初めての時間泥棒

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初めての時間泥棒

    初 め て の 時 間 泥 棒 「一〇〇文字」  走った。走った。走った。遠くまで走って、辺りに誰もいない裏路地で手にしたものを確認する。僕の手の中に動き続ける金色の時計。この世界で動いているものは、今や僕とこの時計だけ。     初 め て の 時 間 泥 棒 「四〇〇文字」  そっと手を伸ばして、えいやっと握りしめたと同時に、僕は走って逃げた。  走った。走った。走った。息が切れるほど走ると街外れに着いていた。そのまま裏路地へ滑り込む。辺りに誰もいないことはしっかり見た。呼吸を落ち着けて手の中を確認する。金色の懐中時計。おそらくは機械式。コツコツと小気味よい音を刻んでいる。装飾は美しく、ややずしりとした重さは手に心地よい。走ったことだけではなく盗んだという後ろめたさもあり、僕の心臓はどきどきと早鐘を打ち、気持ちは変に高揚していた。  ただの時計じゃないんだ、これは。  裏路地からひっそり顔を出す。街を行く人々――人だけじゃなくて犬や猫も――は、不自然な姿勢で静止している。本物なんだ。時を司る時計。この広い世界で動いているのは僕と、この時計だけなのだ。高らかに笑いたくなった。笑ってもいいんだと気付いて笑った。     初 め て の 時 間 泥 棒 「八〇〇文字」  添えられているプレートには「時を司る時計」と書いてあった。宝飾品として価値が高そうなものだとは思ったが、ただの懐中時計にしか見えなかった。ベルベットの台に鎮座した時計を守るのは、横に二人の警備員がいるだけだった。ガラスのケースさえもない。盗れる、と思った。  街では頻繁に盗みをはたらいていた。パン屋でパンを盗んだり、肉屋でソーセージを盗んだり、野菜売りの行商から果物を盗んだこともある。そう、食べ物ばかりだ。僕はいつも飢えていた。僕は満足な食事を得るだけのお金を持っておらず、だから盗んだ。盗みはいつも後ろめたかった。けれど盗んで食べないと生きてはいけないのだ。だから僕は必要最小限だけを盗んだ。だけどこの時計を見て、手に入れたい、そう思った。手に入れたい、盗れる、そう考えた自分に僕自身ぎょっとした。  警備員は胸を張って立っている。時計には触れるほどまで近づいて見ることができる。そっと手を伸ばして、えいやっと握りしめたと同時に、僕は走って逃げた。  走った。走った。走った。息が切れるほど走るともうそこは街外れだった。周囲を見渡し、誰もいないことを見ると裏路地へ滑り込む。ぜえぜえと大きな呼吸を落ち着けて、手の中を確認する。金色の懐中時計。おそらくは機械式なのだろう。コツコツと小気味よい音を刻んでいる。装飾は美しく、ややずしりとした重さは手に心地よい。盗んでしまった。生きるのに必要でないものを盗んでしまった。走って逃げてきたことだけではなく、その後ろめたさに僕の心臓はどきどきと早鐘を打ち、気持ちは変に高揚していた。  ただの時計じゃないんだ、これは。  裏路地からひっそりと顔を出して様子を伺う。街を行く人々――人だけじゃなくて犬や猫も――は、不自然な姿勢で静止している。本物なんだ。時を司る時計。この広い世界で動いているのは僕と、この時計だけなのだ。高らかに笑いたくなった。笑ってもいいんだと気付いて大きな声を出して笑った。     初 め て の 時 間 泥 棒 「二〇〇〇文字」  天気が悪く人通りまばらな通りに、鎮座する台座とそれを守るように立つ警備員がいて、なんだろう、と思った。歩いて近寄る。添えられているプレートには「時を司る時計」と書いてあった。宝飾品として価値が高そうなものだとは思ったが、ただの懐中時計にしか見えなかった。ベルベットの台に鎮座した時計を守るのは、横に二人の警備員だけ。ガラスのケースさえもない。時計を見ているものは僕以外にいない。通る人は台座の時計など全く気にせずに過ぎて行く。不用心だな、と思った。そして、盗れる、とも思った。  街では頻繁に盗みをはたらいていた。パン屋でパンを盗んだり、肉屋でソーセージを盗んだり、野菜売りの行商から果物を盗んだこともある。そう、食べ物ばかりだ。僕はいつも飢えていた。僕は満足な食事を得るだけのお金を持っておらず、だから盗んだ。盗みはいつも後ろめたかった。けれど盗まないと、盗んで食べないと生きてはいけないのだ。だから僕はせめて、と必要最小限しか盗んでこなかった。その日自分が食べる分、あるいはせいぜい二日で食べてしまう分。だけどこの時計を見て、手に入れたい、そう思った。手に入れたい、盗れる、そう考えた自分に僕自身ぎょっとした。  警備員は後ろに手を組んで胸を張って立っている。時計にはすぐ近く、触れるほどまで近づいて見ることができる。そっと手を伸ばして、えいやっと握りしめたと同時に、僕は来た方向へと走って逃げた。  走った。走った。走った。息が切れるほど走るともうそこは街外れだった。周囲を見渡し、誰もいないことを見ると裏路地へ滑り込む。ぜえぜえと大きな呼吸を落ち着けて、手の中を確認する。金色の懐中時計。おそらくは機械式なのだろう。コツコツと小気味よい音を刻んでいる。豪華すぎず品のよい装飾は美しく、ややずしりとした重さは手に心地よい。盗んでしまった。僕は一線を越えてしまったのだ。生きるのに最低限必要なもの以外を盗んでしまった。走って逃げてきたことだけではなく、その今までにないほど大きな後ろめたさに僕の心臓はどきどきと早鐘を打ち、気持ちは変に高揚していた。手にはじんわりと汗がにじむ。時計は堅く、冷たい。  ただの時計じゃないんだ、これは。  裏路地からひっそりと顔を出して様子を伺う。街を行く人々――人だけじゃなくて犬や猫も――は、不自然な姿勢で静止している。本物なんだ。時を司る時計。この広い世界で動いているのは僕とこの時計だけなのだ。高らかに笑いたくなった。笑ってもいいんだと気付いて大きな声を出して笑った。僕が笑っても静止した人々はこちらを振り返りもしない。誰にも気にされない。それが気持ちよかった。  街を堂々と歩いた。僕を虐げるものも嘲るものも、等しく時間を止めて僕に関わってくることはない。何とすがすがしい気持ちだろう。そんなことを考えながら歩いた。歩いた。歩いた。歩いて、ふと腹が減っていることに気付いた。どうせなら時間が止まっているからこそ行けるところ、そう考えて高級レストランへ向かった。  ものものしいとも思えるほどの大きなレストランは扉も重く、片手に時計を持ったままでは開けるのに苦労した。扉の前にはドアボーイが立っており、扉を開け閉めするだけの仕事とはどのようなやりがいがあるのだろうと考えた。中に入ると人が大勢いた。ドレスアップした人々は席について笑顔で、皿やワインを持ったウェイターも忙しそうにして、そして皆、静止していた。旨そうな料理を求めてレストラン内を歩く。目にも鮮やかな、けれどこぢんまりとした料理と対照的に、それが乗る皿は大き過ぎるものばかりでなんだか滑稽だった。そうか、金を持っているやつらはこういうものをありがたがって食べているのか。  太った男の前の皿から焼かれた肉を頂いた。それは今まで口にしたことのない味で、一噛みした僕はとても驚いてしまった。なんて旨いんだ。派手な老婆の前からスープを飲み、若い禿げ頭の前からは野菜盛りを頂戴した。わがままそうな女の前からケーキを奪い、気取った男のグラスからワインを味わった。いくつものテーブルを回り、腹ははち切れそうなほどに満たされた。腹が満たされると、今度は妙に空虚な心持ちになった。このまま全てが止まったままなら、いずれ街中の食糧を食べつくしてしまうだろう。もやもやした気持ちのままレストランを出た。  街を歩いて、さっきはいい気分だった何もかもが静止している様子を何か恐ろしいものに思うようになってきた。人が静止しているのは構わない。僕が話しかけたりちょっかいをかけられたりする犬や猫までもが止まっている。それは、寂しいことなんじゃないかと気付いたのだ。どうしたらいいのか考えた。  時計を元の場所に戻せば。  単純な考えだ。時計を台座に戻せば、手放せば、元通りに世界中の時間が動き出すのではないかと考えたのだ。僕は来た道を戻り始めた。戻りながら、このまま元通りなのも惜しいと少し思った。けれど金目のものを持っていてもどうせ別の誰かに奪われるだろうし、奪われなくても盗人だと捕まってしまうかもしれない。かぶりを振ってそんな考えを頭から追い出した。いいじゃないか、贅沢な食事をとることはできたんだから。そう思い直した。時間が動き出したら金持ちのやつらは目の前の料理が消えていて驚くだろう。そう頭に浮かべるとちょっとしたイタズラをした後のように心躍った。そうこうしているうちに台座と警備員の前に着いた。僕は元あったように時計を、そっと、置いた。  世界は動き出したようだった。警備員と目が合う。とっさに逸らしたが、警備員は特に何も気にしていないようだった。そうか、時計が盗まれていた間のことは知らないんだ。不審さを見せないように、僕はその場を離れた。
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