おやすみ、マーテル

1/2
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
 僕は『変わり者トビィ』として町中に知られている。  宝くじで生涯暮らすのに困らない金額を当てた数年後に交通事故で亡くなった、両親から受け継いだ莫大な遺産があるので、生活に心配は無い。  両親が建てた豪邸を売り払い、町外れの小さなアパルトメントの一室を借りて、時折来るオカルト雑誌のライター仕事をこなして暮らす日々。  美容室に行くのが面倒で、髪はもじゃもじゃ。髭は時々剃り忘れてザリザリ。そんな姿に加えて定職に就かない所から、町の大人達には敬遠されている。  だけど、子供達には何故か人気だ。多分、僕の所へ来ると、必ずおやつとお小遣いをもらえるからだ。  大人達がそれに目を瞑るのは、自分がお金を出さなくても、子供達が満足するからだ。文字通り現金だね。  そんなある日。  隣の州にある古屋敷に棲む作家の亡霊について、ひとつ原稿を書き上げ、メールで出版社に送信を終えた僕のところに、アンリがやって来た。  アンリは僕の家に出入りする女の子の一人で、お小遣い目当てのほかの子達と違って、僕の他愛無いオカルト話を楽しみにしている。 「トビィ小父(おじ)さん」  いつもは笑顔で訪れるアンリは、酷く暗い顔をして、今にも泣き出しそうだ。 「どうしたんだい、アンリ。快活なレディにそんな悲しい顔は似合わないよ」  そう言いながら、ベリィの香りづけをされたルイボスティーを淹れ、子供には手を出せないお値段なパティスリーのショートケーキを出しても。  椅子に座ったアンリは、今にも零れそうなほど両目に涙を溜めて、膝の上でぎゅっと拳を握り締めた。 「おじいちゃんが、浮気をしていたの」  その言葉に、流石に僕も驚いてポットを落としかける。  アンリの祖父リドック氏は、町一番の愛妻家として有名だった。結婚記念日に、奥さんの誕生日に、なんでもない日に。いつでも奥さんの大好きなヤマモモの花束を買って、プレゼントしていた。 『儂の妻は世界最高の女性だよ! 儂は彼女にぞっこんなんだ!』  時と場所を選ばずにそう言っては、隣で照れ臭そうにはにかむ奥さんの肩を抱き寄せキスをする、溺愛ぶりだった。  十年前に奥さんが先立った時は、一ヶ月間おいおい泣いて、ふくよかな身体が一回り縮んだ。  それからずっと、月命日には、ヤマモモの花束を買って、墓前に供えていた。  そのリドック氏は先日亡くなったのだが、アンリ曰く、その亡くなる間際の発言が、大問題を引き起こしたのだという。 『おやすみ、マーテル』  そう言って、とても幸せそうな笑顔を浮かべながら、息を引き取ったのだとか。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!