ハーブティー

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ハーブティー

◆◆一〇〇文字の処方◆◆  手を握り、目を閉じるよう指示。そっと口を開かせ、シンマムン内用液〇・五ミリリットルを含ませる。  苦味が強いけれど、かすかに甘味もあるという。服用は空腹でないときがよい。 ◆◆四〇〇文字の薬理◆◆  手を握る。目を閉じるよう指示する。シンマムンは錠剤と内用液があり、内用液の方が作用発現がやや早く、また嚥下も楽だ。開かせた口にシンマムン内用液〇・五ミリリットルを含ませると、薬剤はその身体に浸透し、心臓の鼓動を全身で感じるようになる。握った手を伝って、拍動が次第にシンクロを始める。ドクン。ドクン。手を握っているのは私で、握られているのは貴女で、けれど握られているのはやがて私になって、握っているのが貴女になって。ドクン。ドクン。曖昧になる境目、私と貴女は違うけれど同じで、同じだけれど違う人間で。  薬が貴女の隅々まで行きわたると、貴女の体からこわばりが解けている。目を開いて私を見る貴女。強い苦味があるはずの薬だけれど、かすかに甘味もあると貴女。昼食はまだだという。本来は空腹時を避ける。 ◆◆八〇〇文字の処置◆◆  手を握るとわずかに震えていた。大丈夫だよ、と伝える声は医師のそれではなく親しい者としての色が濃かっただろう。目を閉じるよう指示するのは不安感を取り除かせるのが目的だ。私の声を聞くと、貴女はギュッと強く閉じた。シンマムンは錠剤と内用液があり、内用液の方が作用発現がやや早く、また嚥下も楽なので、導入初期の場合はたいてい内用液を使うようにしている。開かせた口にシンマムン内用液〇・五ミリリットルを流し込む。含んだ口から薬剤はその身体に浸透し、心臓の鼓動を全身で感じるようになる。握った手を伝って貴女の拍動が、私の拍動が、次第にシンクロを始める。  ドクン。ドクン。手を握っているのは私で、握られているのは貴女で、けれど握られているのはやがて私になって、握っているのが貴女になって。曖昧になる境目、私と貴女は違うけれど同じで、同じだけれど違う人間で。  薬が貴女の隅々まで行きわたると、貴女の体からこわばりが解けている。代わりに私の身体にかすかなこわばり。目を開いて私を見る貴女。貴女の目に映るのは白衣の私。それは貴女で、私は貴女を見つめているのに私自身を真正面から見つめている。けれど鏡ではなく貴女はちゃんといて、私と貴女はこの手でつながっている。温かくもなく、冷たくもない手。触れていることがとても心地よい手。強い苦味があるはずの薬だけれど、かすかに甘味もあるということは貴女が教えてくれた。私にわからないことは貴女が。貴女にできないことは私が。 「お腹空いてない?」  昼食はまだ食べていないのだという。この薬は、空腹時を避けての服用が推奨されている。手をつないだまま近くのカフェを予約した。 ◆◆二〇〇〇文字の経過◆◆  貴女が丸く大きなキクのような花をほぐしていくのを眺めていた。どうするのかを問う。 「ハーブティーにするの」  ほぐしながら教えてくれた。キョウメイギクというキク科の花なのだそうだ。 「英語名は、何だったかな、シンクロマム、だったかな」  そちらの名前なら聞き覚えがある。最近認可が下りた薬の名前の由来だったはずだ。  陶器のポットとティーカップ二つをお盆に載せて、貴女は私の隣にやってくる。とぽとぽとカップに注がれた液体は、ほんのりと黄味を帯びている。 「熱そう」 「熱いわよ」  そういって貴女はそっとカップの中身をすすった。ちょっと苦いわ、なんていう。私もカップを手に取り口をつけ、熱っ、とすすれないままだったのを貴女は笑った。ふうふうと吹いて、やっと少しを口に含む。嗅いだことのない香りがするのはわかるが、やっぱり味はわからない。私は味覚を失って久しい。貴女が美味しそうに飲むので、きっと美味しいのだろうな、と思いながら飲むと美味しい、ような気がする。  原因不明の【喪失】という病が流行り出したのはいつの頃からだろう。名前も知られていなかった頃に私は発症し、治療法はもちろん確立されていなくて、そうして味覚を失った。今はいろいろいい薬が出ている。  そして、貴女も、【喪失】の病魔の手にかかった。発覚したときには既に手遅れで、失うこと自体は免れそうになかった。だからせめて。穏やかな喪失を。  そのための処置計画はセオリー通りに組んだ。事前説明もマニュアル通り。そうすることで私は毅然と振る舞えたし、毅然と振る舞ったおかげで貴女が怯えるのを少し、緩和出来ていたと思う。処置室。手を握るとわずかに震えていた。大丈夫だよ、と伝える声は医師のそれではなく親しい者としての色が濃かっただろうけれど。目を閉じるよう指示するのは不安感を取り除かせるのが目的だ。私の声を聞くと、貴女はギュッと強く閉じた。  シンマムンは錠剤と内用液があり、内用液の方が作用発現がやや早く、また嚥下も楽なので、導入初期の間はたいてい内用液を使うようにしている。  シンマムン内用液〇・五ミリリットルの封を切り、私は吸い、くちづけで貴女に薬剤を流し込む。含んだ口から薬剤はその身体に浸透し、心臓の鼓動を全身で感じるようになる。握った手を伝って貴女の拍動が、私の拍動が、次第にシンクロを始める。  ドクン。ドクン。手を握っているのは私で、握られているのは貴女で、けれど握られているのはやがて私になって、握っているのが貴女になって。ドクン。ドクン。曖昧になる境目、私と貴女は違うけれど同じで、同じだけれど違う人間で。ドクン。ドクン。触れている手からピリピリと刺すような痛み。次第に強くなり、手首、腕、肩、半身、全身。これは、こんなものを貴女は抱えて。強い痛みは初め不快ではあったけれど、時間と共に慣れてきて、じっとしていれば耐えられるものになった。貴女が喪失するのは、この、痛みなのか。だったら処置なんかせず、すっぱりと失わせてしまった方が良かったのではないか。医師としての私と貴女の親密な者としての私が揺らぐ。  薬が貴女の隅々まで行きわたると、貴女の体からこわばりが解けている。代わりに私の身体にかすかなこわばり。目を開いて私を見る貴女。貴女の目に映るのは白衣の私。それは貴女で、私は貴女を見つめているのに私自身を真正面から見つめている。けれど鏡ではなく貴女はちゃんといて、私と貴女はこの手でつながっている。温かくもなく、冷たくもない手。触れていることがとても心地よい手。 「こうやって失うの?」  そうだよ、と伝える。この処置を四週間、毎日行う。失うことに体も心も慣れさせ、四週間が経つころには完全に喪失する。貴女は私でない貴女だと、耳で確認する。  強い苦味があるはずの薬だけれど、かすかに甘味もあるということは貴女が教えてくれた。私にわからないことは貴女が教えてくれる。  キョウメイギクのハーブティーの風味に似てるわ、と貴女はいった。その花から抽出されたものが薬効成分だったと記憶している。なるほどね、と返し、丸い花の姿を思い出す。貴女にできないことは私が。 「お腹空いてない?」  そうねえ、と曖昧に頷く貴女に訊くと、昼食はまだ食べていないのだという。この薬は、空腹時を避けての服用が推奨されている。 「すぐに何か食べに行きましょう」  手をつないだまま近くのカフェを予約した。ハーブティーをたくさん取り揃えたカフェ。昼食時は過ぎているから、貴女と二人でゆっくりと過ごせることを願いながら。
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