Chapitre1 白鳥湖

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Chapitre1 白鳥湖

 Chapitre1 白鳥湖  【一】  この日は朝っぱらからツイていなかった。寝癖はなかなか治らないし、卵焼きは崩れるし、バスが遅れて混んだ挙句に靴を踏まれた。 「草薙健斗。ちょっと顔貸せ」  朝のSHR前。廊下から名指しされた瞬間、賑やかだった教室が一斉に静まり返った。  まずい。  彼のこと全然思い出せない。 「出来ればフリーズ以外のリアクションを頼む」 「…今行きます」  なんとか動揺を抑えて椅子を立てば、相手は満足したように微笑んだ。微笑んだ、のだと思う。たぶん。たまたま扉近くに立っていた女子が顔を赤らめ、男子の「あんなイケメンいたか?」「さあ…」という囁き声がする。僕はなんとなく、微笑みの奥を見るのは危険な気がした。  雨の多い春だった。  花びらが雨粒に。雨粒が花びらに。くるくると変化する風景が忙しない季節。  教室を出て、僕は人気のないテラスに連れて行かれた。三階。向かい合った彼の後ろに、うっすらと京都タワーや二条城が見える。少し泣き出しそうな空の下、校内の桜が風に乗って踊るのを、現実逃避のようにぼんやりと眺めた。 「そう警戒するな。取って食いやしない」  まるで悪役のセリフだ。  先輩なのは確かだ。校章のライン、白は高等部三年生。一年生は赤で、僕ら二年生は青になっている。 「すみません、誰だか覚えてないです」 「ん?…ああすまん、間違えた。朝のレッスンが長引いてそのままだったな」  間違えた?  彼はそう言うと、ワックスで後ろに流していた髪をくしゃくしゃと乱して銀縁の眼鏡をかける。僕は素直に驚いた。 「生徒会長…?」 「ご名答」  呼び出された理由が益々わからなくなった。でも嫌な予感はしていた。取って食いやしないなんて、実際は逆の意味なのだから。 「俺はお前のことはよく知っているぞ?英国ロイヤルバレエスクールの帰国子女で日本ジュニア部門(三種の神器)が一人」  それは僕の地雷だった。  音が遠くなる。耳鳴り。目眩。胸を刃でえぐられたような痛みが脳髄を真っ白に焼いた。  ───許さないから 「人違いです」 「想定内の回答をありがとさん。俺の名前は天宮和臣。生徒会長ならびにバレエ研究部の部長をやってる。お前は無関心だったみたいだが、周囲に勝手に《三種の神器》だなんだと騒ぎ立てられれば、残る二人をチェックしたいと思うのは当然の心理だろう?」  動揺を悟られたくなくて、まだ少し霞む目で彼を睨むように見た。 「バレエなんて知りません」 「想定内だって言っただろ。第一問」  予鈴が鳴った。無視してさっさと行こうと思うのに、魔法にかかったように足が動かない。目だ。僕を見る強すぎる目が、この空間を支配している。 「『白鳥湖』第三幕、最大の見せ場は黒鳥の三十二回転だと言われているが、それはなぜだと思う?」 「………さあ。凄いからじゃないですか?」  僕は素人目線の無難な回答をしたつもりだった。彼がニヤリと笑い、誤答だと気づく。 「少なくともバレエを知らない人間で、『黒鳥の三十二回転』と聞いただけで、それが軸足一本ノンストップ連続回転だと想像出来る奴はいない。舞台をただグルグル歩き回っているだけかもしれないぞ?だから、すぐに「凄い」なんて称賛が出てくるはずがないんだ」 「……」 「しかも今時、俺達の世代で『白鳥の湖』ならともかく、『白鳥湖』と聞いてすぐ想像出来る奴はそういない」 「…最大の見せ場と言うから、凄いんだろうなと思っただけです」  苦しい言い訳だ。だとしても、あっさり認めるわけにはいかなかった。 「第二問。コレはなんだと思う?」  ぺらり。と気障ったらしい仕草で目の前に掲げられた、ソレは。 「パリ・オペラ座バレエ団エトワール引退公演の限定プレミアムチケット!?」  息継ぎもせず言い切った僕は、慌てて口を手で塞いだ。 「反応が見事にヲタクだな」  前のめりになった足を一歩、後ろへ下げる。  そんな僕を見ながら、生徒会長は面白そうに笑うのだ。 「飛びついてくれて良いんだぞ?コレはお前へのプレゼントだ」 「………何のつもりですか」 「簡単に言えば『呪い』を解きに来た」  電波系だったのか、と更に一歩下がると、二歩分を一歩で詰めてきた。  壁ドン。 「昔々あるところに男の子と女の子がいた。女の子はバレエがクソほど下手っぴだったが、男の子と特訓したお陰で上手になった。ところが二人が通うスタジオはライバル同士だった。二人の仲を良く思わない周囲が喧嘩して、繋いでいた二人の手は離れてしまった。…お前と水野千鶴のことだな?」  ガリ、と背中の壁に爪が引っかかる。  この、ひと、は、どこ、まで、しってい、る──? 「頼みはひとつ。秋の学園祭、お前と千鶴には主役として踊ってもらう。演目は『白鳥湖』」 「ふざけてるんですか……」 「切実だぞ?」  言葉と噛み合っていない笑顔で飄々と言う。動けない僕の手にチケットを捻じ込ませて、生徒会長はテラスを出て行った。  ブブ、とポケットが震えて我に返ると、メッセージアプリにぶっきらぼうな一言が届いていた。本鈴。遅刻だ。 【不知火遼:お前どこいんの】  投げやりに返事を打った。 【魔境】  午後は新学期恒例の全校定期清掃だった。  パンパンに膨れたゴミ袋を外のゴミ置き場に捨てて、一息つく。今日はうっかり、ジャージを家に置いてきてしまった。サイズがピッタリになった制服は、掃除には邪魔くさい。  少しサボっていこうと何気なく見回して、小さな地蔵が目に入った。敷地の木陰にひっそりと座っているけれど、色紙の鶴や短冊に囲まれているから意外と目立つのだ。  この学校は商店街の中にある。「地蔵商店街」と言えば「ああ、あそこね」と誰もが知っている。通りによく首が落ちる地蔵があって、その首を元に戻してやるとご利益がある。そんな伝承が名前の由来だ。  地域活性化のため、当時空き家が目立っていた敷地を買収して、十数年前に建てられたのがこの学校だった。堅苦しい正式名称より「地蔵学校」で近所では親しまれている。  そもそも京都は地蔵の町だ。辻のあちこちにあって、でも気づかないで通り過ぎることも多い。宗教や信仰のことは、よくわからない。手入れをして拝んでいるのは、うんと年上の人達。お地蔵さんが見ているから悪いことをしちゃダメよ、とお母さんが子供に言っていることもある。  だけど、この小さな地蔵は他の地蔵とは少し違う。雨風に晒されて寂しそうな折り鶴や短冊は、叶わない願いや諦めた夢だ。大体は恋愛や部活、進路関係。  お地蔵さま、聞いてください。叶わなかった自分の心を聞いてください───  大事に抱えていたモノを、すぐにゴミ箱に捨てたり燃やしたりは出来ない。だから託すのだ。叶えて欲しくて祈るわけじゃない。色紙に書いて、預けて、いつか自然と風化するようにと、慰められに来るのだ。  掃除に戻る途中で、見つけてしまった。  初代理事長の趣味らしく、校門から校舎の中間に古い時計塔がある。『くるみ割り人形』に出てくるものと似ている、と思ったのはいつだったか。てっぺんは一番大きな脚立でギリギリ届くくらいだ。彼女では微妙に届いていない。  なんでこんな時に限って誰も気づかないのだろう。そもそも普通、下で誰か支えるべきだ。誰かに頼まない彼女も彼女だ。人と喋るのが苦手なのは知っているけれど、そこから落ちたら最悪骨折するし頭も打つ。  ああもう。 「降りて」  脚立をしっかり支えてから言った。うっかり落ちてこようものなら受け止めるつもりで、そうはならなくてホッとする。零れ落ちそうな瞳をあまり見ないように「降りて」ともう一度言った。言ったからには、自分が掃除しなければならない。面倒臭い。違うクラスなのに。  ひらり、と彼女のブレザーのポケットから落ちた。  ヨレヨレになった色紙の短冊。に、書かれた文字が見えた。  将来の夢は、靴職人になることです。つくるのは桜色の、魔法の靴です。彼女に合う、彼女だけの靴を作って、プレゼントしたいです───草薙健斗 「……え…」  彼女が慌てて拾う。「それ…」無意識に追いかけて手を伸ばすと、パッと後ろ手に隠された。ぶんぶん、と首を横に振って、必死な顔で僕から後ずさる。 「千鶴ちゃあーん、手ぇ空いとるならこっち来てやー」  呼ばれた彼女はオロオロして、それから、行ってしまった。  追いかける?でもどうして?返せとでも言うつもり?あの地蔵のところに捨てたものなのに?そもそも、近づくつもりなんてなかったのに? 「え…?」  のろのろと持ち場に戻ると、サボっていたのがバレてクラスメイトに怒られた。  僕は少しブカブカの制服を着て歩いていた。  落ち葉を踏みながら、辻を曲がる。赤いよだれ掛けの地蔵。薄化粧の地蔵。玩具の風車やミニカーが置いてある地蔵。地蔵を目印に道順を辿って、鳥居をくぐった。  学校指定のバッグを適当に置いて、ぐるりと見回す。使わせて貰っている拝殿を掃き清めて  いた神主さんが、そこにいますよと教えてくれた。 「…ちづる?」  木陰。座ったままパッと振り返ってきた彼女は、半年も前にランドセルを卒業したのに、中学生っぽくない。僕の学校と違ってセーラー服だからか、余計に幼く見える。 「それなに?」聞くと、彼女は嬉しそうに差し出してきた。  絵本だ。あるところに踊りが下手な女の子がいて、うさぎのおばあさんが、桜で染めたトウ・シューズを作って女の子にプレゼントする物語だった。柔らかいタッチの絵は、どこか抜けている彼女の雰囲気と似ていた。 「まさか、本当に桜で染めてるとか思ってないよね?」  流し読みして、さっさと返す。少し落ち込まれてしまった。僕の言い方が冷たかったせいか。それとも、昔は本気で信じていて、今は現実を知った寂しさのせいか。 「………いい、絵本だと思うよ」  彼女はパッと顔を上げた。  つい。つい、漏れた。小馬鹿にしたくせに、その柔らかい絵は確かに僕の中にも沁みたのだ。 「おれ、その、うさぎのおばあさん。みたいに、なりたかったんだ」  桜色の魔法の靴は、自分の夢そのものだった。  息を呑む微かな音に、我に返った。「今の忘れて」彼女から目を逸らして、いつもの特訓を始めた。  ───一年前の秋に、ここで初めて会った。それからずっと、彼女のトウ・シューズの特訓をしている。  僕は小学六年生の時に、東京から引っ越してきた。  その時には踊れなくなっていた。桜色を見ると吐き気がするくらいだった。  ある日、泣き声が聞こえた、気がした。  祖父母とのぎこちない生活。わかりやすいと言うくせにわかりにくい碁盤目の町並み。不慣れな学校。不気味な夕暮れにいつも思っていた。どこでもないどこかへ行きたい。  だから魔が差した。  ヒトでなかったらと思いながら声を探した僕は、疲れていたのだと思う。 「ちづるってさ、バレエ好きなの?」  Arabesque(片足を後ろに上げるポーズ)した彼女の腰をサポートしながら聞いてみる。 「トウ・シューズも?」  どちらも迷いなく頷かれて、いっそ呆れた。なんで聞かれるのかわからない、とでも言うように彼女は首を傾げた。 「こんな下手なのに嫌にならないのかなって思っただけ。…で、何度も何度も言ってるけど、へっぴり腰どうにかしてよ。見てて全然萌えないから」  自分こそ何もかも嫌になったくせに、彼女に付き合うなんてどうかしている。  どうして、なんて、何度も何度も考えたことだ。何度も何度も考えて、そのうち諦めた。彼女が下手くそだったからしょうがない。ヲタクなんてそういう生き物だ。自分の美意識に反すると我慢出来ない。  血豆が潰れて、赤茶色く染まったぼろぼろのトウ・シューズを抱えていた。出会い頭にとっくに泣いていた一年前。だいぶマシにはなったけれど、彼女は相変わらず下手くそだ。その時に練習中だと言っていた黒鳥の三十二回転は、今も満足に出来ない。本番で三十二回転を完璧にするためには、練習では倍の六十四回転をクリアしなければならないのだ。  正直、甘えている自覚はあった。  冷たくしても小馬鹿にしても、彼女は決して拒絶しない。踊れなくなった僕は、この神社の中で、彼女といる時だけ日常から逃げていられた。そのくせ、僕は酷く身勝手だった。  彼女は何足履き潰しただろう。もしかしたら、トウ・シューズが彼女の足に合っていないのかもしれない。靴が合わないと、良く歩けないし走れないのだ。靴職人の祖父もお客さんに勧める時、絶対に足を見る。  ガラスの靴みたいに、彼女だけのトウ・シューズをつくれたら良いのに。  浮かんだ夢想を、頭を振って掻き消した。  突っ伏していた机から顔を上げると、案の定、外は雨が降っていた。偏頭痛は収まっていない。夢の内容に溜息を吐いた。誰もいない教室は、ちょっとした異世界だ。ワクワクするほど気分は良くない。  下駄箱に行くと、髪をシニヨンに結い上げた彼女がいた。  セーラー服ではなくて、同じ型のブレザー。これからレッスンなのだろう。  自意識過剰にはなりたくない。目が合いそうになって靴を見る。ざらつく感情を誤魔化すように、トントンと爪先を整える。祖父にバレたらまずい。「靴を大事に出来んヤツは誰も大事に出来んぞ」と昔から言われているのに。  彼女は喋るのが苦手だ。たった一言を、時間をかけて漸く声に出来る。  それをわかっていて、僕はさっさと昇降口を出た。雨の中を走る。待つなんて、そんなありったけ振り絞った勇気と、伸ばされた指先に気づいていて無視した。彼女もきっと気付いている。僕のわざとを。  でも、どうしようもないんだ。だって踊れない。  君とも。──姉とも。  今更どうやって踊れば良いのか、もうわからない。 「ッのにヲタクがチケット捨てられないのわかっててやってんのかあの悪魔!!」  濡れて冷えた服と体温が混ざり合って気持ち悪くて、シャワーを浴びながら、怒鳴った。  家に帰ると、僕の靴を一目見た祖父にやっぱり無言で睨まれて。風呂場でうるさいと更に叱られて、完全に不貞腐れた。ごろごろ寝っ転がったって収まらない。  こういう時。  こういう時、昔だったら、落ち着くまでひたすら踊っていた。
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