冬の呼吸

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 日露戦争で多くの血が流れていた頃、若者たちは命を賭して戦っていた。だが、そんな戦禍の中にも、若い男女が愛を語り合う姿があった。  アカシアの花が咲く頃、千勢は、枝が見えなくなるほどたくさんの黄色い花を可憐に咲かせた大きな木の下で不知火と逢っていた。  不知火は6尺ほどもある体躯に筋肉の鎧を着ているような逞しい帝国軍人だ。陸軍にこの人ありと言われる剣の使い手であり、銃剣ひとつで鬼神のごとく敵陣に斬り込む姿は、下士官達の勇気を鼓舞し、また、不死身の不知火と綽名される極めて勝率が高いことで知られる手練れの戦士だった。  対して女にしては肩幅がしっかりし5尺5寸ほども背丈がある千勢も帝国軍人の制服に身を包んだ第2師団を率いる士官であり、男装の麗人と呼ばれる剣士だ。代々軍人の家に生まれたが、育ててくれた兄が戦場で命を落とした時、兄の敵を討つと決めて銃剣を握った美貌の戦士だった。  そんな2人は暇が見つかるとたまさかアカシアの木の下で会って話をするのだ。    「千勢、お前に似合う香をみつけたぜ。これをつけろ」  「ありがとうございます、不知火様」    大きな瞳を潤ませて不知火を見上げはにかむ千勢の髪をひとつ撫で、不知火は言う。  「これ以外の香をつけるな」  「どうして?」  「これが好きなんだよ。それに、お前にはごてごてしないで、清楚でいてほしい」  不知火が好きな香なら、壱も弐もなく千勢がつける香はこれしかない。千勢にとって意味があるのは、不知火が気づいてくれること、不知火が好ましく思ってくれること。それ以外にない。千勢は不知火への清らかな愛を貫いている。一方、不知火にとっては千勢は穢してはならない天使だった。  仄かな香りに気づく人は少ないが、軍付属の笹診療所で、千勢が女医の笹美嘉の側に座った時、千勢を見て笹が言った。  「千勢さん、仄かな甘い香りね。もしかしてアカシアの香かしら?」  「そうです」  「もう少し強い香りも千勢さんにはお似合いなのに」  「そうですか?でも、私はこれでいいのです」  「もっと個性を主張したら? ずいぶんお上品だわ」  「目立ちたくないですし、これでいいんです。好んでくれる方が確かにいるから」 美嘉の大きな目が見開いた。  「アカシアの花言葉知っている?」  「いえ、知りません」  「秘密の愛とか精神的な愛というのですってよ」  「そうだったのですね……」  「千勢さん、秘めた愛を心に持っている?」  「い、いえ……」  美嘉は、うすうす気づいているのだろう。千勢の不知火への気持ちに。美嘉も不知火を愛しているから。だが、アカシアの香を贈ってくれたのが不知火だとは美嘉は知らない。  不知火を好きになったのは、もう3年も前のことだ。帝国陸軍の少尉である千勢が後方支援で不知火大尉の闘う戦場に駆けつけた時、鬼のような形相で敵陣に切り込む彼を見た。その闘気が千勢の体を痺れさせたのだ。眦が裂けそうなほどに吊り上げ、焼けつくような瞳で容赦なく敵に銃剣を振り下ろした彼を見た時、千勢は神々しいとさえ思った。それ以来、あの燃えるような闘気を纏った男の腕の中で目を閉じることを夢見た。  口づけさえも交わしたことはないが、千勢の不知火への思慕は不変だった。15歳の時から一筋に崇めてきた。あの男を想うことそのものに体が震えるほどの喜びがあるのだ。幼いと言われようと、それはただの幻想だと言われようと、少女の想いは穢れなく美しかった。  神山大尉にとっては、体を重ねない愛があるということが信じられないのだろう。ある日、軍の中隊長の会議のあと、酒が振る舞われた。横目に不知火を眺めている千勢の横に神山が6尺を優に超えている巨漢を折ってどっかと腰を下ろした。千勢の首筋に仄かに薫るアカシアの香を嗅いで言った。  「秘めた愛ね……」  「なんですか、藪から棒に」  「アカシアの香を贈ってくれた君はお前を抱きたくないのか?」  「よしてください、俗物の考え方を私に吹き込まないでいただきたい!」  「千勢、体を重ねない愛なんてただのおとぎ話だ」  「人を想うことはそれだけで喜びをもたらすものです。それがおとぎ話でも作り話でも、私はそれでいいのです」  「千勢、俺はな、お前が不知火を想うことに費やすその時間が惜しいんだよ」  神山にはなにもかもお見通しで、何度か好きなら抱いてもらえ、もっと迫れと有難くもない助言をくれたことがあった。  「どういうことでしょうか?」  「人の美しい時は短いんだぞ。お前の美しい時を不知火と重ねてみたくないのか?」  「年齢のことを言っているのですか?」  「ああ、そうだ。お前が少女から女に変わっていくその一瞬しかない美しい時を無駄にするなよ」  「なら尚更だわ。その今しかない時を彼に捧げても私は惜しくないです」  「馬鹿だな、捧げるというなら、それこそ体を重ねろ。ただ時という風雪にさらすことが捧げることだなんて思うな」  「体を重ねることだけが愛なのですか?」  「千勢、体を重ねることを知らないねんねのお前に、愛を語る資格なんかない」  「資格がいるのですか?」  「千勢、本当の愛を俺がお前に教えてやるよ」    神山は、そういうと千勢をいきなり抱きしめた。腕を突っ張って神山を押しのけようとしても、腕力で遅れをとっている千勢はどうすることもできず、神山の抱擁に翻弄された。  「やめろぉ!」  不知火が飛んできて、神山に鉄拳をお見舞いした。  「不知火、娘18、番茶も出ばなってな。千勢の一番美しい時をお前が欲しくないなら俺がもらって何が悪い?」  「てめぇ! 神山! 此奴を毒牙にかけるのは俺が黙っちゃいねぇ! こいつはずっと綺麗でいりゃあいんだよ!」  神山は溜息を吐いた。嫉妬させれば関係が進むかもしれないと思ってわざと不知火の前で千勢を抱きしめたのに、不知火は、「綺麗でいればいい」と言う。  子犬のように不知火を見つめている千勢が哀れだった。想うだけで満足している千勢の幼さに呆れもし、懐に入れる気はないくせに、千勢の心が離れないように支配し続けている不知火の残酷さには怒りを持っていた。  千勢を振り向いて再度言った。  「千勢、想うだけで時を無駄にするな。相手と言葉を交わし、時を過ごし、体を重ねてお互いをお互いにぶつけあい、紡ぐものがあってこそ愛と呼べるんだぞ。お前のはただのままごとだ。不知火はお前を支配し続けてもお前を愛する気なんてない。いつまでもお前の不毛な片恋が続くなら、俺がお前を力ずくで奪うぞ」 「神山様、やめてください。私は貴方様を敬愛しています。でも、私を自由にしようというなら嫌いになります!」 「千勢……」  千勢の頑固さ、いや、純情は言葉を尽くしても翻意させることは難しいと神山はその場を後にした。    お開きとなって帰る道すがら、不知火が追いかけてきた。  「千勢!」  「不知火様」  「神山になんで抱擁を許した? お前は俺を好きなんだろ?」  「すみません……神山様にいきなり抱きすくめられて身動きが出来なくて……」  「命がけで守れよ。お前の貞操を」  千勢はその自分が守ってきたものを不知火が貰ってくれたらいいのにと思った。  「あの……不知火様、私が守ってきたものを貰ってくれますか?」  「駄目だ! お前は綺麗でいろ」  「だめなのですか?」  「千勢、お前は、美しい存在だ。穢したくない。汚れてほしくないんだよ」  「わかりました。私は、綺麗なままでいます」  不知火は、褒美と言わんばかりに千勢を抱きしめた。そして、触れるか触れないかくらいの口づけを一瞬だけくれた。  そうやって千勢の心を支配する一方で、不知火は笹美嘉と愛を育んでいた。千勢と別れたあと、不知火は笹診療所で美嘉を抱きしめていた。  「不知火さん、千勢さんのことどう思っているの?貴方のこと恋い慕っているのよ」  「千勢の儚い美しさは、孤高で誰も触れないからの美しさだ。俺は、彼奴が男の腕の中で喘ぐ姿なんか想像もしたくない。ああやって剣を手にして独り佇む姿が美しいのに、神山の野郎、寝てやれ寝てやれって! 千勢の美しさを守るのが俺の役目だ」  「不知火さん、それは、貴方なりの彼女への愛の形なのね。私、妬けるわ」  「美嘉、俺は、お前と触れ合い幸福を紡いでいきたい。千勢に向ける気持ちは、そうだな。彫刻を保存したいくらいのものだが、お前を俺は生身の女として愛してる」  「不知火さん、なんだか、千勢さんが可哀そうに思えるわ」  「考えるな。千勢は手つかずだから美しいんだ。穢れちゃいけない」  「私は穢れていいの?」  「俺は穢してねぇだろう? 美嘉を抱くのは愛を注いでいるってことだ」  「千勢さんだって生身の人間よ」  「彼奴は、望んでねぇ。そんなこと望んでねぇ!」  美嘉も、神山同様、2人の愛の形が理解できなかった。だが、不知火は自分のもの。千勢にとられたくはないので、釈然としなくても不知火が千勢に手を出さないことに安心していた。  そうして季節が2つ変わっても、千勢は相変わらずの不知火の心の支配を甘んじて受けていた。唯一の肉親の兄を戦争で失くした千勢は一人暮らしだ。たまに不知火がよこしてくる手紙や季節の果物などにさりげない愛情を感じて幸福だった。 ― 生誕日おめでとう。剣の技を磨いて息災で暮らせ。髪は切るな。髪紐を注文してつくってもらった。お前に似合うと思う。  誕生日に手紙をくれた。不知火が自分の誕生日を覚えていてくれただけでこんなに幸せなことはなかった。不知火がわざわざ注文して作ってくれたという髪紐は、紺地に細い朱色の糸が織り込んである。心遣いに胸が震えた。甘い気持ちを味わっていたら、がたがたと玄関に大きな音がして、誰かが無断で入ってきた。  「よう! 千勢、お前の神様が生誕祝いにきてやったぞ!」  「千勢様! 好物のチラシ寿司をつくってきましたよ」  「千勢様! 新しい単衣も縫ってきたからさ、着てみなよ!」  「千勢殿、息子たちが煩くてすまんな」  騒々しく、神山一家がお祝いに来てくれた。千勢は19歳になった。 神山が妹のように可愛がってくれるおかげで、千勢には姉妹やおじさんができたような賑やかさだ。  「さあ、盛大に祝うぞ!」  神山の心遣いが身に染みた。神山はいつも千勢の心の機微をさりげなく汲んでくれる。そして時にはお節介なほど世話をやいてくるのだ。  「千勢、成人前の最後の年だ。思い残すなよ。愛を成就させろ。できなかったら俺がお前をかっさらってやる」  「やめてください、神山様、お父上の前で」  「ははは、千勢殿! 劉鵬はけっこう本気ですぞ。お気をつけてな!」   と、劉鵬の父で退役軍人の劉明が言った。  「ははは、そうだ、千勢、せいぜい気をつけろ、食っちまいそうだぞ」  「悪い冗談です」  そんな戯言を言っていられたのも束の間。それから数日して、従軍していた笹美嘉の訃報が舞い込んだ。  千勢は、あの優しくたおやかな美嘉の笑顔がもう見られないのかと思うと悲しくもなったが、それよりも不知火がどんな様子かが気にかかった。  彼が泣いているのが千勢にはわかる。胸が締めつけられるような苦しみを感じるから。彼が泣いている時、千勢も泣いている。肩を貸してやりたい。彼は誇り高い男だからそれをよしとしないことも知っているが。  だが、やはり放ってはおけない気がして、不知火の屋敷を訪ねた。  不知火は、縁側で腑抜けたように座っていた。人は本当に悲しい時は涙も出ない。不知火は涙を流していないが、心が泣き叫んでいるのが千勢には聞こえてくる。  隣に座った。不知火が一瞥してきた。  「大丈夫ですか?」  「惚れた女が死んで、大丈夫な男がいたら教えてくれ」  「不知火様、私じゃ慰めにはならないでしょうけど、お役に立ちたいです」  不知火は、横目で黙って千勢を見ていた。    「お前、この機に乗じて俺に抱かれにきたんか?」  「不知火様、私は、そこまで浅ましくありません」  「そうかよ、なら、なおさら抱いてやらねぇとな」  そう言うが早いか、不知火は千勢を組みしいた。  「やめて!」  「やめてほしくねぇんだろ!」  軍服のボタンを引き千切り不知火は乱暴に千勢の肌を蹂躙した。千勢の苦痛の声を聞いても不知火は容赦せずに千勢の体を貪った。  千勢が、痛みに耐え続けていると、不知火の涙が千勢の胸にポタポタと落ちてきた。千勢は不知火を抱きしめて叫んだ。  「不知火様! 泣いて! 泣いていいんです。思い切り泣いてください! 我慢しなくていいから」  「千勢、すまん、すまん……あ、ああ! 美嘉! 美嘉ッ」  不知火は、美嘉の名を呼んで、子供のように千勢の胸に顔を埋めて泣いていた。千勢は、事が終わると、不知火を布団をかけてやりその場を後にした。  何年も夢に見ていた不知火とひとつになること。想いが叶ったのはこんな形だった。  欲しても欲しても与えてくれなかったその夢を、不知火は、与えるのではなく、千勢から奪い取った。他の想い人の名を叫びながら千勢の体の中で果てた。  それでも良かった。千勢にとって、この人のために死んでもいいとさえ思えた人が耐え難い苦痛を乗り越えるために自分を腕に抱いた。愛する人に捧げるために守り続けたものを、まさにその人に差し出すことができたのだから。  痛む体を引きずった。なぜか分からなかったが、神山劉鵬の笑顔ばかりが目に浮かんだ。そして、いつの間にか、彼の屋敷に足が向いていた。  訪ねていくと、神山の屋敷も麗人を悼むようにひっそりと沈みかえっていた。  玄関に現れた神山は、いつもの軍服と違って着流し姿だった。  「千勢! お前、どうした! 軍服がボロボロだぞ! とにかくあがれ!」    千勢は神山の太い腕にしがみついた。  「神山様!」  「どうした! 千勢! 何があったんだ?」  神山は、あっただろうことを察して、千勢を肩に担ぎあげ妹達を呼んだ。  「お~い! 風呂を沸かしてくれないか?」  「はい、ただいま!」  妹達の元気な声が聞こえた。  「千勢、大丈夫か?」  「はい」  神山はもう聞かなかったが、首筋の痕や破れた軍服を見て、おそらく男との行為の後にやってきたのだろうと察した。  「なにも言うな」  そう制して、神山は妹たちに風呂に入れてやるように頼み、軍医だった母が保管していた緊急避妊薬を取り出して妹たちに事後の処理をするよう命じた。千勢は恥ずかしがりはしたが抵抗しなかった。妹達に言って軟膏を持ってこさせ、膝の上に座らせ顔にできた擦り傷に塗り込んでやると千勢は安心したように神山の胸に顔を埋めた。  「すみません」  「いいんだよ。相手に痛いって言わなかったのか?」  「言えなかったんです」  「不知火だな?」  「ええ」  「無理やりだったのか?」  「……」  「不知火は、美嘉を失って正気じゃなかったんだろ」  「恨んでいません。少しでも気を紛らわして差し上げられたなら良かった……」  「千勢……それじゃあ、お前が悲しいわ」  千勢は儚げな笑みを浮かべて、神山の慈父のような瞳に見入った。  「なぜでしょう、神山様の笑顔ばかりが思い浮かんだんです。突然、押しかけてすみません」  「いいよ、俺は、お前の神だからな!」  千勢は、神山の胸に顔を埋めて安心したように目を閉じた。  少女から女になっていく美しい華の時期を無駄にするな、不毛な恋に身をやつしていないで幸福を掴みとれと、いつも口うるさく言ってくれていた神山が恋しくなった。  愚かな自分を妹のように可愛がってくれる神山が抱きしめてくれたら安心できると思ったのだ。  神山の太い指に子供が悪戯でいじるように己のそれを絡ませながら、呟くように千勢が言う。    「神山様、私、3年も待ってきたけど、こんなものだったんだなと思って」  「思っていたのとは違ったか」  「もっと感動するのかと思っていました」  「千勢、不知火がお前を乱暴に扱ったのもあるだろうが、それよりも何よりもな、美嘉の代わりに抱いたからだ。想いあって抱き合えば、お前が思っていたように感動するんだよ」  神山は、千勢に占領されていない方の手で千勢の頭を優しい仕草で撫でてやる。  「不知火様が私を想ってくれていたら感動があったのでしょうか」  「そうだ。でも、彼奴の心は美嘉でいっぱいだったんだろうな、許せないな」  「いいんです。この先も感動はないでしょうね。私は幻想を抱いてたと思います」  「そんなことない。彼奴も正気になれば、ちゃんとお前に向き合うさ」  「私自身が、不知火様を好きだったかどうかわからなくなって」  「千勢、3年も想ってきたんだろ?」  「ええ、そうです、でも、私、心が震えなかった……」    神山は、幻想を見ていたと体を捧げた後に理解したと言う千勢が哀れで堪らなくなった。ぎゅっと体を抱きしめてやった。千勢はにこっとして言った。  「神山様、このまま少し眠ってもいいですか?」  「おお、いいぞ。寝ろ」  ずっと、この美しい女剣士を気にかけてきた。同じように戦っていた死んだ弟達をこの女に重ねていた。だが、幸せを望まず、相手の心を欲しがらない恋を続ける千勢をもどかしく歯がゆく思っているうちに特別な想いを持つようになっていたことを、神山はほんのりと自覚していた。  翌日、神山は、千勢を妹達に任せて不知火のところに行った。  氷雨が音を立てる縁側で不知火は、暗い顔をして座っていた。  「よう、不知火、美嘉のことは本当に残念だったな」  「ああ、でも、戦況は待っちゃくれねぇから俺は立止まらないぜ」  「気丈だな。お前」  「そうでもない」  「そうだよな。千勢を踏みにじって立ち直ったんだろ?」  「なに? 千勢がそう言ったのか?」  「いや、そんなことは彼奴は言わねぇがな。だがな、不知火、どんなに悲しくて辛くても、それが彼奴に無体強いる理由にはならねぇぞ」    神山の声には怒気があった。妹を酷い目にあわされて怒りに震えている兄そのものだった。神山とて、想い人に死なれて沈んだ不知火に鞭を打つ気はなかったが、千勢の傷ついた顔が浮かんで怒りを押さえきれなかった。  不知火は悔いて唇を強く噛んだ。  「千勢はどうしてるんだ?」  「俺の屋敷で体癒してるよ。妹達が面倒見てる」  「会わせてくれ。昨日は俺は正気じゃなかった。俺は千勢を傷つける気はなかったんだ」  「もう遅い。千勢は、お前を好きだったかわからなくなったそうだ」  「話させてくれ、そしたら、わかってもらえる」  「いや、彼奴の保護者として断る。千勢は3年もお前に懸想してきた。お前は、美嘉がいながら、突き放しもしないで、彼奴を自分に縛りつけていたろ。抱く気もなかったくせに、美嘉のことで正気を失って千勢を蹂躙した。千勢はそれでも、気を紛らわしてやれて良かったと言ってたよ」  「神山、彼奴とこれからちゃんと向き合うから会わせてくれ」  「彼奴の気持ちが癒えたらな。とにかく体を癒すのが先だし、お前自身、美嘉のことを吹っ切るのが先だ。当分は千勢に近づくな、いいな?」  不知火は、怒りの足音をたてて帰っていく神山を苦々しい表情で見送るしかなかった。    不知火は、千勢を大事に思ってきたはずだった。無体を強いたことはどうにも申し開きはできなかったが、それでもやり直したいと思った。  もともと不知火は千勢に対して自分のものにしたいという欲求ではなく、千勢の持つ儚い美を守ってやりたい、古美術品のように綺麗に保存しておきたいという鑑賞物への執着のようなものを持っていた。  千勢のほうも不知火と日々を紡ぐような愛の形を望んでいなかった。憧れを憧れとしてガラス箱にしまっておくような愛し方をしていた。だから、お互いのお互いへ向ける愛は、精神の愛であって肉体を通じて形作られるものではなかったのだ。  不知火は美嘉を失ったことによって、「触れない愛」を千勢に向けることの意味を見失った。そして、子犬のように愛を与えられる機会を待っていた千勢に、支配者的暴力を振るいたくなった。我儘の限りをぶつけても自分を恋い慕うかどうかを確認したかったのかもしれない。  神山は、今までは不知火と千勢を結びつけてやろうとしてきたが、不知火が、美嘉の代わりに千勢を側に置いて、心の空隙を埋めようとするなら、千勢は真の幸福を感じることはできないと思い、千勢に不知火を忘れてほしかった。      千勢が不知火との行為で負った傷も癒えたころ、ようやく神山の妹達も千勢を解放してやることにした。千勢を可愛がることが楽しかった彼女達は、残念がったが千勢を見送った。雪の朝だった。  「千勢様、なにかあったらすぐここにいらしてくださいね!」  「ありがとうございます」  「千勢、雪道は危ないから屋敷まで俺が送ってやる。ちょっと待ってろ」  神山は、羽織を肩にかけると幼い妹の手をひくように千勢の手をとって屋敷を出た。千勢はくすぐったい気持ちだった。鍛えていて普通の女のような嫋やかさがない自分が手を引かれている様は絵にはならないとは合点しながらも、兄に甘えた日々を思い起こし、神山が手を引くのに任せていた。  神山と歩く真っすぐな道。しんしんと降る雪にも音がある。冬の香りが鼻腔をくすぐり、神山の大きな手にもっと甘えたくなる。そんな弱さを振り払おうと、千勢が口を開く。  「神山様、貴方様は代々続いた神山家の御曹司ですよ。恥ずかしくないのですか? 女だてらに銃剣を持つ男女と揶揄される私と手を繋いで歩いたりして」  「それがどうした? どう思われようがどうでもいい。俺はお前が転ばないようにしてやることが大事なだけだ」  「神山様、妹でもないのにどうしてそんなによくしてくださるのです?」  「千勢、お前の兄さんの最後は見事だったよ。軍人として敬意を持って見送った。俺は弟が何人もいたが皆戦場で散った。お互いに埋めるものがあるということだ。だから気にするな」  頼りがいのある神山の手を強く握り微笑みを向けると、神山も微笑み返してきた。  「神山様は体も大きいですが懐も大きくてらっしゃる。そこが敬愛するところです」  「俺様は心も頑丈だ。お前はそうじゃない。守ってやりたくなる。罪だな、お前」  「……神山様を好きになれば良かった」  「別に今からでも遅くないぜ、俺様の嫁にしてやるよ」  「神山様、ご冗談を」  「千勢、お前に俺が教えてやりたいのはな、体の喜びが心を満たし、心の喜びでより一層体が満足するってことだ。心だけで感じ取れるものは全部じゃないんだよ」  「神山様……」  「一緒になれよ、俺と。そうすれば分かるから」  手を繋いだまま歩きお互いの目を見つめ合った。神山の手から伝わってくる熱が千勢の体を熱くした。もたれかかってしまいそうになる。  「神山様、ありがとうございます。でも、今は流されてしまいたくないんです」  「俺を好きじゃないか?」  「好きです、神山様のことは好きです。でも、その好きはやはり不知火様への好きとは違う」  「不知火がやっぱり好きか?」  「わかりません。好きだという気持ちを捨てたくないだけかもしれないですが、今は、好きという気持ちそのものがよくわかりません」  「千勢、お前を大事にしてやりたい。だから、無理にとは言わないさ。でも、俺がいること思い出せ。いつでも、この腕の中にお前をいれてやれる」  「神山様、ありがとうございます」  神山は、千勢を屋敷まで送ってやると踵を返した。純心な千勢を、口八丁手八丁で褥に沈めてしまうことなど造作もないだろうに、どうしてそうしないのか自分でも分からなかった。    愛がもたらす幸福は愛する人と心も体も重ねること。そんな幸福を求めようともしない美貌の剣士の住む屋敷に音もなく雪が舞い降りていた。
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