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【二】
「あっれー?けんちゃんったらちょっとご機嫌ナナメ?」
タン、と着地すると、壁一面の鏡の隅に姉が映っていた。
「別に」
「はいはい、またどっか自分に萌えないポイント見つけたんでしょ。今のジャンプ?ほんとヲタクだよねー!」
きゃらきゃらと笑いながら、姉はさっそくトウ・シューズを履いた。それからランドセルを置いて、鼻歌を歌いながら服を脱いでいく。順番が逆だ。
「だからそれやめてって言ってるでしょ」
「いーじゃん!もう着てるんだから」
服の下にタイツやレオタードを着ておくのは、よくあることだ。それでも、小さな子供でもないのに、人前で堂々と脱ぐのはどうかと思う。
ありがちな話、自由奔放で快活な姉に弟は振り回されていた。くるくると道端でも踊り始めるから下着が見えると注意するのは弟だし、聞いてくれないから恥ずかしい思いをするのも弟だし、いつも色んなバレエ団の舞台DVDを鑑賞していたから弟の見たい番組は見れらないし、鑑賞が終わったら興奮して踊り始めてパートナー役を命じられる日々。
「美琴、柔軟」
「やるから大丈夫ですうー。まあでも、ストレス発散がバレエってバレエ好きな子ならあるあるだよね。ダンサーは細胞で音楽を聞いて踊っているんです、ってインタビュー記事見た?けんちゃんあのダンサー好きだったよね」
「おれはDNAレベルだと思うけどね」
「なんだっけ」
「二重螺旋構造。夏休みの自由研究でやったじゃん」
「あたし理科苦手なんだってば!あ!思い出した!なんかビデオで、CGでくるくる回ってたやつ!あれ踊ってるみたいだよね、ほんとにああなってるのかな?」
「そんなわけないでしょ」
実は同じことを思ったとは言ってやらない。
「でもさ、DNAレベルで踊ってるって、あたし良いと思うなあ。もしイヤ!って思っても踊りたくなってくれると思わない?そうだったら良いなあ」
「おれはバレエ好きなわけじゃないけどね」
「あ、またそんなこと言ってる!」
「いや、そうだから」
これくらいは喧嘩とは言わない。姉とは毎日こんな風だった。年子だからか、お互いに遠慮もない。
「おれがなんのためにバレエ始めたと思ってるの。美琴がパ・ド・ドゥの相手しろってしつこいからでしょ。バレエは世界有数の特殊身体技能の宝庫なんだよ?しかも美琴は澄子伯母さんのサラブレッドって言われてるくらいなのに、そんな人のパートナー役が見よう見まねで出来るわけないでしょ?…なにニヤニヤしてるの」
「んふふふふ…つまりけんちゃんはお姉ちゃんが大好きだからバレエやってるんだね!」
「バカじゃないの」
姉弟に初めてバレエを教えてくれたのは伯母だ。月島澄子と言ったら、幻のバレリーナとして今でも有名らしい。
─── Ca va aller(大丈夫)。大丈夫。人生はね、大丈夫で出来ているのよ。
───折り鶴を折るよう踊るの。千も万も折ったって、カミサマは何もしてくれやしないわ。その一羽一羽を折った自分のお陰で、自分だけの羽で羽ばたけるの。きっと素敵なエトワールになれるわ。
両親を事故で亡くし、天涯孤独になった姉弟の後見人になってくれた。会話にフランス語が混じる人だった。小さくてシワだらけの身体を車椅子に押し込めたまま、伯母は腕をスッと動かす。たったそれだけなのに、白く透き通った羽が見えた、気がした。
「おれは、おじいちゃんみたいな靴職人になりたいの」
「京都に遊びに行くと、おじいちゃんの工房に引き篭もってるよね。……あ!」
「あ?」
「じゃあトウ・シューズ!けんちゃんさ、トウ・シューズつくってよ!」
「は?」
「トウ・シューズだって靴じゃん。それにけんちゃん、前にあたしのトウ・シューズ解体したでしょ。興味あるんじゃないの?踊れてトウ・シューズもつくれるダンサー!良くない!?」
めちゃくちゃなことを自信満々に姉は言い放った。こういう底抜けの明るさと、バレエが好きな自分を無条件に信じられる強さが、きっと踊りにも出ているのだろうと思った。
「さ、踊ろ!On Danes(踊りましょう)!」
「はいはい。Avec plaisir(喜んで)」
「心こもってなあーい!」
「はいはい」
仕方なく始めたとはいえ、鏡に映る姿が不恰好なのは嫌で。男だから、弟も人並みに格好つけたがったし意地もあった。どのポジションで、脚はどの角度で、腕はどういう風に動かせば一番良く見えるのか。フィギュアや模型を研究するように、今日も姉と鏡の前に立つ。
「そうだ、今日の夕方忘れてないよね?」
「夕方?」
「もう!『白鳥湖』!パリ・オペラ座バレエ団の来日公演!行くんでしょーが!」
「忘れてない」
「あっやしー……なんなの?澄ましてるのはお年頃なの?あたし知ってるんだよ?行きつけのバレエ用品店でさ、店員さんに追い出されるまでお店のトウ・シューズ、全部観察してノートにメモったんでしょ?完全にヲタクじゃん!女子でもそこまでやらないのにさあ!」
「気になっただけだよ」
「だから、そ、こ、が!」
姉が朝からソワソワしていたのは、夕方の公演が楽しみだったからのようだ。世界最古のバレエ団、パリ・オペラ座バレエ団。この日、いつも以上にウキウキとしている姉のパートナー役として、弟はいつも以上に疲れた。
十六時三十分。開演。
暗闇の中から、オーボエの切ない旋律が細く、静かに漂ってくる。チャイコフスキーの『情景』。その一音が鼓膜を震わした瞬間、異世界の扉が開き、観客の五感はぐんと一気に引き摺り込まれる。
月夜の湖畔の森。蒼の美しい、どこか不気味な風景が物語の始まりだ。
中世ヨーロッパの風景
伝統的な王城
イケメンな王子
哀れな美しい姫
狡猾な悪魔
強かな悪役令嬢
魔法と剣
クラシック・バレエの代名詞。チャイコフスキーが初めて作曲したバレエ音楽『白鳥湖』。王道ロマンス要素をこれでもかと詰め込んだ世界設定だけは、流行っている異世界モノの小説や漫画そのものだ。
あなたはとある王国の王子ジークフリートである。友人とパーティーを楽しんでいたが、
『王子よ、次の舞踏会で花嫁を選びなさい』
と母、王妃から言いつけられてしまった。
まだ自由な立場にいたいあなたは悩み、気晴らしにこっそり狩りに出かける。
月夜の湖畔、あなたは一羽の白鳥に弓矢を向けるが、白鳥は美しい王女に変身した。
『なんと美しい姫だろう』
一目惚れである。あなたはなんとか近づき、わけを聞く。
『わたしは隣国の姫、オデットです。悪魔の呪いで、白鳥に変えられてしまったのです』
呪いを解く方法は、永遠の愛。
あなたはオデットを花嫁にすると約束し、舞踏会に来てくれるようにとお願いした。
『ごきげんよう、王子さま』
いよいよ舞踏会。現れたのは、オデットと瓜二つの美しい黒鳥オディールだった。
ここであなたは最大の選択を迫られる。
①オディールをオデットと勘違いする
②魔法でオデットだと騙される
③あまりの美しさに、別人とわかっていて浮気する
この選択肢は舞台監督の解釈の違いであるだけで、もれなく悲恋ルートになる鬼畜設定だ。
あなたは黒鳥オディールに愛を誓い、オデットを裏切ることになった。
『バカな王子さま。あなたはわたしに愛を誓った。あの子は死ぬわ』
本性を現したオディールは悪魔と共に去り、あなたは急いであの湖畔へ向かう。
絶望したオデットは湖に身を投げ、あなたも後悔に苛まれながら後を追う───
これが原作『白鳥湖』のあらましだ。
今回の公演は原作通りの悲恋だった。死んであの世で結ばれるという、乙女ゲーム風に言えばメリーバッドエンド。今は悪魔を倒して呪いが解けるハッピーエンド版もある。
王子ジークフリート役を務めたのが、もうすぐ引退予定のベテランのエトワールだ。世界中のメディアに取り上げられるスターダンサーで、彼を追いかけているファンも多い。エトワールはパリ・オペラ座バレエ団の最高位を示す称号で、羽ばたき輝く星を意味する。
昔、姉と観た『白鳥湖』でも彼はジークフリート役を務めた。
一見、彼の踊りは地味だ。けれど、確かな基礎に裏付けられた踊りは情緒豊かで、決して華やかな大技だけがバレエではないことを教えてくれる。人の繊細な心、弱さや脆さを表現するのが得意で、ジークフリートは彼の十八番だ。
なんと言っても、パートナーの女性を生かすのが上手い。ポジション。タイミング。表情の付け方。ステップの踏み方。「萌え」という感情を僕は彼の踊りで初めて覚えた。
「かあ……っこよかったああ!黒鳥の三十二回転グラン・フェッテ…!C`est magnifique(凄い)!」
退場する観客でガヤガヤと賑やかな中、姉は両足をバタつかせて萌えていた。「ああ、疲れたわねぇ」「ほんま。今回もええ公演だったわあ」冷めやらぬ興奮を潜ませて穏やかに感想を言い合う女性二人が、微笑ましそうに姉を見ながら通り過ぎて行く。恥ずかしい。
「おれ達も早く帰ろうよ」
「やだー!まだこの余韻に浸ってたい!どうせ出入り口混んでるじゃん」
口で勝てたことがない上に、自分も疲れていたから諦めて座り直した。ここはB席。貯金を出し合って二席を買った。
疲れた、というのは、ある意味で最大級の賛辞だ。異世界に引き込まれる。同調する。観客はもはや他人ではない。それこそ舞台の成功だ。
日常生活でヒトは言葉に頼り切っている。言葉を切り離した世界で、五感が翻弄される。それは正しく疲れることだ。筋肉痛のように。その翻弄に身を委ねることを快感と思う人は、きっとまた足を運ぼうとするのだ。日常を忘れ異世界に酔うために。魔法をかけられに来る。
「はあ…あたしもあんな風に踊りたいなあ」
「だったら白鳥も踊れるようにならないとダメでしょ」
「んんん、そうなんだよねえええ…!白鳥のゆっくりしたアダージオ苦手なんだよねええ…」
ライトノベルや漫画では悪役令嬢が流行っているけれど、実は『白鳥湖』でも白鳥オデットより黒鳥オディールの方が好きという人は多い。
ただし、オデットもオディールも同じ女性ダンサーが踊るのが伝統で、この一人二役が『白鳥湖』の醍醐味だ。両極端の性格を持つ踊りをどう演じ分けるかが、ダンサーの腕の見せ所と言われる。姉はエネルギッシュな踊りの方が得意だから、白鳥は今後の課題だ。
「けんちゃんはどうだった?ジークフリートの人やっぱ萌えた?」
「Qui。DVD出たら買うよ」
「三枚?」
「四枚。いつも観る用と予備と貸し出し用と永久保存」
「あはははは!さすが!このための貯金だもんね!でもさあ、ぶっちゃけ、バレエに出てくるヒーローって情けないアホ多くない?なのになんで、不朽の名作って言われるんだろ?」
「悪魔や魔女にあっさり騙されるし、浮気性だしね」
ちゃんと格好良いヒーローもいるけれど、そうなのだ。『白鳥湖』のストーリーも言葉にして読むと、まるで出来の悪い三流ファンタジーだ。
「でも、だからじゃない?」
「だからって?」
「『白鳥湖』の難易度が高い理由。奥が深いから名作なんでしょ?百年以上何回も公演されてきた王道中の王道で、わかりやすすぎるストーリーで、王子がアホの子で、おまけに悲恋。こんなに悪条件揃ってるのに、つまんなくないように踊るって難しいよ」
そう、ストーリーが陳腐でも長く愛され続けてきたのは、ストーリー以上の魅力があるからだ。
つまり、バレエ、という魅力。
言葉ひとつない世界。目線の流し方。指先の動き。首の角度。足運び。音の間の取り方。それだけで全てを表現する。壮大なオーケストラとの共演。
それがバレエだ。むしろバレエでなければ、『白鳥湖』なんてただの三流恋愛譚だ。
「そうやってさあ、分析して考察しちゃうところがヲタクだよねえ〜。あたしは踊れれば良いもん」
「美琴は脳筋すぎだから」
つくづく正反対なのだ、この姉弟は。
「あの三十二回転だってさ、トウ・シューズがなかったら絶対生まれなかったよ。それくらい凄い靴なんだよ。美琴ももうちょっと、そういうこと考えて踊ってみたら?」
軸足を真っ直ぐ床に突き刺すようにして、あげた片足を一度も床につけずに独楽のように回る。あれはトウ・シューズならではの華麗な大技だ。
「いいの!そういうのは、けんちゃんに任せるの!考える暇あるなら踊ってたいの!」
「はいはい、どうせおれは頭でっかちですよ」
「拗ねてる!かわいーなー、あたしの弟は!」
「はいはい」
元々、靴職人の祖父の工房を見るのが好きだった。
誰もが一度は思うだろう。トウ・シューズは一体どんな構造をしているのか。ダンサーはどうやってその靴を履きこなすのか。好奇心のままに、姉が履き潰した一足を工具で解体したのは小学二年生の時だ。夏休みの自由課題でバラバラのボロボロにした。
桜色のサテン生地に包まれた靴は、異世界へのパスポートだ。
女性ダンサーが履くこの特殊な靴が生まれたからこそ、華やかで幻想的な世界を表現できるようになった。森に戯れる妖精のように。氷の上を自由に舞う精霊のように。くるりくるりと彼女達は踊るのだ。
「ねえ、三十二回転って正式名称あったよね?なんかすっごい長いの」
「え?Grand fouette rond de Jambe en l`air en tournant en dehors?」
「うわやっぱり覚えてるこのヲタク!ふつー覚えないから!でもバレエ用語って面白いよね。フランス語っていうより、RPGに出てくる魔法の詠唱みたいでさ。レッスンの時だって、呪文の音の形を身体が覚えてるみたいに動くし」
思う存分語り合うのは、一緒に踊っていないと出来ないことだ。こういう時、バレエをやっていて良かったと思う。言うと調子に乗るから言わないけれど。
「けんちゃんさあ、やっぱトウ・シューズ好きでしょ」
たまには素直になってみようと魔が差した。
「トウ・シューズ職人になりたい、かも」
トウ・シューズがなければ、いくら姉がしつこいからと言っても、何年も付き合って踊っては来なかったかもしれない。とっくに、虜になっていたのだ。
あの桜色をつくってみたい。初めて自覚した夢だった。
「やった!じゃあいつか、あたしだけのトウ・シューズつくってよね!」
「はいはい」
そんな風に語り合った。弾ける声も笑顔も、もうどこにもない。
僕は周りから一人もいなくなっても、ずっと席に座っていた。
座っていたのはS席。チケットは一枚で一万円以上もする。プレミアムなら尚更。しがない高校生がおいそれと手を出せる金額ではない。精々頑張ってA席あたりが関の山。それだって五千円以上する。
それをドブに捨てるなんて、ましてや観劇せず無駄にするなんて、ヲタクが出来るわけがないのだ。
これは怒りだ。
ドロドロと熱いマグマが腹の底で煮え滾っている。喉まで迫り上がるのを冷ますように、酸素と一緒に飲み下す。迫り上がる。飲み下す。そうしないと叫び出しそうだった。
どうして自分はあの世界にいないんだろう───なんて。
重い足取りで劇場を出る。もう空は暗くて、平安神宮の大鳥居がぼんやりと見えた。駐車場の「満」の表示が「空」に変わっていて、付属のブックカフェが賑わっている。
「…っああもう!」
小石を蹴っ飛ばす。
波が収まると、今度は酷い虚脱感に襲われた。僕の顔は、素晴らしい舞台を見終わった観客にはとても見えなかっただろう。
苦しい。細胞が、DNAが、踊り出そうとする。何もかも嫌になったはずなのに、僕の身体は今も毒されているのだ。
何度も何度も足が止まる。別の動きをしようとする。指先が勝手に動く。身体の中心がリズムを取ろうとする。髪の毛の先っぽが、ざわりと静電気を纏ったような感覚。目の前の現実の風景と、異世界の風景がチカチカと重なり合って見える。
小石を蹴っ飛ばす。
これは怒りだ。未練たらしい自分と。ここに足を運ばせた生徒会長と。
僕は重い足をとうとう止めて、近くのベンチに座り込んだ。このまま帰る気にもなれず、かと言って座ってどうするのかもよくわからない。
ご機嫌な姉に無理やり手を繋がれて、一番星を見ながら帰ったのは六年も前のことだ。
トウ・シューズを履いた姉が誰よりも魅力的になるように。その桜色が何よりも綺麗に見えるように。萌えるように。飽きることなく二人で、踊って。踊って。踊って。
そんな生活が一変したのは、『白鳥湖』の公演から数ヶ月後。
リフトの練習中に、僕が姉を落として大怪我をさせたのだ。
そのことで和解出来ないまま、姉は海で溺れて重篤に陥った。病院に駆けつけて目の当たりにした、瀕死の姉。半身をもがれたように、僕の世界は崩れ落ちた。
姉と踊っているのは呼吸と同じだった。当然に手の中にあった。失って初めて、息の出来ない苦しさを思い知った。
姉あってのバレエだったからこそ。僕はあっさりと踊れなくなってしまったのだ。───彼女に逢うまでは。
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