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風通し
今朝、奥さんが私に出すトーストを焦がしたが、そんなこと全然大したことじゃない。パンくらいいくらでも焦がしたらいい。
「代わりに君が食べたらいいじゃないか」
妻は喜んで「そうね、代替案をありがとう」と微笑んだ。
会社で部下が昼食時、箸を落とした。
「床が君の唾液で汚れたから、拭いたらいいよ」
部下は微笑んで「了解しました」と応えた。
了解じゃなくて、承知しました、が目上の者に対する正しい言葉遣いではあるが、まあ些細なことだ。
仕事帰りに、昔の仕事仲間と一杯やった。
「岩本、俺さ、毎日辛いことばかりで死にたいんだ。でも勇気がないから、代わりに死んでくれよ」
泣き言を言ったのは、元先輩だった。
「承知しました。飲み終わってから、実行します」
人生最後のハイボールは、氷が大分溶けていて、ほとんど水みたいな味しかしなかった。
帰り道、駅のホームにちょうど電車が入ってきたところを狙って飛び込んだ。一瞬にして視界が回転した後、体は全く動かなくなった。意識のどこかで、頭の天辺にある扉が、パカっと音を立てて開いたのがわかった。そこから小さなメフィストII世が這い出てきて、叫びながら私のそばに駆け寄ってきてくれた、OL風女性の頭の天辺の扉を開けると、私を一瞥したあと、そこに潜り込み、扉を閉めた。
私の開いたままの頭に、やっと風が通ったが、すでに私の命は尽きようとしていた。
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