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第15話
篝火がたてる微かな音の隙間を縫って放たれたのは、単色の、しかしはっきりとした一音だった。
弦に触れずに解放した状態で揺り起こされた振動は、共鳴板を介して胴体に埋め込まれた天星石へと忠実に伝えられる。
そして、星々のような小さな灯を点したそれは、ナジの左腕――義手の甲に埋め込まれた一際大きな石へと伝播していった。
舞台下で息をつめて見守る観客達から、感嘆の溜息が漏れる。
俺が横目でニューランをちらりと窺うと、奴も同じようにこちらを見て、にやりと笑った。
そう、これこそが、俺とニューランとで施した“ちょっとしたおまじない”だった。
はじめにそれを提案したのは、ニューランの方だった。
ケマルの残したスケッチの随所に書き込まれた音階と、ナジが記憶に留めていた旋律から汲み上げたそれらを、撚り合わせようと言いだしたのだ。
ラバーブ本体に埋め込まれたアスタリウムが特定の音に反応するのは、俺もうすうすは理解していた。だが、具体的にどの音がどの石と対応しているかについてまではわからなかった。
一体どうやればそんな事が可能になるのか、本当に出来るのか見当もつかなかったのだが、ニューランがその確かな耳で拾い上げた音と、彼の調律で蘇ったアーダムのラバーブは、素直に彼の意図に従ってくれた。まるで、生まれたときからそうなるように作られていたかのように――否、まさしくそうなるようにと、ケマルが考えに考え抜いて義手のアイデアを練っていたのだろう。
これらは紛れもなく、二つで一組の楽器となるべく考え出されたものだったのだ。
そしてニューランはそれを見事に探り当て、これ以上ないくらいにその神髄を引き出し、仕上げてくれた。マーリカは謙遜するなと言ってくれたが、俺一人では決して成し遂げられなかった事だ。
そういう次第で、急拵えの改造ではあったがニューランのおかげでなんとか仕上げる事が出来た仕掛けは、ナジの演奏に合わせてその小さな瞬きを皆に向けて披露してくれていた。
“おまじない”とは言ったが、ちゃんと機能するかどうか、実は心配でたまらなかった俺は、周囲に悟られないように安堵の溜息をそっと吐く。
――だが、まだだ。
まだ始まったばかりだろう、落ち着け、と俺は胸の内で呟いて、ゆっくりと深呼吸をした。
本番はこれからだ。感無量になるのはまだ早い。
そうしてじっと見守る俺たちの前で、ナジは右手の弓と左手の義手を巧みに操り、音を確実に紡いでゆく。
沢山練習をした甲斐もあって、その動作はとても滑らかだった。舞台に上がる前は緊張で今にも気を失いそうなほどだったのに。音に集中するうちに、周囲が気にならなくなったのだろう。
いいぞ、その調子だ――俺は内心でナジと義手とに語りかけた。
素朴な音色の単調な繰り返しは、暫くの間続いていた。けれど、それはあくまでも“導入”にすぎないものだった。
ナジが紡ぐ旋律に併せて、ハサンが同じく構えたラバーブを奏で始める。伴奏だ。
彼の抱えるそれはナジのとは違い、石は埋め込まれていない。昔ながらの、伝統的で素朴なものだ。
そんなハサンに続き、ナジの後方に控えていたマウリーシとナーセルも互いに持ち寄った楽器で追従をする。
マウリーシが手にしていたのは、ちょっとした鍋くらいの大きさの、木枠に薄い膜を張っただけの簡素な太鼓だった。木枠には小さな金属の輪が幾つか附随していて、マウリーシが膜を指で軽く叩く度にシャラシャラと鳴った。
そしてナーセルが細く長い笛で、何ともいえぬ音を放つ。叢でほろほろと鳴く鳥のような、それでいてどこか人の声にも似た、不思議な音色だ。
その合間を縫って、小さな呼気が一つ。
口を開いたのはハサンだった。
そこで俺は、やっと気がついた。
彼もまた、歌う人だったのだと。
後でラナーが教えてくれたのだが、ハサンはずっと若い頃、アーダムの師匠であるカリムと共に古歌の修行をしていたらしい。残念ながら腕前の方はカリムにはとても叶わなかったので修行を諦めたのだが、その後も時々は皆で一緒に火を囲み、各々持ち寄った楽器を演奏していたのだそうだ。
それならそうともっと早くに言ってくれれば良かったのに、参考になることだって聞けはずなのに、と恨めしく思ったのだが、出稼ぎやら何やらで演奏をしていない時期の方が長かった。これを奏でるのも、ウタを唄うのも、本当に何十年ぶりのことのようで、つまりは俺たちに明かすのが恥ずかしかったらしい。
「三人とも、こっそり練習していたのよ」
ラナーは楽しげに笑ったのだが、こんな狭い村で常に顔を合わせていたのに、一体どこで、いつの間に練習をしていただろうか。
狭く小さな村だと思っていたが、俺がそう思い込んでいただけだったのだろう。
何しろ、だだっぴろい草原のど真ん中にあるのだ。足腰さえ丈夫なら、どこへだって歩いていける。
――それはさておき、呆気にとられている俺を尻目に、ハサンが浪々とした声で口上を述べ始めた。
神よ神よと呼びかける、お定まりの文句だ。
これもまた後でラナーが教えてくれたことなのだが、葬儀のときに披露されるのはナウフとよばれる哭歌で、俺が理解する共通言語ではないという。この村の住人がもともと使っている、西方の言葉なのだそうだ。
こんなことを言うと怒られそうなだし、この村ではとても口にはできないのだが、正直なところ、俺は神という存在をあまり信じていない。
どんな奇跡や不運が起こったとしても、それはその現象が起こるまでの小さな出来事や時間の積み重ねの結果であり、人々が「そうありたい」「そうであって欲しい」と願うものの投影でしかないと、そう考えているからだ。
けれど、こんな世界だからこそ、自分達の力ではどうにもならない出来事は何かしらの大きな力が働いた結果なのだと、それらの見えざる手によって導かれた運命なのだと、そう思わざるを得ないのもわかっていた。
かつてこの地上に降り注いだ天災がそうであったように。
この村の祖先が伝える大洪水の伝説がそうであるように。
そして、俺が失ったものに対して「そういう運命だったのだ」と思うことで踏ん切りをつけようとしたのも、きっと同じところから湧き出た感情なのだろう。きっと。
様々な“想い”をぶつけるかのように、ハサンの口上が続く。
聞き慣れた声の、聞き慣れない独特の言い回し――普段の歯抜けで常に空気が漏れているハサンの喋りとは違って、しっかりとした発音をしていた。どうやら入れ歯を装着して唄っているらしいと気付いたのは、彼の哀切極まる調子に、暫くの間じっと聴き入ってからのことだった。
ただ残念な事に、俺は彼の言っている言葉の意味がよくわからなかった。これまであまり真剣に彼らの言葉を覚えようとしなかったせいだ。
ちゃんと学んでさえいればもっと深く探れただろうにと後悔したものの、今更というやつだ。
詳しい解説が欲しければ後でニューランにでも頼めばいい。多分、夜通し使ってでも終わらないくらいの内容を、嫌というほど聴かせてくれることだろう。
そう思い直した俺は、言葉を追うのを止めて、彼らが奏でる旋律にのみ集中することにした。
ナジが奏でるラバーブの旋律は、拙いながらも安定していた。天星石の輝きも乱れはなく、今のところ全てがきちんと機能しているように見える。
楽器と義手とに描かれた蔦文様が示す、強弱をつけた波にも似た繰り返しが心地良い。
ハサンの声に合わせるようにナーセルが鳴らす笛は、やはり何とも言えぬ不思議な音色を放っていた。
白く見えたのでこれも羊の骨などから作ったのだろうと俺は勝手に思っていたのだが、実際にはそうではなく、葦という植物から作られたものなのだと、ニューランが後から教えてくれた。
そして、それらの合間を縫って拍子を挟んでくるのがマウリーシの太鼓だ。
大きさの割に優しい音色をしたそれは、乾いた風がほとほとと戸や窓を叩くような感触だった。
二人ともその気になればもっと大きな音を出せるのだろうが、今夜の主役はラバーブの方だからか、それらはとても控えめに奏でられていた。
そのラバーブも、ハサンは時折弓を使わず、右手の指で直接ぽろぽろと掻き鳴らすようになった。
そうして四人の合奏とハサンの独唱は、暫くの間続いた。
ゆっくりと流れる川のように。
草原を渡る穏やかな風のように。
そして、寄せては返す小さな波のように。
――だが、これはニューランが求める古歌ではない。
俺は再び横目で奴の顔を窺う。
ニューランは目を閉じていた。その手の中では、彼の女神が録音状態を示す小さな青い光を灯しながら、「その時」が来るのを待ち侘びている。
周りの村人たちの様子も似たような具合だった。ただ、演奏が始まる前の緊張感が解けて、どこか和んだ空気に変わっていた。
馴染みある老人達の演奏もそうだが、ナジが予想以上に上手かったせいもあるかもしれない。奇異な様相をした義手には驚かされはしたが、ナジがケマルの息子であることと、ケマルが沢山の発明をしてきたこととが合わさって、彼らの中で腑に落ちたのだろう。
そうこうしている内に、ハサンの口上が終わる。
音が途切れ、つかの間の静寂が周囲にもたらされた。
さて、ここからどうなるんだろうと思っていると、ふと、舞台周辺の空気が、少しだけ変わったような気がした。
いつしか日は完全に沈んでいた。舞台は一層暗く陰り、篝火に照らされている部分との差が大きくなる。
その中で、ちらちらと瞬く青い灯が幾つか残っていた。ナジの義手とラバーブだ。
まだあどけない少年の顔は、暗い闇の中に半分ほど埋もれていた。
起きているのか、眠っているのか。半分ほど瞼を下ろした状態で、中空の一点を見つめている。
おや? と、俺が思った時だった。
ナジが、おもむろに右手を動かした。
「はじまる――」
ニューランの微かな呟きと同時に、再びナジの左手の甲に青い光が灯った。
ただしそれは、最初のような、ともすれば消えてしまいそうな微かな瞬きではなかった。
黄昏色の闇の中、星が瞬いた。
†
ナジが顔を上げ、口を開く。
少年のまだ幼い喉から発せられる澄んだそれは、小さくも、はっとさせられるものがあった。
言葉ではなかった。
声ですらなかった。
純粋な“音”と表した方が正しいと、俺は思った。
宿の部屋でニューランが聴かせてくれたあの音に近い感覚が、俺の脳裏を掠める。
古来より依り代として役目を果たす者は、そういった性質が備わっていると聞く。曰く、“神懸かる”というやつだ。
自身の思考、雑念といったものをすべて払い、無の境地に至った時、意図せずとも肉体は手足を動かしたり声や言葉を発したりする。
ナジにはそういった性質が備わっていたのだろう。あるいは、正確には彼の“血筋”のお陰とでも言うべきか。
そもそも、ナジは村一番の歌い手であったアーダムの甥なのだ。あるいは、父親であるケマルは早くにこれを見抜いていたからこそ、ナジにラバーブと義手を与えようとしていたのかもしれない。
もっとも、実際に彼が何を考えてどう行動したのかなんて、赤の他人である俺にわかるはずもない。こうして考えていることだって、単なる憶測だ。
そうこうしているうちに陽の名残は完全に消え去って、東の方角から歪な姿をした月が顔を覗かせた。次いで姿を表すのは、小さくも力強く瞬く本物の星々だ。
雲は少し広がっていたが、雨が降るほどではなさそうだった。
まだオーロラが出る時間ではないが、今宵も夜が更ければまたあの色とりどりの大きな幕が翻るのだろう。
それらを背景にしながら、ナジは小さな喉とその奥にある肺から放つ音を奏でる、もうひとつの楽器と化していた。
ウタが始まる直前では半分開いていた目は、今ではすっかり閉じられていて、どこか夢でも見ているかのような穏やかな顔をしていた。
俺はただただ驚くばかりで、宿で練習していた時は全く様相の違う少年を前に、ぽかんと口を開いて見つめるしかない。
しかし、他の者たちはそうではなかった。
ふと気付けば、ニューランとは反対側、俺の右隣に座っていたラナーが演奏に合わせて体を揺らしていた。瞼を閉じて、弦を作ってくれた時に見たような微笑みを浮かべている。
ラナーだけではない。彼女を挟んた向こうに居るラシードとザフラーも、彼女が膝に抱いている赤子も――否、彼らだけでなく、広場に集まった村人たち全員が、心地よさそうな具合で奏でられる演奏に聞き入っていた。
俺がニューランの方を見ると、ニューランも俺の方を見ていた。
ニューランは右手の人差し指を唇に当てて微笑むと、その指を翻し、舞台へと向けた。
促されるまま、俺は舞台に目を戻す。
演奏は続いていた。
単調な繰り返しではあったが、不思議と飽きることのない旋律だった。
まるで小さな船を漕いでいるようだと俺は思った。そして、そのイメージは、あながち間違いではなかった。
ふと、小さな礼拝堂の奥に飾られていたタペストリーが俺の脳裏に浮かぶ。
夢現の奏者に導かれて、俺たちは海原を渡っているのだった。
そうして聴いているうちに、俺はこの大陸に渡るために、一度だけ乗った船のことを思い出した。そして、二度と乗るものかと誓ったことも思い出す。
昔の海はもっと穏やかで青かったというが、そんな光景はもはや誰一人として知る者はいない。この先見ることも叶わないだろう。
今の海は、暗く澱み、果てなく広がる毒溜まりだ。
岸を離れて海原を目差した者は皆思い知る。一日として同じ様相を見せない、嵐吹き荒れる危険地帯だということを。
そんな具合だから、天蓋の外に出ることはおろか、他所の国にまでわざわざ出かけようだなんて思う者もいるはずがなかった。
いたとしても、果たしてそこまで命をかけるほどのものがあるのだろうか。
(……あったさ)
ナジの義手、その甲に埋め込まれた天星石に灯る光を見つめながら、俺はいろんな想いを噛みしめる。
何一つとして得るものはもう無いのだと思っていた。
遺せるものすら無いのだろうとも思っていた。
思い返すのも煩わしく、全部忘れたことにしようと、そう思っていた。
そんな俺の前で、今、少年が小さな楽器を掻き鳴らしている。
その細い左腕に、俺が作り直した義手を装着して。
俺は舞台袖に立つ人影へと視線を向ける。
マーリカはまだそこに立ち続けていた。
胸の前で組んだ両手を握りしめたまま、息子の演奏をじっと見つめていた。
身に纏った黒い布はほとんど夜闇と同化していたが、施された刺繍や縫い込まれた幾つものビーズが小さな光の粒となって揺れていた。
その視線の前で、ナジの義手に埋め込んだ青い石が、楽器と奏者の肉体を介して更なる変化を起こす。
“おまじない”の第二段階――義手の動力源である天星石が、弦から生まれる振動エネルギーによって揺り起こされ、その身に刻まれた記録の再生をはじめたのだ。
まだ義手の操作に慣れきっていないナジの動きを補うためにと、俺とニューランとで仕込んだとっておきの機能だった。
ナジの記憶する旋律と、楽譜である文様から読み取ったものを、ニューランが演奏し、テレプシコーラで録音した天星石。これらの内、一つとして欠けるものがあれば、決して実現はしなかった仕掛けだ。
「古唄に手を加えるわけじゃないから大丈夫。それに、これは絶対に必要だよ」
難しそうだった上に日に猶予が無く、そしてウタにおかしな改変が加わってしまうのではないかと尻込みする俺に、ニューランは言い切った。
幼い少年の筋力では義手を通して長時間弦を押さえ続けるのは困難だろうし、早いリズムや激しい階調での指運びに至っては無理がありすぎる、と。
ニューランにしてはあまりに強く推すし、だいたい議論している時間も無かったので、言われるままに機能追加をしたわけだが、確かにこれは盛り込んでおいて良かったと、俺はナジの様子を見ながら思う。
少年の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。篝火と天星石とに照らされた頬も紅潮している。
ウタを唄うために呼吸も制限されている状態だ。息苦しさも相当なものだろう。
座ったままではあるものの、上半身はリズムに合わせて左右に大きく揺れている。演奏の最後まで体力がもつのかと心配になるが、それでもナジは懸命に弦を繰り続けていた。
唄いながらの演奏だなんて、そんな高度なことを、つい最近演奏を始めたばかりの子がこなすとは――舞台下の村人達が、その技巧に再び目を見張り、息を詰めて聴き入っている。
それにしても――と、俺は改めて思う。
天星石に録音をする際にニューランが演奏をするものを軽く聞きはしていたが、よもやここまでとは想像もしていなかった。
そして、だんだんと不安になってきた。
そんな不安を象徴するかのように、演奏の方も徐々に力強く、嵐の訪れを思わせる激しい旋律へと移っていく。
天星石は記録に忠実な振動を義手に伝え続けていた。
そのエネルギーは内に張り巡らせた巻弦を伝い、関節や指先に配置した小さな石に到達し、それらを可不足なく動かし続ける。
だが、少年よりも先に限界がきたのは老人達の方だった。
先ず、ナーセルの笛が途切れがちになった。時折笛から口を離しては、ふうふうと肩で息を吐いている。
ハサンの方も手が追いついていなかった。ナジの演奏の早さに入り込めず、所々音が抜けるようになってきた。
マウリーシに至っては、つい力が篭もりすぎて、やたらと調子の外れた大きな音を立てるようになっている。
それまで調和を保っていた演奏に、乱れが生じはじめ、舞台を見守っていた村人達も、一体どうしたんだろうと互いの顔を見合わせている。
「んん、良くないな、これは」
ニューランが眉間に皺を寄せて、そう呟いた時だった。
バチン、と。
何かが弾ける音がした。
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