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第13話
広場に立てられた高い柵の周囲に、何頭かの羊が連れてこられている。
どれもそれなりに大きな体格をしているが、まだ若い羊たちだ。
身を清めて支度を済ませたアリーが、神への祈りを捧げてから、ナイフを手に取る。
今日は待ちに待った犠牲祭。一年の恵みと、無事に日々を過ごせたことを神に感謝し、捧げものをする日だ。
羊たちはまるで何かの魔法にでもかけられているかのように大人しく、あっさりと喉を裂かれ、その命を神への供物として捧げられていった。
その後は、ほとんど流れ作業だ。男達の手によって柵に吊るされ、皮を剥がれ、内臓を抜かれ、手際よく解体されてゆく。
先日隊商に買われていった羊たちも、今ごろはそれぞれの場所で、同じような姿となっていることだろう。
羊の肉は、村の皆に分けられることになっている。肉だけでなく、内蔵も皮も、骨も腱も、すべてを平等に分かち合うのが、この辺りの風習らしい。
俺はその様子を二階の窓から覗きながら、手持ちのなかでも小綺麗なシャツを選んで着替えた。
今朝、顔を洗うついでに久しぶりに髭をあたってさっぱりしたら、通りがかったナジに「何か変だよ!」と笑われてしまった。村の男たちは皆髭を生やしているから、見慣れないのだろう。
それを言ったら、ニューランはどうなのだとなるのだが、あいつはただでさえ見た目が変わっているのだから、最初からそういうものだとして認識されているのかもしれなかった。
その辺りは少し不公平ではないかとも思ったが、気にしても仕方がないので、忘れることにする。
階下に降りると、村の女たちが総出で厨房に詰めていた。アリーたちの解体した羊肉を使い、祭のための料理を支度しているのだ。
「あらぁ。おはよう、ジウさん」
「おはようございます」
最初に俺を見つけたラナーと朝の挨拶を交わして、ニューランの姿を探す。
今朝は珍しく早起きをした奴は、身支度もそこそこに部屋を飛び出し、それきり戻ってきていなかった。一体どこへ飛んでいったのか。それを察したのか、たずねる前にラナーが教えてくれた。
「ニューランさんなら、礼拝所よ。ハサンたちと、一緒にいるのを見かけたわ」
「礼拝所ですね、わかりました。ありがとうございます」
俺はラナーに礼を述べると、宿を出て、少し離れた場所にある小さな礼拝所に向かった。
もともとは、この礼拝所こそが、この村のはじまりだったという。
遊牧をやめて定住した者達が、自分達の心の拠り所となる場所を作ったのだ。
村として規模が拡大するにつれ、そして行商ルートの中継地点として利用されるうちに、宿泊する施設が作られ、いつの間にかそちらの方が大きくなってしまったというわけだ。
普段は宿に寄り集まっている村の老人達も、礼拝所のことは忘れていないし、もちろん日々の勤めはきちんと果たしている。逆に、アリー達のような忙しい者は、日の勤めはまとめて一度に済ませてしまうこともあるらしいが、それはさておき。
礼拝所前にある清めのための小さな水場で、習った通りに手足や口などを清める。履き物を脱いでから、俺は礼拝所の戸口をくぐった。
「あ、来た来た」
敷き詰められた絨毯の上、礼拝をするための部屋の片隅で、車座になって休息をする老人達に混じっていたニューランが、俺に気付いて手招きする。
ハサンやナーセル、マウリーシといった、見知った顔も勢揃いしていた。
この場で彼らとニューランがほとんど同年齢だということを言ったとしても、誰も信じないだろうなと思いながら、俺は空けられた席に腰を下ろす。
「いよいよじゃのう」
ハサンがしみじみと呟くと、ナーセルたちも無言でうなずく。彼らはいつもの簡素な衣服とは違い、今日はそれぞれに装飾を施された上着や帯を身につけ、腰には立派な短剣を挿したベルトを巻くという、正装のいでたちだった。
「果たして、そう上手くいくじゃろうか?」
心配そうに目をしょぼつかせるマウリーシに、ナーセルが言った。
「わしらが成すべきことはすべて果たした。あとは成るようにしかならん……そうじゃろう?」
すべては神の思し召し――そう呟きながら白い顎鬚をなでるナーセルが仕上げてくれた義手の外装には、マーリカとザフラーが丁寧に模様を描きこんでくれた。
皆で作り上げた義手を装着して、今夜、ナジはいよいよ古唄を披露する。
「楽しみだなぁ」
待ちきれなくてたまらないといった様子で、ニューランは朝からずっと落ち着かない。そわそわとテレプシコーラを手にしては、立ったり座ったりを繰り返している。
「おい、ニュー。落ち着けよ。そんなだと、夜になる前に疲れちまうぞ」
「しょうがないじゃないか。だって、これを生で聞くのが僕の夢だったんだよ? 落ち着いていられるもんか」
「練習で何度も耳にしていたじゃないか」
「それとこれとは別!」
「はいはい、わかった、わかったよ」
うっかり刺激してニューランの熱弁攻撃を喰らうと困るので、俺は適当に会話を終わらせる。放っておくと何時間でも喋り続けるのだから、たまったものではない。
「あんたら、ほんとに仲がええのぅ」
ハサンが呆れたように呟き、マウリーシが苦笑しながらいさめる。
「じゃが、ここでは大きな声は禁物じゃ。あんまり騒ぐと叩き出すからな」
「すみません……」
俺とニューランが揃って頭を下げると、それがおかしかったのか、ナーセルが吹き出した。
礼拝所の存在は知っていたが、中に入るのは今日が初めてだった。柑橘にも似た甘い香りのする香が焚きこめられていて、とても心地良い。
屋内の各所には、結晶システム式のランプが幾つも下げられていた。中身はもちろん、先日焼いた天星石で作った電池に交換してある。
もっとも、今はすかし模様の入った大きめの飾り窓から差し込む光だけでも充分な明るさが保たれているので、特に必要はない。
こぢんまりとした外観のわりに感じる屋内の広さは、なだらかな円形状のドーム型をした天井のおかげだろう。
そこからすべり落ちるように描きこまれている装飾は、すっかり見慣れた唐草模様だ。それが柱や壁にも繋がり、敷き詰められた絨毯にまで続いていて、不思議な空間の広がりを演出している。
華美ではないものの、白い漆喰の上に描かれた色とりどりのこれらはすべて、彼らの信奉する神への賛美と捧げものらしい。
そんな中でも一際目をひく異質なものが、壁に一枚だけ飾られていた。
小さな額に納められたそれは、ラナーの家で見たあのタペストリーとよく似た図柄が描かれた一枚の絵だった。
普段は大切に仕舞われているものらしく、ひと目で古いものであるとわかるのに、色褪せなどはほとんど感じられない。
ニューランがそれとなく俺に近づき、耳打ちする。
「あれこそが、この村のルーツなんだろうね」
いつだったかに、ニューランが俺に教えてくれた伝承のひとつ――本当に世界中を覆いつくす水害が過去にあったかどうか、科学的歴史的な根拠は置いておくとしても、今の俺達の世界を見れば、確かにそういうこともあったかもしれないと思えてくる。
荒れ狂う水の中を木の葉のように漂う船の中、彼らは何を考え、何を支えに日々を過ごしただろう。
そして、それらを言葉ではなく音に込め、後々まで伝え遺そうと考えた彼らの思いは、末裔であるこの村の住人に受け継がれているのか。
そこまで考え至ってはじめて、俺は途方もない時間の概念を意識して、めまいをおぼえた。
そんな俺の思考は他所に、礼拝所の中にいる者達はとりたてて普段と違った様子は見せず、いつも通りのゆるい時間をそれぞれに過ごしている。
時折、数人が連れ立って礼拝のためにやってくるが、祈りを済ませるとすぐに立ち去っていった。彼らには、彼らの家でやるべきことがあるのかもしれない。
そうやって何人もが入れ替わり立ち代わりと訪れるさまを、俺は飽きもせず眺めていたのだが、残念なことにアーダムの姿は一向に見かけなかった。
この間の様子を思い出して、少し心配になったときだった。
入り口にさした影にはっとなり、振り向く。しかし、そこにいたのはアーダムではなく、アリーだった。
「ジウ、ニューラン、探したぞ」
アリーは羊の処理をすべて終えたらしく、正装に着替えていた。後ろには、同じく正装姿のワリードもいる。
「爺さん達も、集まってくれ。そろそろはじめよう」
アリーは老人達にも声をかけると、すぐに出て行った。カリムの四十日目の法要を執り行うためだ。
「やれやれ、あやつはせっかちで困るわい」
老人達は顔を見合わせて苦笑するが、家長的な役割を一人で担っている若者の苦労は、それなりに理解しているらしい。
老人たちの後について礼拝所を出る俺の側に、しかめ面のワリードがやってきて、愚痴をこぼす。
「本当なら、アーダムがやるべきことなんだけどな。だけど、あいつはあんなふうだから、少しもアテにならないし」
本家筋のアリーがもともとの家長であるのは違いないのだが、婿養子として家に入ったケマルだけでなく、その師匠であるカリムの葬儀も、ほとんど彼が仕切っていたと聞く。
そんな姿を常に側で見ていたからこそ、ワリードもアーダムにはいろいろと言いたいことがあるのだろう。しかし今日は祭りの日でもあるし、皆の手前、事を荒立てるつもりはないようだ。
アリーに促されて向かった墓地は、礼拝所を出てすぐ裏手にあった。
墓地には、幾つもの墓石がわりの石が並んでいた。
大きさはまちまちで、自然のままの石を置いただけのものもあれば、きちんと切り出して名前らしきものを彫った石もある。順当に考えていけば、自然のままのものが、この村を作った最初の世代の墓だろう。
墓地に集まったのは、カリムの肉親であるラナーと、その直接の血縁である親戚一同だった。マーリカとナジ、ザフラーとラシードも、無論そこに加わっている。
マーリカやザフラー、ラナーといった女性陣は、いつもとは違い、今日は大きな布を頭から被り、すっぽりと全身を覆っている。
似た背格好をしていると区別が付きそうにもないのだが、それぞれに纏う布地に施された文様のおかげで、なんとか見分けがつけられた。
村の者たちもぽつぽつと集まってきていて、故人の思い出などをめいめいに囁きあっている。
カリムがどんな人物であったかは、人伝えに聞いた事柄しかわからない。しかし、少なくともこうして親族以外の村人も弔問に訪れるということは、それなりに人望があったのが窺える。
古唄を通して、彼は確かにこの村に生き、そして村人たちの記憶の中にも刻み込まれているのだろう。
そんな師匠であり、育ての親でもあるカリムの法要だというのに、やはりアーダムの姿はどこにも見当たらなかった。出席しづらいのか、それとも、そのつもりはないのか。
不安になった俺が、しきりに周りをきょろきょろしていると、ふとその視線が、マーリカのそれとぶつかった。
彼女もアーダムの姿を探していたらしい。俺が首を振ると、彼女も困ったように眉を下げ、目を伏せた。
「では、はじめよう」
アリーが声をあげると、一同はそれまでおしゃべりをしていた口を一斉に噤んだ。
まず最初にアリーが神への祈りを捧げたあと、村の最古参であるハサンが神の言葉を記したという書物を読み上げ、出席した者達がそれを復唱する。熱心に何度も繰り返される言葉は、共通言語しかわからない俺にはよく聞き取れなくて、意味もわからなかったけれども。
それが終わると、一同はそれぞれが持参した花を墓石の前に供えていった。
そうしながら、順番に墓石に触れたり、口付けたり、生者にするように、二言三言と声をかけるものもいる。そして。
「え、もう終わり?」
ぞろぞろと帰りはじめる一同を見て、俺は驚いた。
あまりのあっけなさに拍子抜けしていると、ニューランが肩を寄せて囁いた。
「法要自体はね。本番は、これからだよ」
古唄を披露する夜になるまで、式は一旦お開きらしい。
「じゃあ、それまでどうするんだよ。まだ昼前だぞ?」
「そんなの決まってるじゃん」
俺の疑問に、ニューランが口端をにぃと上げて、答える。
「皆でご馳走を食べるのさ」
そう言って踵を返した彼は、足取りも軽く、次々と墓地を去る人に続いて村へと戻っていった。
半ば呆れながらも続こうとして、何気に振り返った俺は、別の墓石の前に立つマーリカとナジの姿を見つけた。
「皆と一緒には戻らないんですか?」
「あ、ジウ」
近付いて声をかける俺に気付き、ナジが駆け寄ってくる。
ナジは着慣れていない正装のせいもあってか、少し動きづらそうにしているが、その顔には不安そうな影はなかった。
「あのね、今、父ちゃんに話してたんだよ。今日はぼくが古唄を唄うから、ちゃんと聞いててね、って」
二人が前にしていた墓石が、ケマルの墓なのだろう。
亡くなったのが二年前ということで、他よりも色が明るく、形もわりかし綺麗に整えられている。その前には、たった今供えたばかりとおぼしき花が、ゆるい風に吹かれて揺れていた。
俺はナジの前にしゃがむと、その左手をとった。つい数日前に完成したばかりの、新しい義手だ。手の甲にあしらった大粒の天星石が、一際目をひく。
周囲を囲うように細くびっしりと描きこまれている文様は、下腕から上腕へと蔦のように伸びながら、革の外装の各所にちりばめた結晶を、その枝葉で包み込んでいた。
これらの石には、俺とニューランとでちょっとした仕掛けを施しておいてある。
単なる気休めにしかならないかもしれないが、お守りみたいなものだと考えてもらえればいい。
「沢山練習したもんな。頑張れよ。俺も、楽しみにしてるから」
「うん!」
力強い返事と共に、ナジの左手が俺の手を握り返す。
すると、マーリカがその後ろに立ち、ナジの肩に触れながら言った。
「ナジ、先に戻って、アリーのお手伝いをしてくれる? 私は、ジウさんと少しお話をしてから戻るから」
「わかった。じゃあね、ジウ。またね」
「ああ、また後でな」
俺はマーリカと共に、手を振って走り出すナジを見送った。
転びはしないかと心配にもなったが、ナジはそんな様子を少しも見せず、宿へとまっすぐ駆けていった。
それを見届けてから、マーリカが口を開く。
「あの子のあんなに嬉しそうな顔、久しぶりだわ」
そして、我が子に送っていた眼差しを、俺へと向ける。
「ジウさん……ニューランさんにも、本当にお世話になったわね。何とお礼を言えばいいのか……」
「うわ、よしてください。俺、そういうの苦手なんで」
俺は慌てて立ち上がると、手を振ってマーリカの言葉を遮った。
「それに、俺、そんな大したことしてませんよ。大体、ケマルさんの遺したノートが無かったら、何もできなかったと思うし」
「あら、そんなことはないわ」
マーリカが、俺の慌て具合を見ておかしそうに笑う。
「あの人のノートを見たって、村の誰にもこんなことは成しえなかったわ。義手を作り直すのも、石を焼くのも、あなただからこそ出来たのよ? 違うかしら?」
くすくすと笑う彼女のその表情もまた、しばらくぶりに見たような気がする。けれどその奥には、どことなく暗く、憂いたものが残っていた。
マーリカはアーダムとの一件があって以来、皆の前では朗らかに振舞ってはいたものの、その色はずっと胸の奥底でくすぶり続けていた。
そして、今この瞬間、彼女は確信しつつあった。
アーダムは来ない――マーリカは、明らかにそう思いはじめていた。
だが。
「大丈夫ですよ」
つい口から漏れてしまった俺の言葉に、マーリカが小首を傾げる。
根拠があるわけではないし、ただの気休めにしかならないとわかっていたし、もしかしたらかえって落ち込ませる結果になるかもしれないが、それでも言わずにはいられなかった。
「だって、まだ、これからでしょう? 今日のメインイベントは」
一瞬、きょとんとしていたマーリカだったが、俺の言わんとしていることを理解し、その表情を和らげた。
ナジが古唄を披露する夜までは、まだ時間がある。そのときまでには、アーダムも姿を見せてくれるかもしれない。
「……ええ、そうね。そうだったわね」
そう言うと、マーリカは頬を押さえるふりをして、そっと目尻に浮んだものを拭った。
「さ、俺達も戻りましょう。早くしないと、ニューの奴に肉を食い尽くされちまう。あいつ、あんなに細いくせに、胃袋は底なしだから、羊一頭くらいは軽く平らげちゃいますよ」
俺がおどけてみせると、マーリカは、
「あら、それはぜひ見なくちゃいけないわね。きっと迫力あるに違いないわ」
と、さもおかしそうに笑ってくれた。
決して衰えてはいないけれども、若い時分にはきっと、もっと美しく、眩しかったのだろうなと思わせるに充分な笑顔だった。
肉、肉、肉。
山盛りの料理が並ぶテーブルに、群がるようにして一同が勢ぞろいしているさまはなかなかに壮観だ。
これらはすべて、神への供物として捌いた羊から作られたものだ。それを、村の皆で分け合って食べている。
半分冗談で言ったつもりだったのだが、本当にすべて食い尽くす勢いで、ニューランは片っ端から料理を食べていた。
本当に、あの細っこい体のどこにそんなに入っていくのか、不思議でたまらない。けれど、そうしたくなる気持ちもわかるほどに、羊の肉はうまかった。
茹でたもの、串焼きにしたもの、野菜と共に炒めたもの。肉だけでなく臓物も、たっぷりの香辛料と香草で味をつけられ、あらゆる手法で調理された羊は、たしかにこれ以上ないほどに、特別な日のためのご馳走だといえる。
思えば、この味付けにも、すっかり舌が馴染んできた。
はじめの頃に腹を壊してしまった乳酒にも、どうやら耐性ができたらしい。今日は神聖な日でもあるから並んでいないが、もし置いてあったとしても、もうあのときのような失敗は犯さないだろう。
ニューランの食いっぷりは村人にも大分うけたようで、腹を壊しはしまいか、いや大丈夫だまだいけるだろうだのというやりとりを、皆でかわしている。
そんな賑やかな光景から少し離れた場所で、俺は一人、注がれた甘い茶すすりながら、ぼんやりとしていた。
「よぉ」
不意に力強い手で肩を叩かれ、振り返る。
アリーだ。彼はゆでつぶした豆を丸めて揚げたもの盛った皿を、俺の前に置いた。
「ジウは肉よりもこっちの方が好きだったろう。よかったら食べてくれ。遠慮はいらない」
「ありがとう、いただくとするよ」
小皿に取り分けている間に、アリーは俺の隣に腰を下ろす。
「楽しんでるか?」
「ああ、おかげさまで。とても楽しいよ」
「……そうか? なら、いいんだが」
腑に落ちないとでも言いたげな視線が、俺に向けられる。
アリーは一旦口を噤んだが、しかしそわそわと落ち着かない素振りで、すぐにまた俺にたずねてきた。
「いつだ?」
「……何が?」
俺はアリーの質問の意味に気付かないふりをしたが、そんなごまかしは彼には通用しなかった。
「そろそろ旅立つつもりなんだろう?」
俺は一瞬、どきりとして手を止めてしまった。そして、よく人を見ている男だと呆れると同時に、感心もした。
何も言わずに苦笑を返すだけの俺に、アリーは確信を持ったようだった。身を乗り出し、畳み掛けるように聞いてくる。
「次、行くアテはあるのか? ニューランも一緒なんだろう?」
「いや、まだ行き先は決めていない。ニューの奴も、どうするか聞いてないし……」
場合によっては、ニューランとはここで別れることになるかもしれない。それもまた、一つの選択だろうけれども。
「でも、発つとしたら、次の定期便が来たときじゃないかな。またこの草原を歩くのだけのは、何としても避けたいからさ」
あんな無茶はもう懲り懲りだと、おどけて言ってみせると、アリーもつられたように笑ったが、その声には明らかな落胆が滲み出ていた。
「なあ、ジウ。俺がこんなことを言っても仕方ないかもしれんが、もし、何だったら……その、ニューランも、あんたらさえ良ければの話だが、ここに留まっていてくれないか。俺だけじゃない、ワリードや爺さんたちも、皆、あんたらのことは好いているし、ナジも、あんたたちには随分と懐いているし、それに……」
アリーはもごもごと口篭ってしまったが、何を言いたいのかは俺にはわかっていた。しかし、
「それはできない相談だな」
俺はそう言うと、皿から目を上げて、いつものように忙しそうに厨房と各テーブルとの間をひっきりなしに往復しているマーリカを眺めた。
男は男達で、女は女達で囲んでいるテーブルの間に立つ彼女は、お世辞抜きで美しいと思えた。色とりどりのビーズや金銀の装飾と、念入りに施した化粧の助けもあるだろうが、それらがなくともその微笑には不思議な魅力があった。
俺の視線に気付いたのか、マーリカが一瞬こちらに顔を向ける。ふわりとした微笑は、確かに俺に向けられてはいた。
けれど、違うのだ。その役目を果たすのは、俺じゃない。
「俺に、ケマルの代役は無理だよ。俺は彼みたいに独創的じゃないし……それに、悪い癖があってね」
「悪い癖?」
「そう。俺はこうみえても、結構な変わり者だからさ。ひとところには、じっとしていられないんだ。ガリーブと同じさ」
よそった揚げ物を一つ摘まみ、口へと放り込む。豆の味を噛み締めながら、俺はつくづく思うのだ。
喧騒の中にいれば静寂を求めるし、孤独の中にいれば自然と人ごみを恋しく感じてしまう。どちらか一方に身を置き続けるなんて、そんなことは出来やしない。
つい先ほどだって、アリーに声をかけられるまでは、皆と交わらず、一人で考え事をしていた。とうに離れたはずの故郷のことを、別れたはずの人々のことを思い描いていた。
この先、もしそこへ戻ることがあったとしても、俺はまた旅立つだろう。つまりは、そういう性分なのだ。
「そうか……」
アリーはしょんぼりと肩を落とし、溜息をついた。
外見がいかついのと、たくわえた髭のせいで老けてみられがちなアリーだが、こうして間近で相対していると、やはり年相応の若者らしい顔をしているのだなと、改めて気付かされる。
「まぁ、そうだろうなという気はしていた。すまん、ジウ。妙なことを言い出したりして」
「いや、俺の方こそわがままですまない。でも、あんたたちの好意は、素直に受け取っておくよ。ありがとう、アリー」
俺はアリーの肩を、親愛の気持ちをこめて叩いた。こんなふうに俺を受け入れてくれた場所は、ここが最初で最後かもしれないと思うと、急に名残惜しくなってきたが、こればかりはどうしようもない。
アリーも、自分の中で納得したのだろう。次に顔をあげたとき、俺を見つめるその表情は、いつもの彼に戻っていた。
器をとって新たな茶を注ぎながら、俺達は会話を続ける。
「次の定期便といったな。だったら、もうすぐじゃないか。随分と慌しいな」
「仕方ないさ。冬がすぐそこまで来ているわけだし」
「それもそうだな」
「また来るよ。いつになるかはわからないけど」
「本当か? 俺たちのこと、忘れないでくれよ?」
「忘れるもんか。そうだ、時々手紙を書くことにしよう。隊商に頼んで、届けてもらおう」
「そいつは楽しみだ。外のこと、沢山教えてくれよな」
アリーもまだ十分に若い男だ。本音を言えば、彼も外の世界を見てみたいのだろう。
しかし、彼には村に留まって果たさなければならない責任がある。だから余計にアーダムのことが癪に障ったのかもしれない。
大崩壊時代に比べれば気候や環境は相当落ち着いたといえるが、俺やニューランのように、簡単に外に出られるような者はまだまだ少ないのだ。
不意に、奥の方からどっと笑い声があがる。その方向を見やれば、ニューランが何か面白いことを言ったのか、あるいはやらかしでもしたのか、そこにワリードとハムザも加わって、皆で仲良く騒いでいるところだった。
そこから視線を戻せば、同じように返すアリーと目が合う。
俺達は声を出さずに、お互いに笑い合った。
「世話になった」
「こちらこそ」
どちらからともなく、茶の器を軽く捧げる。
「旅路の無事に」
「皆の健康と平安に」
そして、ナジの演奏の成功を願って、俺とアリーは互いの器を軽く打ち鳴らした。
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