質な玄関の扉に触れようとしている。 (……よかった。)  僕は、父さんのいつも通りな一連の流れを見ながら、小さく心の中で呟いた。 (今日もいつも通り、朝から嘘をつけたぞ。)  玄関に響く、バタン、という扉の音を聞きながら……僕は少し息をついた。  ただのため息じゃない。安堵のため息だ。  ――最近は、朝から一個嘘をつかないと、心がざわざわして仕方がないのだ。
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