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雨の惜別
葬儀場の外でしとしと降る雨の中、黒いワンピース姿のその女性は一人咽び泣いていた。彼女の悲しみと冷たい雨の音が式場のホールの中まで届いて木霊する。
その中で、もうこの世にはいない彼の父親が神経質そうな切れ長の目と細い身体を震わせながら、彼女の悲しみの音を打ち消すように吠えていた。
「あいつのせいで、隼人は死んだんだ。隼人を弄びやがって。神聖な場所が汚れる」
「あなた、あの子も隼人のことが好きだったんですよ。かわいそうじゃありませんか」
父の威圧的な声とは正反対な母の声はとても柔らかく優しい。なのに、それをまた打ち消してゆく。
「絶対に許さん。おい、葬儀屋。お前絶対あいつを入れてくれるなよ」
隼人の父は、怒りのやり場を見つけたように隼人の母の横で立っていた私を睨み、ぶつけてきた。私の名前は葬儀屋じゃない。「川澄」というネームプレートが見えないのかと思いながら受け流していた。
会話の内容から推測するにどうやら今式場の前で咽び泣いている女性は、亡くなった息子の恋人でその父からは嫌われている存在のようだ。
別れの間際ほど、諍いが起こることをこの仕事に就いてから嫌でも思い知らされている。最後なのだから、故人が安らかに旅立ってもらえるよう、もっと穏便にいかないものかと思う。だが、生者は死者よりも目の前に差し迫った現実に忙しいらしい。それが現実のようだ。私はあくまでも、低姿勢に。神経を逆なでしないように隼人の父に恭しくに頭を下げた。
「息子さんの身体はこの後、空へと還ります。もう二度と、お顔を見ることはできません。どうか最後のお別れだけは、彼女にお許しいただけないでしょうか?」
「そうですよ。お父さん。最後くらい許してあげましょう」
頭を下げ続ける私と隼人の父の怒りを鎮めるように背中を摩る隼人の母。
父は口をへの字にして、腕組みをし「勝手にしろ!」と捨て台詞を吐いてホールの一番後ろの端の席にどしんと腰を据えていた。
その姿を見た母は、深々とため息をついて私の方へ向き直り申し訳なさそうに頭を下げた。悲しみに浸る暇さえも奪われている母親に同情しながら「顔を上げてください」と促す。母はゆっくりと顔を上げたが、困り果てた皺が眉間に寄っていた。
「川澄さん、お騒がせしてごめんなさい。
主人の不機嫌な理由はね……事故に遭った時の隼人の手には紙袋があって、その中に綺麗に包装されたネックレスの小包が入っていたの。息子はどうやら彼女への誕生日プレゼントを買いに行った帰りに事故に遭ってしまったようで……。本当は、主人もわかっているはずなのよ。隼人が事故に遭ったのは彼女のせいじゃないって。車の運転手が悪かった」
そこまで勢いづけて言う隼人の母の目にはうっすらと涙が溜まり始めていた。彼女もまたもうこの靄を貯め込むことができないとばかりに一気に言葉を吐き出し続けた。
「再来週のゴールデンウィーク明けには、久しぶりに隼人と一緒に家族で旅行に行けるって楽しみにしていたの。だから、余計に落胆していて……。その捌け口が彼女に……」
話し終える隼人の母の頬に一筋の涙が流れていた。
事故や災害が起こって、突然大切な誰かを失ったとき。残された者は、誰しも思う。あの時あそこに行かなければ。せめて、一瞬でも時間がずれていたら、と。いくら悔やんでも悔やみきれない。やるせなさを怒りに変えても本当は仕方がない。死んでしまった人はもう戻ってはこないのだから。頭ではわかっているけれど、どうしても頭の中ではそんな思いが巡り続ける。残されたものは、そうやって暗い渦に巻き込まれてゆく。
堅く腕を組み、貧乏ゆすりをしている隼人の父を見るとその目は悲しみに沈んでいた。
確かに同情すべき点はいくつもある。楽しみにしていた息子との旅行に行ける日は永遠に失われてしまった。
愛していた子供が亡くなった絶望感と、喪失感。その悲嘆は計り知れない。だけど、だからと言って、そのストレスを他の人間にぶつけていいのか。自分が傷ついているからと言って、すべてが許されるわけではない。人を傷つけていいはずがない。そんな私の思いを汲んでくれたのか。
「彼女。ここに入れてあげてください」
隼人の母は目元にハンカチを抑えながら、外にいる彼女に同情するように私にそう言った。
私は急いで外に出て彼女の元へ駆け寄り、足取りがおぼつかない俯きハンカチで顔を覆い泣き続け震える肩を支えながら、中へと入った。腕は雨で冷たく濡れていた。ホールに入り辛うじて涙を止めた彼女の顔が少しだけ上向くと、祭壇に華やかに飾られた供花を一つ一つ確認するように瞳を滑らせていた。芳名札は、親族の名前、生前趣味にしていたのだろうか。テニス、書道、登山……サークル名が連なっていた。多趣味で人との交流が盛んだったことが伺えた。
そして、祭壇の中央に飾られた生前の写真の前で彼女の視線はぴたりと止まっていた。その先には、死とは程遠いところにあったはずの隼人が笑顔を浮かべていた。あっという間に彼女の目にまた大きな水溜まりを作り始め、激しく嗚咽していた。外にいたときより何倍も彼女の声がホールに木霊するとその悲しみに引き摺られるように隼人の母の目にも涙が滲み始めていた。
二人の声を聴きながら、この葬儀を執り行う前に手渡されていた故人の資料をぼんやりと思い出す。故人の年齢は、二十二歳。私より一つ下だったから間違いない。まだまだ若い。死なんて少しも想像なんてしない。希望や未来しか目には映らない年齢だ。
彼女はぼろぼろに泣きながらも自力で祭壇の下の焼香台へと行こうとしていた。一人で行きたい。そんな意志を彼女の腕から感じ、私はそっと手を離した。よろよろ歩き、焼香する彼女の手は、震えていて、罪悪感が見え隠れしているように見えた。
「お前の誕生日プレゼントなんか買いに行ったせいで、隼人は事故にあったんだ」
彼女はここに来る前、隼人の父親にそんな風に言われたのかもしれない。だとしたら、なんと残酷な仕打ちだろう。愛した人を失っただけでも、十分辛いはずなのに、原因は自分自身にあると告げられた刃は、彼女の心臓を深く抉ったはずだ。
彼女の折れそうなくらい細い背中の奥にある数段高いところに安置されている棺。
その横に浮かび上がるようにぼんやりと現れ佇むその男――隼人を私は見る。今、視界に映っているのは、生前の彼の姿。全体的に透けた身体なのに、端正な顔立ちに優し気な大きな二重の双眸は彼女を思いやっていることがはっきりとわかった。黒い短髪が穏やかに揺れ、青ジーンズに白いワイシャツという着飾らない姿がより一層彼を誠実に見せている気がした。
だが、その気配に気づけるはずもない彼女は、焼香台の前で背中を丸めて泣き続けていた。肩より少し長い黒髪が小刻みに揺れて、耳まで真っ赤にしている。隼人の眉間に深い皺を寄せ悲し気に顔を歪めていた。一番気付いてほしい彼女の目に彼の姿は映らない。彼のその瞳が切なく揺れているのが遠目からでもわかった。
私の胸に小さな針が刺さって、ちくちく痛み始める。眉根を寄せながら隼人を見ていると、彼女へと向けられていた彼の視線はゆっくりと移動し、私と真っすぐに合っていた。
『あなたは、もしかして俺のことが見えるの?』
私はその質問に小さく頷く。そう。私は見える。荼毘に付される直前だけ見える、故人の生前の姿が。
『なら、お願いがあるんだ』
その声は、私以外は誰にも聞こえない。私にだけ聞こえる最後の声だ。私はゆっくり頷いた。
『俺の部屋の机。右側の一番上の引き出しに箱がある。それを彼女——菜穂に渡してほしい。父はあんなだから何言ってもきいてくれないと思うけれど、母ならきっと頼めば聞いてくれると思う』
「わかりました」
つい小さくそういってしまう私に不思議そうに首を傾げる隼人。
生者から死者に伝えられるのは、視覚だけだということを思い出し、私は了承を伝えるために深く頷いた。
『あと、僕がこれから言う言葉を伝えてほしいんだ』
私は目を逸らさず彼を見つめたままゆっくりと頷いた。私の返答に、満足したのか隼人の顔は笑顔になる。笑う目じりがきゅっと下がり、元より優し気だった顔が一層柔らかな顔にさせていた。死しても尚、彼の周りにふわりと暖かい空気が一緒に漂ってくる。
こんな彼の顔を何度も傍で見て、菜穂は惹かれたのだろう。二人顔を見合わせて笑っていたんだと思うと、胸が押し潰れそうなほど激しく痛んだ。
『このまま何も伝えることができずにいたら、多分俺ずっとこの辺を彷徨い歩いていたと思う。あなたに最後の言葉を託せてよかった。ありがとう』
彼の穏やかで柔らかい声が私の胸に沁み込んで視界が歪みそうになる。だけど、私が泣くわけにいかない。泣きたいのは、私じゃない。本当に泣きたいのは、隼人だ。私はじっと彼を見つめていると、彼はまた菜穂に切な気な視線を移していた。
『あぁ、もう俺は傍にいてやれないのか。あんなに泣いて、大丈夫かな? この先、ちゃんと前を向いて歩いて行ってくれるかな』
菜穂への思いが溢れる彼の言葉が、泣き続ける彼女のどこかに届けばいいと切望しながら震え続ける華奢な背中を私は見つめる。
隼人も、また最後にその目に焼き付けるように愛しそうに泣き続ける彼女の背中を見つめていた。それを私はただ見守るしかない。どうか彼に安らぎを。そう願うことしかできない。愛していた恋人と道半ばで、永遠に別れなければならないのだから。その思いを想像したら、息苦しくなるくらい胸が詰まる。
「もう、十分だろう! 早く出て行ってくれ!」
突然、菜穂の咽び泣く声も雨の音も掻き消すほど大きく響いた。隼人の父の悲しみに打ちひしがれている人間を踏み潰しているような声。菜穂の震えている肩が怯えるように大きく跳ね上がった。隼人にはそれが聞こえないのがせめてもの救いだ。実の父親が愛する恋人を怒鳴り散らす声なんて聞きたくないはずだ。
私は奥歯をぐっと噛んで、隼人の父の攻撃的な視線を遮るように美穂の斜め後ろに立った。まともに私に睨まれた父はぎょっとした顔をして怯む。その横から母が諫めに入っていた。再び菜穂の方へ顔を向けると彼女は隼人の父の声に追い立てられるように出口へと足を向けようとしていたところだった。私は、慌てて彼女に歩み寄った。
「菜穂さん」
突然、名前を呼ばれて驚いた顔。顔を上げ真っ赤になった目を私に向けていた。初めて彼女の顔をまともに見る。化粧は涙でほとんど流れ落ちているはずなのに、肌もきめ細やかで通った鼻筋に形のいい口元はそんなこと気にする必要がないほど、美人だ。充血した目でもその中心の瞳は茶色く透き通っていた。そんな彼女に私は静かに彼女に告げた。
「どうか最後は笑顔を向けてあげてください。彼がこの先もずっとあなたの笑顔を覚えていられるように」
私は、その方向に顔を向け、隼人と目を合わせた。菜穂は、一瞬戸惑いを見せたが、私が向けた視線を追うように充血した瞳をゆっくりと向けていた。
泣きはらした顔が隼人がいるところより少しずれ、写真に向けられると途端にまた菜穂の目に涙が溜まって呆気なく決壊していた。
「隼人……ごめんね……」
震える声で謝罪の言葉を口にして、ぽろぽろ涙を落とす。床に落ちた涙の雫が砕けて跳ね返る。嗚咽しそうなのを抑え込むように菜穂はハンカチで口元をさえ、泣き続け、拭い続けたハンカチは水溜まりの中に落としたように濡れていた。本当は今すぐに言ってあげたかった。あなたは何も悪くない。謝る必要なんてないんだと。
すると、突然菜穂の目は大きく見開かれて、涙が止まっていた。何度も瞬きを繰り返し長い睫毛を揺れ始める。 彼女の中にどんな変化が起きたのかわからない。菜穂には、隼人の姿は見えてはいないはずだ。だけど、隼人を掠め逸れていた視線が真っすぐに隼人の瞳を捉え始めていた。そんな様子の彼女に私は目を見張っていると、堪らず隼人も『菜穂!』と叫ぶ。棺の横にいた隼人は階段を駆け下りて、菜穂のすぐ横に立ち懇願するように『菜穂』とまたその名を呼んでいた。
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