本日の営業はお休みをいただきます

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本日の営業はお休みをいただきます

──こちら。ああ、それが、お得意様でして。 ご覧の通り小さな床屋ですから、ノックいただくと、どうしても店を開けてしまうのですよ。商売などしておりますと、つい。良くないことだとは、思っているのですが。 はい、はい。いえ、とんでもない。ご苦労様でございます。では。 ──失礼、お客様。驚かれましたかな、お得意様、などと。 お巡りさんには、ああ言っておかねば、説明が難しいでしょう。一応、お休み、と掲げておりますし。 当店のご利用は、はじめてでいらっしゃいますね。どなたから聞かれていらっしゃったので。 ああ、左様でございますか。はい。それはもう、あの方は、それこそいつも御贔屓にしてくださっておりまして。 では、××××様のご紹介ということで。ご満足いただけますよう、努力いたしますね。 鏡のほうを向かれてください。ご自身のお顔をよくご覧になって。そう、そうですね。いつもこのようにしながら、ご注文いただいているんですよ。 さて、今日はどのようにいたしましょう。 ──畏まりました。それでは、ご要望にお応えできるよう、誠心誠意、取り組んで参ります。 もし、後日、お気づきのことがございましたら、遠慮なくお申し付けください。 ──まずは、お相手のことを、うかがっても? お気を悪くされないでください。お相手様との思い出を聞くのが、私の楽しみでして。 はい、はい。 なるほど、高校からの。それはそれは。ならば、さまざま感慨もお有りでしょう。何か、きっかけがございましたか。 お仕事で。左様でございますな。いや、ここへいらっしゃるお客様からは、やはりしっかりとしたお話がうかがえて、面白い。 しかし仕事というのは、不思議なものですな。生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのか、時折、わからなくなる。 斯くいう私も、仕事中毒でしてね。ああ、お分かりになりますか。お恥ずかしい。 ──道具、ですか。 鋏と剃刀があれば、仕事はできますからね。古臭い仕事なのかもしれませんが。手に馴染んだ道具で仕事をするのが、好きなのですよ。 今は色んな道具があって、私のような者にも扱える便利なものもあるのは、知っているのですがね。 ──ありがとうございます。まさか褒めていただけるとは、思いもよりませんでした。 この仕事でしょう。技倆(うで)など褒められるまでもなく、当たり前に身につけているものだと思われるのですね。 実際、そう思っていただけることが、私のような仕事をしている者にとっては、誇りでもあるのですが。 ──同業者。 さて。よく知りませんな。私も随分と、ひとりでの仕事しか、してこなかったものですから。 ──この店、でございますか。 それは、お答えしかねますな。ただの床屋、でよいではございませんか。 ──では、本日はこれで。 お代はまた、後日。 つぎの営業日にでもお越しください。 いえ、本日と同じ営業日、でございます。 掛け札。ああ、あれのことですか。××××様から伺っては、おられないのですね。 くだらない、お遊びですが。 「本日の営業はお休みさせていただきます」。 これ、言葉の遣い方としては、間違っておりますよね。文法上、と言うのですか。私も詳しくはないのですが。 ですから、あの札を表に掛けているときはね、実は、裏は営業中、という意味なのですよ。のほうは、ね。 本業? いえ、が本業かと言われると、困ってしまうのですが。札に話を戻しても? 御巫山戯(おふざけ)のつもりでしたが、気に入ってくださったお客様がいらっしゃって。それ以来、こうして掛けているんです。特別なお客様には判るように、と思いまして。 くだらないでしょう。 でもね、生きていることなんて、それだけでくだらないとお思いになりませんか。 髪を切るのと同じくらい、簡単に、切ってしまえるのですから。 これは失礼。余計なことを申しました。私の悪い癖です。ご容赦を。 もちろん今度は、札の掛かっていない営業日にお越しいただいても結構ですよ。また髪が伸びた頃、お待ちしております。ここは床屋ですからね。 ──最後に一度だけ、こちらを向いていただけませんか。いえ、前髪の様子が気になってしまって。すみません、髪切り屋の性分とお笑いください。 お顔、憶えました。 気をつけてお帰りください。またのお越しを。
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