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第12話
山の冬は早く、平野に雪が降るよりもずっと前に、しかも突然やってくる。
平野ではまだだが、山麓の街にはもう雪が降ったらしい。鉱山が閉ざされたため、出稼ぎを終えて村に戻ってくる者が増えた。
彼らは一様にカリムの死を知り、大いに悲しんだが、街で暮らしている俺達が感じるほどの悲壮さは無かった。
以前にマーリカが言ったように、外世界に生きる者にとって、死は淡々と過ごす日々の中の、ひとつの出来事でしかないのだろう。勿論、悲しみを感じないわけではないし、悼む気持ちもある。ただ、必要以上にそこに留まらないだけだ。
天星石を焼き上げてから、はや一週間。俺たちが南西の街を出てからも、もう数週間が経過している。
まさかこうやって、ひとところで二度も隊商の定期便を迎えることになるとは想像もしていなかった。俺もニューランも、随分とこの村に馴染んできたと実感する。
義手の方も順調に組み上がり、ゆうべなどは俺とニューランとの二人がかりで、ちょっとした仕掛け部分の細工を済ませたところだった。
まだ、ナジの体に合わせるために微調整をしないといけないが、外装はナーセルが腕によりをかけて作ってくれているところだし、それが出来上がれば、マーリカたちに蔦のような文様を描いてもらって完成となる。
そんな具合だから、ナジにつきっきりで稽古に付き合っているニューランたちと違い、俺の手は随分と空くようになった。
そしてそれは、アリーやワリードやハムザも同じ具合で、出稼ぎから男達が戻ってきたのもあって、それまでずっとかかりきりだった羊の番から開放された彼らは暇を持て余していた。
「ほら、もっと背中を伸ばせ。そんなだと、馬にからかわれるぞ」
二重にかけた手綱の一本を引きながら、アリーが馬上の俺に声をかける。
二度目の隊商を送り出したその日の午後は、馬に乗ったことがない俺に、アリーが乗り方を教えてくれることになっていた。
アリーの愛馬であるサハルの姉妹馬を借りて、村からそれほど離れていない草地で練習をはじめたのだが、これがなかなか難しい。
「心配すんな。ソヘイラーはのんびりしているから、お前が落ちたって気付きゃしないよ」
おっかなびっくりまたがる馬上の俺を、囲い柵にもたれながら囃し立てるのはワリードだ。その隣にいるハムザも相変わらず眠そうな目のまま、どこか楽しげな表情でこちらを眺めている。
馬自体、街から街を移動するときにも利用するのだから、全く知らないはずはないのだけれど、こうして触れるほどに近づいてみると、随分と印象が違う。
優しそうな目をしていながらも、人間よりも大きくて力も強い動物なのだと改めて実感し、つい腰が引けてしまう。
それでもソヘイラーは大人しく、初めて対面する俺を背に乗せても、嫌がるような素振りを見せなかった。
小一時間ほど練習をして、アリーの補助がなくてもどうにか俺一人で軽い駆け足ができるようになってきた、そんな頃合だった。
「おーい!」
手を振り、声を上げながら、俺たちのもとへと走ってくる若い男がいる。遠目にもわかる体格の良さは、鉱山から戻ってきたばかりのザフラーの夫だ。
「どうした、ラシード。何があった」
アリーが彼を迎え、声をかける。よほど慌てていたのか、喋りはじめるまで少し待たなくてはならなかったが、ラシードはすぐに呼吸を整えると、アリーに告げた。
「ガリーブがいなくなった」
「またあいつか」
聞いた途端、アリーが渋面をつくる。ワリードとハムザも互いに顔を見合わせて、首をすくめた。
「ガリーブって?」
馬上から俺がたずねると、ハムザが振り返り、答えた。
「羊だよ。ほら、ジウが村に来た日に、俺達が探していたやつだ」
「あいつは変わり者だからな」
ハムザの後を継いで、ワリードも困ったように首を振る。
「何度も群を抜け出して、フケちまう癖があるんだ」
あの後暫く、アリーたちはガリーブを村の外に出さないようにしていたのだが、放牧を引き継いだラシードが、気付かずにうっかり放ってしまったらしい。
「すまん、アリー」
「いい、気にするな」
しょげるラシードの肩を軽く叩き、アリーが俺達のもとへと戻ってくる。
「どうする?」
ワリードの問いかけに、アリーが溜息をつきながら答える。
「どうするも何も、決まってる。まだ遠くへは行っていないはずだ」
それを聞いたワリードとハムザが、素早く反応する。
「ジウ、悪い。また後でな」
「ああ、気をつけて」
俺は村へと戻ってゆく三人組と一人の背に、声をかけ、見送った。彼らは例のテレメトリを持って、変わり者の羊を探しに行くのだろう。
「……って、おい。俺はどうすりゃいいんだよ」
ハムザやソヘイラーののんびり気質がうつったのだろうか。俺一人では馬から降りられないということに、皆を送り出してから気付くとは。
「なぁ、どう思う?」
ソヘイラーにたずねてみるものの、彼女が答えてくれるわけがない。一応、両の耳をくるくると動かして、俺の言葉を聴いてはいるようだが、その太い首を下げ、足元の草を食んでいるばかりだ。
「困ったな」
周囲を見回してみたが、手助けしてくれそうな人影は見当たらない。羊たちは、今日はもう少し離れた場所まで連れて行かれたらしい。
先日、ハサン宅のやぐらからの光景ほどではないが、普段見ているよりも高い位置にいるせいか、なだらかな丘陵の続く草原がよく見渡せた。
その中に、ぽつんと立つ一本の木が目に入った。アーダムの小屋が立つ場所だ。何気に視線を動かせば、その先の丘で、同じようにぽつんと立ち尽くす人影があるのに気付いた。アーダムだった。
「ソヘイラー。もう少し、俺に付き合ってもらってもいいかな?」
ソヘイラーは何も言わなかったが、賛同はしてくれたらしい。頭を上げると、俺の拙い手綱捌きに従って、ゆっくりと歩き出した。
後ろを向いていても、近づく気配に気付かないわけがない。
アーダムは振り返ると、丘を登ってくる俺とソヘイラーとに一瞥をくれた。
だが、そこから立ち去るようなことはなく、俺達が近くに寄っても、微動だにせずにいた。
「やぁ」
声をかけてみるが、返事はない。もっとも、端から期待してはいなかったから、別にいいのだけれども。
ソヘイラーがぶるると鼻を鳴らし、アーダムの後ろで足元の草を食みはじめる。
「このままで失礼するよ。一人じゃ降りられなくてさ」
アーダムはやはり答えず、丘の向こうを見つめるだけだ。彼が見ているのは、北の山でもなく、南西の平野でもない、どこでもない方向だった。
山頂の雪のせいもあるだろうが、山から届く風は、随分と寒さを増していた。この分だと、ちょうど犠牲祭の日が季節の分かれ目になりそうだ。
ニューランがどうするつもりなのかまだ聞いていないが、この村に留まるにしろ、どこかへ行くにしろ、そろそろ次のことを考えなくてはならないなと、そう思ったときだった。
「なぁ」
相変わらず俺から顔を背けたままだったが、アーダムが声を発した。
「あんた、ジウって言ったっけ」
訥々と繰り出される言葉には、先日のような刺々しさはなかった。
あんなことがあった後だから、今更取り繕って澄ましても仕方ないと思ったのかもしれない。初対面のときと比べても、その口調はずいぶんと砕けたものに変わっている。
「なぁ」
再び、アーダムが口を開いた。
眩しそうに細めた視線の先に、一体何を見ているのか。やや癖のある黒い髪が、風になぶられるままになっている。
「あんた、街の生まれなんだろう? どうしてわざわざ外に出たんだ?」
故郷の街を出てから、何年経ったのか。行く先々で出会った者にもよく聞かれたが、しかし俺の答えはいつも同じだった。
「さぁ? 何だったっけな。理由なんて、覚えていないよ」
俺には、街を飛び出さなきゃいけなかったような大層な理由はない。否、あったのかもしれないけれど、随分昔のことだから、忘れてしまった。それくらい、些細なことだったのだろう。
それでも、街を出たいという想いを実行するに至るまでの、口実にはなった。
アーダムはちらりとこちらを見て、何か言いたげな様子を見せたが、すぐに顔を逸らすと、村の方向を指さした。
「さっき、アリー達が出て行くのを見た」
「ああ。ガリーブだっけ? 羊が一頭、いなくなったらしいから」
「そうか……」
アーダムはそう言うと、だらりと手を下ろし、俯いた。長めの袖先から覗く左手は、堅く握られている。
あの晩以降も、マーリカは数日置きにアーダムへと食事を届けていた。ちゃんと食べているかどうか心配していたが、少なくともあのとき見かけた姿よりも、血色は良くなっているように思えた。
「ガリーブは脱走の常習犯らしいけど、何でそいつは、そんなに群れから出たがるんだろうな?」
言いながらも、俺にはなんとなくガリーブの気持ちがわかるような気がしていた。
ひとところに留まらずにどこかへ行きたいと思う気持ちは、本能から湧き出るものだ。そこに、理屈はない。無理に抑えたところで、いつかは何らかの形で溢れてしまう。
かといって、何もない荒野を一頭だけで生きていけるとは、ガリーブ自身も思ってはいないだろう。
俺も、もし一人きりだったら、こんなふうに旅を続けてはいなかったはずだ。
ニューランがいるから。行く先々で違う街や村があるから。そこで暮らす人々がいるから。そして、どんなに狭くて暗い場所であっても、忘れることのできない故郷があるからこそ、そこへ帰るために旅をするのだ。
案外、ガリーブも軽い散歩程度の気持ちで群れを抜け出しているだけなのかもしれない。その度に、広い草原を走り回ることになるアリーたちには気の毒な話だが。
「俺……俺は……」
口ごもりながら、アーダムが何かを言おうとした。まるで、それを口にしてしまうのを恐れ、躊躇っているようにもみえた。
俺はアーダムを促す代わりに、草を食み続けるソヘイラーの首を撫でた。掌に伝わるのは、栗色の短い毛の感触と、その下にある太くて力強い筋肉と、彼女の体温だ。
そうして待つこと、暫く。
ようやく意を決したように顔を上げたアーダムは、俺に向かって、その胸の内に閉じ込めてきた想いをぶちまけた。
「俺、マーリカのことが好きだったんだと思う」
思う、というのはおそらく、今まではその自覚が無かったのだろう。アーダムにとって、マーリカは物心ついた頃から側にいた年上の幼馴染であり、姉のような存在だったからだ。
マーリカとは、兄のケマルともいつも一緒にいて、共に育ってきた。身寄りのない自分達をカリムが引き取ってからも、その関係は続いていた。
アリーやワリード、ハムザといった親族が増えても、その感覚に変化はなかった。始終代わり映えのない村の暮らしと同じで、漠然とそんな日がいつまでも続くと考えていた。
しかし、現実はそうならなかった。
「兄さんもマーリカのことが好きで、マーリカも兄さんのことが好きだった。俺は、それでも別にいいと思った。大好きな二人が幸せになるのなら、それでいいって、思っていたのに」
二人が結婚をしたとき、アーダムは心から祝福を送った――そのつもりだった。
だが、日を追う毎に、その気持ちは大きく揺れはじめる。決定的になったのは、ナジが生まれてからだ。
それは、ケマルが出稼ぎで村を出ている間のことだった。留守を任されたアーダムは、幼い子を胸に抱いてあやしているマーリカを見ているうちに、唐突に自分の気持ちに気付いてしまった。
以来、アーダムの指は、以前のような具合にラバーブを弾くことができなくなった。特に、ケマルが贈ってくれた手作りの品は、触ることさえできなくなっていた。
何でもないように上辺を取り繕ったとしても、ラバーブの弦は弾き手の心を映し出す。そこに天星石が加わったものなら、尚更のこと。一度その想いが形をとってしまったのなら、もう二度と隠してはおけなくなる。
外の世界に興味があるというのは、アーダムにとってはただの口実でしかなかった。
「……だから、村を出ようとしたのか?」
俺の言葉に、アーダムは俯いた。だが、またすぐに顔を上げ、叫ぶように訴えた。
「――でも、俺、二人のことが妬ましかったわけじゃない! ただ、側で見ているのが辛かっただけなんだ!」
突然の大声に、ソヘイラーがびくりとして頭を上げる。不機嫌そうに足踏みをする彼女の首筋を、俺は軽く叩いて落ち着かせてやる。
「俺がいなくても、きっと二人は幸せに暮らしていけるって思ってた。なのに、俺のせいで兄さんは……」
彼自身、どうしようもない子供じみた言い訳だと自覚しているのだろう。だから、余計に後ろめたいのだ。
凍傷で指を失って、楽器が弾けなくなったことよりも、何よりも耐え難かったのは、自分の想いに気付いていないであろうマーリカが、何も知らないナジの目が、夫を、父を死に至らしめた己に向けられるのが、何よりも恐ろしかったのだ。
「……そうか」
俺に言えるのは、それだけだった。
ソヘイラーの澄んだ水鏡のような大きな瞳に映るアーダムの姿は、ひどく幼く、そしてあまりにも頼りなかった。荒野に放り出され、あてどなくさ迷っている者のようだった。
「そうだったのか」
もう一度、俺は言った。そして、続けた。
「そいつは、すごく、苦しかったよな」
途端、アーダムの顔が、くしゃりと歪んだ。
こんな想いを抱いていたなどと、村の者に打ち明けることなんて出来やしない。
アーダムは両の手で目を覆い、唇を噛んで漏れ出る嗚咽を殺す。
村には写真というものが一枚もないので、ケマル氏がどんな顔をしていたのか、俺は全く知らない。けれど、こうして対面しているアーダムや、ナジを見ていればなんとなくその面影はわかるような気がする。
ナジはまだ、目鼻立ちは母親であるマーリカに似ているけれども、いずれ成長して大人になれば、その血は色濃くなるはずだ。
そうなったとき、アーダムはその顔を、その目を、真っ直ぐに見ることができるだろうか。
――だけど。
「だけど、そんなに苦しいことばっかりじゃぁないと、俺は思うぜ?」
アーダムは驚いたような顔をして、俺を見つめ返した。
その潤んだアーモンドの瞳前に、俺はポケットから取り出したものを差し出す。先日、皆で焼き上げた天星石の結晶だ。
良い出来映えのものはナジの義手に使い、残りは電池にしたり、ニューランのテレプシコーラ用に加工したりもしたが、中でも一番綺麗な色をした大粒のものを、あらかじめ特別に取り分けておいたのだ。
近いうちにマーリカに頼んで、アーダムに届けてもらおうと考えていたが、どうせ渡すのなら、後だろうが今だろうが大差はない。
「やるよ」
だが、戸惑いを隠せないといった様子で、アーダムは差し出された手の中にあるものと、俺とを何度も見比べるばかりだ。
「ほら、早く取ってくれ。落っことしちまう」
そろそろここにいるのは飽きたとでも言いたいのか、ソヘイラーの足踏み回数が増えてきた。俺の腕前では、彼女を制するなんて無理な話だ。
俺はアーダムに向かって天星石を放ると、急いで手綱を握り直した。
胸で跳ねた結晶を慌てて受け止めたアーダムが、その大きさと色とに目を丸くする。
「これ……っ!?」
「招待状。今度の犠牲祭と喪明けの式、ちゃんと来てくれよな」
ソヘイラーの馬首をめぐらせて、その脇腹を軽く蹴る。
丘を駆け降りる俺たちにアーダムが何か言ったような気がしたが、すでに遠く離れていてよく聞こえなかった。
ソヘイラーはのんびりした性格だが、走ることは好きなようで、俺さえ背に乗せていなければ、自由に気が済むまで走り続けていたかもしれない。
それでも一応は俺に気を使ってくれているのか、リズミカルな動きは、初心者の俺でも容易に呼吸を合わせられるものだった。
俺は黒い鬣をなびかせてのびのびと脚を運ぶ彼女に、手綱を任せることにした。そうして草地の匂いや風の感触を楽しみながら、いつだったかに立ち寄った街で開発していた自走車のことを思い出す。
大崩壊時代の前にはそれが普通に移動の足となっていたというが、今ではただ重くて、遅くて、不便極まりない鉄の塊でしかない。
一体いつになったら、俺たちはかつてのように大地を自由に走り回れるようになるのだろう。
そんな鉄の塊が空をも飛んでいたという時代に思いを馳せながら、俺はソヘイラーと共に日が暮れるまで草原を駆け続けた。
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