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分厚い灰色の雲が空一面を覆っていた。少し歩くだけで汗が滴り落ちるほど、空気中の水分が飽和している。雨が降るのも時間の問題だ。
「なぁぁぁぁち! 出てこぉぉぉい!」
わたしはこれまでの経験をフル活用し、出だしから最終手段「大声で呼びつける」を実行した。なにしろあいつ――幼馴染の那智は、わたしのようにごくごく普通の、至ってまともな人間には、到底理解も許容もできない行動をとるのだ。
はじまりは幼稚園の頃。年長の春だったと思う。
クラスのみんなと楽しく歌いながら、幼稚園の周辺を散歩していたときのこと。あいつは何を思ったのか、突如として隊列を飛び出し行方をくらませた。引率の先生方は揃って顔面蒼白に。クラスメイトの保護者を巻き込んで、大捜索が行われた。
結論から言うと、那智はずっとみんなと一緒にいた。
正確に言うと、那智はみんなの頭上にいた。
将来、那智が選手として活躍できそうな、れっきとした競技がある。ボルダリングだ。あれを那智は、五歳の頃からやってのけている。
あのときも、お散歩コースに面した住宅の壁によじ登り、屋根の上からみんなを見下ろしていたのだ。
「ありえないでしょ!!」
思わず絶叫した。案ずることなかれ。ここは四方を山に囲まれた、ド田舎の中のド田舎だ。やまびこは返ってきても、こちらを振り返る人はいない。
わたしは頭上も怠ることなく、いや、頭上こそ細心の注意を払って見回した。木、木、木、電柱、木、あっ、オニヤンマが飛んでいる。
きっとこのあたりのどこかに、あのふわふわへにゃへにゃした憎たらしい笑顔が乗っかっているに違いない。
「なぁぁぁぁち! どこなの! 出てこーい!」
幼稚園のお散歩脱走事件を皮切りに、那智はその後も小学校で数々の伝説を残した。壁を伝って授業を抜け出す、壁を伝って遅刻を回避する、壁を伝って天井の雨漏りを直す、壁を……壁に……壁で……
そんな那智のお目付け役として、わたしは極めて常識的な人格を形成したわけだった。
「なぁぁぁぁち!」
わたしはついに走り出した。木、電柱、木、木、丘、木、電柱……こんなド田舎の景色に、心底嫌気が差す。高校を出たら、なんて言わず、高校から県外に行ってやろうか。そしたらこんなへんぴな景色とも、うんざりするお目付け役ともおさらばだ!
やけくそになって、傘を振り回しながらまた叫んだ。
「なぁぁぁぁぁち!!」
「あっ、美月ちゃん!」
いた。
そう認識したとき、灰色の空が低く唸った。
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