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三十度を超える暑さの中。那智の身体の熱は、不快でしかないはずなのに。
「わかんないよ、そんなこと……」
このままその熱にのまれて溶けてしまいたい。降り注ぐ雨と一緒に、那智の首筋のあたりからゆっくりと染み込んで……やがて私は透明な滴になって、那智の心臓に流れ落ちる。その規則正しいリズムに揺すられながら、もっとずっと、ずっと熱い、那智の内側の深い部分へ――
「ぬおおおっ!?」
「うわあっ!」
はっとして、思い切り那智を突き飛ばした。その反動で自分も地面に倒れ込む。
激しく波打つ心臓が、喉を駆け上がって飛び出そうとする。苦しい。全然酸素が入ってこない。
わたし今、なにを考えてた?
「美月ちゃん、つよーい」
那智はひっくり返ったまま大の字になって、気持ちよさそうに雨を浴びていた。
きらきら、きらきら。無数の雨粒が那智の身体に当たって弾け飛ぶ。真っ白な制服のシャツに、跳ね返った泥が模様を描いていた。
その様は、非現実的で。美しくて、何より自由。那智そのものが自然と一体化して、ひとつの作品のように見えた。
心が洗われるとは、こういうことだろうか。
澄み切った空気が肺を通り抜けて、猛った心臓をしっとりと撫でた。
その代わり、
「さいあくだ……」
真っ赤なジャージのズボンに、雨どころか泥まで染み込んでいると気が付いて。やたらに重くて、立ち上がる気力もない。そんな私の傍で、まともに使ってもらえなかったビニール傘が、不服そうに横たわっていた。
「あ、やむよ!」
那智の予言に空を見上げる。
少しずつ、ゆっくりと雨の勢いが収まっていく。
「ひゃあー。すっかり、びっしょびしょに濡れちゃったね!」
那智が勢いよく上体を起こした。私に向けられた無邪気な笑顔は……うん。いつも通り。なんら変わりない。大丈夫。
またしても傘を杖代わりにして、気合いを入れて立ち上がる。今すぐ湯舟に飛び込みたいくらい、身体中がベタついて気持ちが悪かった。ああ、由希子さんになんて謝ろう。
「帰る」
地面にぺったり座り込んだままの那智を置いて、私はさっさと歩き始める。見上げた空にはもう、灰色の分厚い雲はなかった。いつの間にか綿あめみたいに柔らかそうな雲が浮かんでいて、その白く豊かな膨らみに、夕日が薄くオレンジの膜を張っていた。
対象から離れて少し、落ち着いた頭で考える。
あの一瞬は、なんだったのだろう。
「美月ちゃん」
びっくりして振り返る。那智が私のすぐ後ろ、ゼロ距離にいた。
傘を握り締めていた手が掴まれる。その熱に、またあの瞬間を思い出して。
――抱き締められる
わたしは咄嗟に、固く目をつむって身体を縮めた。
「ふふふ」
耳元で、鼓膜をくすぐるような笑い声がした。
ゆっくりと目を開ける。
鼻先が触れるほど近くで、那智の喉仏が動いた。
土と雨の、湿った匂いがする。
「期待しちゃった?」
後頭部の髪の毛が、僅かに引っ張られる感覚がした。那智の長く骨張った指に、枯葉が一枚、捕まっていた。
「ぎゅってしたの、気持ちよかったもんね」
那智が枯葉にそっと、薄い唇を重ねる。
思わず息を呑んで退いた。
熱を帯びて濡れた瞳が、わたしを捉えて揺らめいた。
ー fin ー
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