別れの伝達者

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別れの伝達者

 ―― 一週間後  珍しく就業時間を持て余していた。それは、つまり今日亡くなった人が少なかったことを意味するのだから嬉しい限りだ。ホールから外へ出ると、梅雨に入る前の抜けるような青い空と柔らかな日差しの中で背伸びをした。その合間から小鳥の囀りが聞こえてくる。ふっと力を抜いて、正面に顔を向けると遠くの方に人影を見つけた。  私が呼び出しておきながら、一瞬誰なのかわからなかった。あの時は喪服姿で、完全に化粧が落ちた代わりに絶望に打ちひしがれ暗く悲しみを覆った顔をしていた。だが、今日は水色のワンピースを身に纏っていて、束ねた黒髪に陽光が注いで艶やかに輝いて、瞳は茶色く透き通っていた。美しい人という言葉がよく似合うその人は、頭を下げながら目の前までやってきた。 「菜穂さん。こんなところにまた、お呼びしてしまって申し訳ありません」  私が深々と頭を下げると、菜穂は恐縮していた。 「とんでもない。川澄さんには、本当にご迷惑ばかりおかけして……私からご挨拶しようと思っていたのに先にご連絡いただいて、すみません。その節はご迷惑おかけしまして、申し訳ありませんでした」  恥ずかしそうな微笑みは、あの時覆っていた薄暗い雰囲気は消えていた。そして、その笑顔は隼人のものとどことなく似ていて、やっぱりこの二人は似た者同士で素敵なカップルだったのだろう。そんなこと思っていると、ショルダーバッグから、小さな正方形の箱を取り出した。 「私、これをお見せしたくて……」  指輪が入るのにちょうどいい大きさの箱。その上二つ折りのカードが添えられていた。 「あの葬儀の二日後、隼人さんのお母さんからお電話いただいて、ご両親とお会いしたんです。そして、隼人のお父さんから『あの時は、責めてしまって申し訳なかった』と言われました。その時、隼人のお母さんからこれを渡されました。隼人からの私への最後の誕生日プレゼントです」  菜穂はカードを開き私に見せると、そこには『菜穂、いつもありがとう。これからも末永くよろしく』と几帳面な文字で書かれていた。細長い指先がそっと箱の蓋を開けるとその中身は、ピアス。菜穂は見せながら、苦笑していた。 「こんなメッセージ書いておいて、まさかのピアス。指輪じゃないの? ですよね。でも、それが隼人らしいです。人を驚かせるのが好きで、期待を裏切るのも彼だったので」  そういって、彼との日々を思い出したのか、くすくす幸せそうな笑顔を浮かべていた。 「……だけど、期待を裏切りながらも、喜ばせるのも、隼人さん……だったんですよね?」  二人の幸せに寄り添うように言葉に、菜穂は私を見た。その中心に肯定の色が浮かんでいた。 「ピアスが固定されている厚紙。外れるようになっているので、取ってみてください」  驚きの色が、菜穂の透き通った瞳に浮かぶ。まさか。息をのむ音がした。細い指先が震える。言われた通り厚紙をピアスごと取り外した。菜穂の瞳は大きく見開く。その目はあっという間に涙が溢れ、零れていた。透明な雫が、隠されていた真実に落ちていく。ダイヤモンドの指輪が陽光と彼女の涙で、眩いほどの光を放っていた。 「……もし、この指輪が菜穂さんの未来の足枷となるのなら、捨ててほしい……と、仰いていました」  私は最期の言葉を添えて私は、彼女を見た。巡らせていた思いが終着点に辿り着いたように菜穂は私を見返していた。真っ赤な瞳が私と合う。 「……捨てません。絶対に」  涙は止まらず声も震えていたが、誰にも曲げられない芯の通った音だった。彼女の真っ直ぐな思いが私の胸を貫く。  あの別れがなければ、その命が燃え尽きるまで二人同じ道を歩んでいたのだろう。だから、私はあの時隼人がずっと、菜穂を案じていたこと。最後に抱きしめていたこと。どうか、幸せにと菜穂の幸せな未来を願っていたことを話して聞かせた。  菜穂はずっと泣いていた。ずっと。ずっと泣いていた。 「……私、本当にダメですね。もう泣かないって決めたのに」  菜穂はそういって、笑いながらまた泣いた。 「葬儀の日。私本当に生きていてもしょうがないって思えてしまうほどに苦しかった。……だけど。川澄さんがあの日手を差し伸べてくれて、こんな風に最期の隼人の思いを伝えていただいて……私の真っ暗だった道に明かりが灯った気がします。本当にありがとうございました。これがあれば、私この先も頑張っていけそうな気がする」  愛おしい目で指輪を見つめた彼女の声は、透明度を増しているようだった。私の胸にすっと染み込んでいく。二人の温かさで、私の心にも一つ明かりを貰い受けた気がした。これじゃ、どちらが励まされているのかわからない。私は苦笑するしかなかった。  しばらくしてから、菜穂は「本当にありがとうございました」と、頭を下げていた。その瞳からもう涙が零れることはなかった。箱閉じて、バッグにしまう菜穂の顔は笑顔だった。 「では、また」 という菜穂に、私は首を振った。 「『また』は、ないですよ。菜穂さんは、もうここに来てはいけません。ここは、別れの場。早々来られては困ります」  明るい日の下で生きていく菜穂には必要のない場所だ。至って真面目にそう言う私に菜穂はクスクス笑っていた。 「じゃあ、また別の場所で」  菜穂は綺麗な笑顔でそう言うと、水色のスカートを翻し、陽光の中へと滲んでいった。  そんな余韻に浸る間もなく、私を呼びに来てくれたスタッフの声が澄み渡った空気に響いていた。 「川澄さん、お仕事入りました」  束の間の休息を終え、死者の声と生者の思いを繋ぐため、今日も私は悲しみの場へと赴く。絶望に落とされても必ず光はあると信じて。
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