狛猫様

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狛猫様

執着はいけないよ、と坊さんは説く。 ワタクシは世俗な輩ですもの。よろしいのよ。執着しても許されるわ。それに、 少し口応えするワタクシを意にも介さない説法の坊さんにワタクシはまた口を噤んで麦茶をいただいた。 だって。 生きていくのに理由が欲しいの。 誰もが高みを目指すわけじゃないわ。 誰もが日々の営みに幸せを見いだし続けられるわけじゃないわ。 ワタクシとシオヤのように自死()ねないから生きてる輩はごまんといるわ。 麦茶と言葉を一気に飲み干すワタクシに坊さんは話しながらまた麦茶を注いだ。 しろこさまはもう御仏さま、貴女の執着は(くう)に向かうものだよ。 仏様ですもの。ワタクシ独りの執着心くらい大様になさいますわ。 それは仏の後、また世俗に戻るには妨げになるよ。 栗の落雁をひとつ口に入れ、ワタクシの傍らの明度の低い丹色の骨つぼ袋を撫でる。 猫さんには戒名が無い。位牌も無い。だから供養の日には遺骨を持参する。そしてそれを坊さんは、こちらでおあずかりしましょうか。と毎回訊ねるのだ。 栗の落雁はもそもそと口の中に残った。注がれた麦茶を時間をかけずに飲んで、ワタクシは暇を告げる。 ではまた秋に。 いつでもいらっしゃい、と坊さんは仁義した。彼らを手放しなさい、それは善いことだよ、と。 秋に。 秋になったらグレイの命日だ。 秋までもう来ない。 ほんとうに? タケズミの調子がよくない。シロコさんが連れて行ってしまうんじゃないかと。シロコさんなら連れて行ってもいいよ、と。でもシロコさんは迎えに来たわけじゃなかったんだね。ただご馳走を食べに来たんだね。毎日ご馳走したら毎日来てくれないかしら。タケズミは今朝もご機嫌だった。寂しくなくて迷子にならなくて、ちょっとたくさん食べた。秋までもう寺に行かないでいたい。 シロコさんを助手席の籐かごに乗せ、遠回りで帰る。蚕ノ社の山の入り口の神社の猫の神様にお下がりの供物をあげよう。都合のいいときばかりの参拝なのに2回3回とズミを助けてくれた。供物の花は仏様に、缶詰やまたたびやおもちゃは寺の猫さんへと下げ渡したから、一服だけまたたび粉をもって、肩掛けカバンに丹色の袋に入った骨つぼを入れて、手水で清めたら色のない木材の鳥居を潜りそこから石段を数段、さらに真っ直ぐに伸び上がる石積み階段をあがって赤い鳥居を目指す。雨の降りだしそうな気配はいつもだ。夏の鬱蒼とした緑と田んぼの畦の湿度に自生と見違うほどにむせ返るクチナシ。冬には寒つばきが咲き誇っていた。人の主、常駐する神主は居なくとも、誰か手入れをしているのだ。汗ばみながら赤い鳥居まで登ると木造の小さな社殿が見えてくる。そこからまた数段石積みを登ればたどり着く。そこだけ(なら)された開けた地に、狛猫様を左手に、正面には対の狛犬様と入り口は木材で閂されたままの社殿。その格子戸の隙間から見える奉納の生絲や布巻に弓矢、武勇な戦神を奉る飾絵に一礼をした。
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