夜を越す、傘をひらく

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 米袋から内釜に米を入れていたのだが、考え事をしていたせいで何合分入れたのかわからなくなり、また最初からやり直す。誰かが送ってきてくれた米なのだろう。米袋に宅配便のラベルをはがした跡がある。五目と鳥ごぼうときのこで迷って、鳥ごぼうの炊き込みご飯の素を入れる。  松並は朝は手早く軽く済ませたいと言って、仕事の日は炊き込みご飯とインスタントの味噌汁で朝食を済ませる。ただ何もせずに居候をするのも心苦しく、澤野は週に一度の炊き込みご飯を炊く仕事を得た。料理らしい料理は出来ない。包丁を持ったまま眠ってしまうのが怖い。自分に出来ることがあまりに少なくて悔しいけれど、その悔しいという感情を持つ資格すらないような気がしている。どうしてこんな風になったのか、澤野自身にもわからない。  何も出来なくて毎日寝ているだけなのに、居てくれてありがとうと感謝されてしまう。家賃も光熱費も松並が払ってくれている。恥ずかしい、歯がゆい、居た堪れない。あらゆる感情が総動員される。いくら優しい言葉をかけられても、申し訳無さが拭えない。何か彼のためにしないと。布団とラグを粘着テープでコロコロと掃除している間に、また小一時間ほど眠っていた。  目が覚めて、夕方なのか明け方なのかわからない。オレンジの光と紫色が混ざり合う。外から子供の声がするから、恐らく夕方だ。炊き込みご飯はもう炊けている。炊き上がりのアラーム音に気付けなかった。小分けにして冷凍しないと。冷凍の白米はまだ残っていただろうか。額と首にまとわりついた脂と汗を、シャワーで洗い流す。眠ってしまうのが怖くて、湯船につかれない。  なんの瑕疵もないのに、何故こんな目に遭わなければならないのだろうか。病むような出来事なんて何もなかったのに。あってもこんな目に遭っていい訳がないのだけれど。あればきっと納得がいった。  頭の中が霧に包まれ、身体が形を崩し雨の中に溶けていく。しなくてはいけないことが山程あるのに、みんな掴めないまま消えていってしまう。彼の気配で目が醒める。彼の声で身体を取り戻す。  鉛が詰まったような寝起きの身体に水を流し込んで、ようやく人間であることを思い出しはじめる。 「お寿司作ったからさ、食べよう。夕飯、まだ食べてないよね」  松並はボウルの中でちらし寿司の素を混ぜ込んでいる。確かにそれも寿司ではあるのだが。バームクーヘンをケーキと呼ぶところといい、こういうところを人に笑われたりバカにされたりしたことがないのだろう。だからきっと、澤野を責めることもなく部屋に招き入れられるのだ。眩しいくらいに透明な、アクリル樹脂製のタンブラーの中の水道水。飲み込むごとに、身体が柔らかくほぐされていく。 「昼食べに外出たついでに、なんとなくアンテナショップ覗いたら、食べたくなっちゃって」  松並は、瓶詰めのいくらのしょうゆ漬けをちらし寿司の上にのせていく。 「こういうの、結構高いんじゃないんですか……?」 「気にしないでいいよ、本当。僕が好きでやってることだからね。誰かと食べる方が美味しいし」  舌の上でぷちんと弾けて溶けるいくらを噛み締めながら、もっと自分を大事にしてくれよ、と澤野は思う。彼のそばにいるべき人がいないのなら、誰でもいいからそばにいてやらなきゃダメなのだろう。でもその誰かはこんな役立たずで本当にいいのか。考え直した方がいいのでは。一応念を送ってみるが、そんなものは届くわけがない。  彼が風呂に入ってる間に、テーブルの上に取り残された眼鏡をTシャツの裾で拭く。あんなに澄んで整っている人なのに、どうしていつもレンズが汚れたままなのか。
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