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ここに一番いるべき人が、いない。
重い海の中から這い上がってもここはまだ深海で、明かりの眩しさに目を細めたまま、手探りで冷たくなったカーテンを閉める。彼はまだ帰って来てない。
電気ポットで湯を沸かしている間に台所で顔を洗う。まだ目が覚めていない給湯器が吐き出す冷たい水で洗い終えても、夢と現の境がはっきりしない。こうしている間にも、血はどんどんと足元へ下りていってしまいそう。立っていないと、寝てしまう。ヤカンを火にかけている間に寝てしまうのが怖くてコンロが使えなくなって、彼が電気ポットを買ってくれた。誰か、見知らぬ誰かが勝手に、大きな包丁で時間を切り刻んでいく。
という記憶はある。
浅瀬に打ち上げられているところを、松並の声で引き上げられた。ローテーブルの上には食べかけのカップ焼きそばと箸が転がっている。何も可笑しいことがないのに。点けっぱなしのテレビは一度も見たことがないドラマを流している。ごめんなさい、とやっと出した声は彼に届いているのかいないのか。彼は澤野が海に沈んでいたことなど、何も気にしていないといったそぶりだ。
「あっ、ケーキ買って来たから一緒に食べよう」
そう言って彼がコンビニの袋から出したのはバームクーヘンだった。これをケーキと呼ぶのは正しいのだろうか。固まった焼きそばの続きを食べていると、彼はインスタントの卵スープが入った碗を一つテーブルに置いた。
「お風呂入ってくるけど、寝ちゃっても大丈夫だよ」
そう言って澤野の背中をさする。耳の穴に詰まった生ぬるい水が流れ出していくような。
優しい。この根拠のない優しさが恐ろしい。潮が引くように目が覚めた。
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