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いつかどこかで
合っていたはずの隼人と菜穂の視線は、急に縮まった距離に追い付かず、外れ、未だに彼女はずっと棺の横を見つめていた。遠くを見つめ続ける菜穂と隼人の視線は交わることはなかった。隼人は、淡い希望は絶たれて行く道を失ったように俯いていた。もうこの世にはいないのだと、彼女とはもう違う世界にいるのだという現実を突きつけられ、嘲笑うように悲し気に微笑んでいた。私は、たまらず菜穂に横に隼人がいると知らせようと駆け寄ろうとした。が、それより早く菜穂はゆっくり隼人へ顔を向けていた。隼人の目が見開かれ自嘲は消えて驚きの表情に変わる。菜穂は、隼人の大きな双眸を真っすぐに見つめていた。そして、その道に乗せるように唇を小さく開いた。
「隼人」
鮮明な声で呼ばれた彼の名。二人の悲しげだった瞳が交差すると、隼人の目に初めて涙が浮かんでいた。菜穂は、細く長い白い手を隼人の方へとゆっくりと伸ばしていた。隼人はその手を握ろうとした。だが、すり抜けてそれが叶わず空を切ると、拳を握り震えていた。
『菜穂……』
隼人の瞳から耐え切れなくなった涙が頬を伝ってゆく。
ポトリと落ちた大きな涙が、一粒。菜穂の伸ばした手に滑り落ちた。その手を濡らすと菜穂の瞳が大きく開かれていた。手に落ちた雫をしばらく見つめて、大切に仕舞い込むように菜穂は胸の前でぎゅっと両手で包み込んでいた。また菜穂の閉じた長い睫毛からまた涙の道が作られて行く。絶え間なく流れ続ける水を塞き止めるように、菜穂はゆっくり目を開け真っすぐに隼人を見つめていた。
「隼人、今までありがとう。また、いつかどこかで……」
思いを込めた菜穂の最後の言葉は、遠くの空へと繋がっていくように高く優しく木霊していた。
涙に濡れた菜穂の目は、ゆっくりときれいな曲線を描き、目の周りにいくつも散りばめられていた水が星のように輝いていた。その顔に隼人は、更に大きく目を見開き、また一筋の涙が滑り落ちていた。
彼女の声は彼には聞こえない。彼の耳に届け。強く願わずにはいられなかった。けれど、そんなこと私が願わずとも、きっともう届いている。
『菜穂……ありがとう。どうか、幸せに』
隼人が穏やかに微笑みながら彼女を腕の中に包み、そう言った言葉はその証だ。
透き通った体はきっと、彼女のぬくもりも感触も感じることはできない。だけど、きっと菜穂にもちゃんと伝わっている。彼は、菜穂との思い出をその手の中から手繰り寄せるように目を閉じていた。呼応するように菜穂は静かに目を閉じていた。互いの声も姿も見えない。けれど、目に見えない何かが二人を確かに繋いでいる。互いを思い合う愛しさと、別れを惜しむ悲しみ。それが、この場に流れる空気も二人を包んで離したくないと訴えているようだった。
だが、隼人の透き通った身体は段々と薄くなる。彼の黒髪も青いジーンズも色を失っていく。輪郭もぼやけていく。惜しむように、ゆっくりと。 菜穂から涙がまた床に弾けて霧散すると、それが合図だったのか。色を失い薄くなった体が今度は粒子に姿を変えていった。その粉は、キラキラと光を放ちながら空へと飛び立つように舞い上がる。それに気づいたように、菜穂は追うように上を見上げていた。
隼人は何にも代えがたいものを胸に旅立ち、菜穂はそれを胸に歩いていく。互いに行く道は違えど、菜穂がこの世に生きている限りその思いは消えることはない。
菜穂のまたいつかどこかで会いたいという気持ちと、隼人が一人残された彼女に幸せが訪れることを願う気持ちがどこかで交わり、繋がり、また出会えたなら。その時は、道半ばではなく最後まで一緒にいさせてほしいと、やっぱり私は願わずにはいられなかった。
彼女は、涙がいくつも流れ落ち濡らし続けていることも気付かないほど。必死に彼を見送り続けていた。最後の一粒の光が消えるまで。心に刻み付けるように。
その後――
滞りなく隼人の儀式を終え、彼の身体は葬儀場を出て荼毘に付される前に、菜穂はひっそりと姿を消していた。冷たい雨はやんで、細い隙間に時折青空が見え始めえていた。その隙間の青に自分の新たな居場所を見つけたように隼人の身体は空に還っていった。
すべてが終わり、私は隼人の両親を呼び止めていた。帰宅の途につこうとしていたところを止められて、少しむすっとしながら濡れた傘を持て余している父に謝りながら、腕に納められた隼人を大事そうに抱える母に顔を向けた。二人の目にもう光るものはなかった。緊張が抜けて、忘れていた疲労が見え隠れしていた。引き留めたことを申し訳思うが、隼人に託された言葉を伝えないわけにはいかない。私は静かに息を吐いて、隼人の母を見た。
「お母様。一つお願いがございます。隼人さんの机の右側の一番上の引き出しに入っているものを菜穂さんにお渡しいただけますでしょうか? それが、菜穂さんへの誕生日プレゼントだったそうです」
突然そんなことを言い出す私に二人の顔は、わかりやすく疑問符が浮かんでいた。当然だろう。今日知り合ったばかりの葬儀屋の従業員に言われたら、誰だって困惑するはずだ。
「え? ……だって、事故があった日もっていた小包が、彼女のプレゼントのはずよ……?」
言いかけて母は口を噤んで父と顔を見合わせていた。両親の顔には、事故に遭った時に持っていたものが菜穂へプレゼントのはずだし、何故関係のない私が隼人の机の中身を知っている? わかりやすく顔に書いてあったが、それに対する説明が面倒で私は構わず続けた。
「隼人さんが最後に持っていたプレゼント。どうされましたか?」
あまりに突飛なことばかり言い出す私に不信や困惑は、回りまわって信じる方向に向いてくれたようだった。
母は、瞳を左右に揺らしながら記憶を辿り「あぁ……。菜穂さんに渡そうかどうしようか迷って、そのまま家に」といった後は、私にそのあとの答えを求めるように私の瞳をじっと見つめていた。母の思いを受け止めた後、私は父の方を真っすぐ見据えた。
「それは、お父様へのプレゼントだったそうです」
父の顔に大きく動揺が走る。
「何を言ってるんだ? あれは、細長い形をしていたし、どう見てもアクセサリーの箱。ネックレスだ」
「中身は確認しましたか?」
私の質問に蹴落とされたように、目を見開き、瞳だけ下へ落としていく。
「お父様、あと一週間で退職されるそうですね? あの中身はお父様へのプレゼント。『筆』だったそうです。退職後、趣味である書道を楽しめるように、あの日に買いに行った。そして、家族旅行の時に渡そうとしていたそうです」
一瞬絶句した父は、止まっていた息を吐くように「どこからそんな出まかせを……」と苦し気に呟いていたが、その瞳は左右に忙しなく揺れていた。
「信じられないのも無理はありません。ですが、騙されたと思って、帰宅されたらご確認を」
ぴしゃりと言い切る私に、父は口を引き締めて黙り込み、たじろぐ。瞬きを忘れた目の中にある瞳は一点を見つめたまま止まっていた。それを視界の端において、もう一度母を見る。驚きを隠せずにいる母に私は深々ともう一度頭を下げた。
「お母さま。菜穂さんもまた、ご家族同様、大事な隼人さんを心から愛していました。失った悲しみは、ご両親と同じくらい、深い。この先、彼女が前を向いてこの先歩いていけるように、お渡し願えますでしょうか?」
呆然する一方で、しっかりと隼人の母は私に視線を交えて頷いてくれたのを確認して、隼人の両親への最後の言葉を伝えた。
「この運命は、誰のせいでもない。みんな仲良く元気で。隼人さんは最後にそうおっしゃっていました」
はっとした二人の顔にまた涙が滲んでいく。薄い水の膜の向こう側の瞳の中心で「どうして、知っているの?」と聞きたそうな色が浮かんでいた。
私はその質問を空に還すように見上げる。降り続いていた雨はすっかり止んで、雲の隙間から太陽の光が柔らかく降り注いでいた。
「晴れてきましたね。どうか、お元気でお過ごしください」
太陽の眩しさに目を細めながら、私は二人に別れを告げた。
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