死婚

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 「良く此処へは来られるんですか?」  「はい、もう十五年くらい通ってますかね」  「じゅ、十五年って、凄いですね!」  思わず、声のボリュームが上がり過ぎた。  「料理が美味しくてね、女将の愛想は天下一品だし、妙に落ち着くんですよ‥‥、此処が‥‥」  智彦さんはおしぼりで手を拭き終えると、お品書きを私に手渡してくれた。  「女将にお任せと言ったけど、頼みたい物があったら遠慮なく」  「いぇ、お任せに期待してます」  ‥‥、どんどん引き込まれて行く。  ‥‥、智彦さんの落ち着いた雰囲気とさり気無い優しさに引き込まれて行く。  ‥‥、何故、未だに独身なんだろうか?次期社長ともなれば、世間体も、株主も黙ってはいないだろうに‥‥。  ‥‥、この一週間、胸の何処かで引っ掛かっていた事だった。  「初めて此処に座りました」  智彦さんは、こぢんまりとした座敷を見渡しながら優しい笑顔で話し始めた。  「いつもカウンターの左端に腰掛けているんですよ。いつの間にか女将が私専用にしてくれて‥‥」  「あっ、カウンターでも大丈夫ですよ!」  「いぇ、大丈夫です。そんなつもりで言ったんじゃないですから」  少し慌てた私にまた優しい笑顔を見せてくれた。  「‥‥、あなたが、初めてなんです」  「えっ?」  「この店に、一緒に入ったのは、あなたが初めてなんです」  「は、はい‥‥」  「この十五年、私はいつも一人で通ってましたから‥‥」  智彦さんが話す意味を理解するまで、おしぼりをイタズラに手の中で握り潰しては、開いてと、次の言葉を探していた。
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