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梅雨の恋人
あの人と会うのはいつも雨の日だった。
「相変わらず、ジメジメしてるなあ、この部屋」
大和はそう言って眉根を寄せた。
「あなたがジメジメした季節に来るからでしょ」
梅雨の終わりごろにふらりとうちにやってきて、近況だけ聞いて帰っていく元恋人。恒例行事のようになっているから、梅雨入りの知らせを聞いたころからソワソワしてしまう。来るなら来る、とどうにかして連絡をしてほしいと言うと、「俺、携帯とか持ってないからさ」と笑ってかわされる。
彼の前に温かいお茶が入ったカップを置き、私は薄手のカーディガンを羽織る。そう、彼が来る日は雨が降っているだけでなく、決まって少し肌寒い。
「今年は来るのが遅かったんだね」
「なになに、俺が来るの待っててくれたわけ?」
「そういうわけじゃないけど」
嬉しそうに身を乗り出して顔を近づけてくるもんだから、体を逸らせて距離を取る。この人は友達のころから距離が近い人だった。恋人になってからは、二人でいるときはピタリと体を寄り添わせていたし、外出するときも必ず手を繋ぎたかった。冬の寒い日は暖かくてよかったけれど、四十度近い夏の日は汗ばむ手が彼に触れてしまうのが嫌で振り払おうとしたけど許してくれなかった。とにかく、人とくっついていたがる。
「今年って、長梅雨じゃん?」
「うん」
「だから来るのが遅くなった。待たせてごめんな」
「別に……待ってないよ」
小さな声で言うと、大和は「またまた~」と言いながら笑顔を見せた。
「それで、最近どう? なんか変わったことあった?」
「んー……これと言っておもしろい話はないんだけど」
お決まりの問いかけに口を開く。転職したばかりの職場の話や、親の話。それから、共通の知人のこと。最近どう? なんて気軽に聞くけど、会っていなかった約一年間の話をするとなるとそれなりに時間もかかる。でも、どの話にもうんうん、と頷き熱心に聞いてくれる。それが嬉しかった。
「そういや、ふみが結婚したんだってな」
「知ってたんだ? そうそう。会社の先輩と」
「いいなあ、俺も結婚式行きたかったなあ」
元恋人――大和とは高校二年から四年付き合った。このままずっと一緒にいて、いずれは結婚するのかもしれないな、なんて思い始めたときに私たちの関係は終わった。おしまいになったときは、体中の水分が枯れ果てるほどに泣いた。大和がいない世界なんて生きていけない、と思った。でも、別れてから七年が経ってもちゃんと生きている。ごはんを食べて、寝て、生活ができる程度に仕事をしていればどうにか生きていけてしまうのだ。そして、年に一度、大和が会いに来てくれるのを楽しみにしている。別れて一年経ったころに突然現れたときは、本当にびっくりしたけど嬉しくて仕方がなかった。今でもほんのりと心に残っている大和への好意。嫌いで別れたわけではないし、二人でいたときは楽しいことばかりだった。嫌な出来事ほど頭に残るというけれど、大和に対しては逆だ。
ひとしきり、私の話を聞き終えると、大和はごろりと横になった。大きい体。私なんて、この腕の中にすっぽりとおさまってしまう。力いっぱい抱きしめれば、私をぺしゃりと潰すことさえも難しくないんじゃないか。大和になら潰されてこの体が別になくなってしまってもいいのにな、と思う。
「どうしたの、大和。疲れた?」
「うー……ん」
肯定とも否定とも取れない、曖昧な返事。天井を見つめている瞳は落ち着きなく動いている。
「何か言わなきゃいけないことがあるなら、はっきり言ったほうがいいよ、大和」
「…………」
「回りくどい言い方をするとか、なんていうの、こうオブラートに包むの、苦手じゃん」
「そうなんだけどさっ」
勢いよく起き上がった大和は困っているような、悲しいような、複雑な表情を浮かべていた。柔らかそうな茶色の髪は、昔うちで買っていた犬と似ている。わしゃわしゃと触ったら気持ち良いだろうな、と伸ばしそうになった右手を左手で押さえる。一瞬でも大和に触れたら、そのまま押し倒してしまいそうだから。……まあ実際にはそんなことはできないんだけど。
「……あのさ」
「なんですか、大和クン」
「今日は、お祝いを言いにきたんだ」
「お祝い?」
「……お前、結婚するんだろ。秋に」
その言葉に虚をつかれて、一瞬反応が遅れた。そう、そうだった。口角を上げつつ、少しだけ目を伏せる。大丈夫、何度も練習した『恥ずかしそうに微笑む私』。
「知ってたんだ?」
「まあな。なあ、相手ってどんなやつ?」
「普通の人だよ。高校の先生をしていて、趣味はサーフィン、好きな食べ物はチキンカレー。フットサルもやってて、ときどき試合に連れていってくれるの」
「ひゅうー! リア充彼氏じゃん。顔は? 俺と似てる?」
「全然似てない。大和の六倍かっこいい」
「なんだよそれえ! 六倍とか、リアルな数字出すなよぉ」
残念そうな声をあげ、ぷいっとそっぽを向く。少しだけ膨らんだほっぺ。
「結月って拗ねてるときに、ほっぺが膨らむんだよな、ほらこうやって」そう言って私の真似をしていたのが、いつの間にかうつっていた。手を繋いで街を歩くことよりも、お揃いのアクセサリーをつけるよりも、そっちのほうがよっぽど嬉しかった。
「でも、いい奴なんだよな、きっと。結月が好きになるぐらいなんだし」
「うん。いい奴。優しいし」
「結婚したら、もうこうして会えないよな」
「……そうなるのかな?」
「そりゃあそうだろ。自分だって、旦那が元カノとこっそり会ってたら嫌じゃないか?」
それはそうだけど、ごにょごにょと口ごもる。でも、あなたはちょっと特別じゃない、という言葉を飲みこむ。それを言ってしまっては、いけない気がして。
「今日が最後かあ、だよなあ。覚悟してきたつもりだったけど、ちょっと寂しいな」
こっちを見た大和は少しだけ眉毛を下げて微笑んだ。そうだよ、私は結婚するんだよ。だから、もう来ないで。私からはっきり言えばよかったのに、弱いせいで、結局大和に言わせてしまった。
よーし、と気合をいれるように声を出して大和が立ち上がる。玄関に向かう背中を慌てて追う。
「帰るの? 来たばかりなのに」
「うん。お祝いも言えたし、結婚目前のオンナノコの家に長居するのも良くないしな」
「……別にそんなの気にしなくていいのに」
「ダメ。これが、ほんとのお別れ」
これが、最後。
本当に、二度と来ないだろう。
伝え損ねていることはもうないだろうか。
大好きな恋人だった人がこの部屋を出ていく前に、言わなければならないこと。
ひとつ、大きく深呼吸をした。
「大和」
「ん?」
「私、幸せになるよ」
彼は何も言わなかった。ただ、嬉しそうに微笑んだ。
玄関のドアが開き、ゆっくりと大和は出て行った。
ガチャン、と音と共に、ドアが閉まる。
もう、会えない。
追うようにドアを開けて飛び出す。静まり返ったマンションの廊下。
もう、いない。
代わりに、部屋の前にヒマワリの花束があった。雨音とは不似合な、鮮やかなヒマワリ。持ち上げると、花びらが揺れて、一枚ひらりと落ちた。
「そんなところで何してるの?」
響いた声にハッと肩を震わせ、視線を動かす。
「司さん。おかえりなさい」
「ただいま。……それ、ヒマワリのブーケ? 綺麗だな」
「うん……古い知り合いが、結婚のお祝いに持ってきてくれたの」
「そっか。じゃあ綺麗なまま早く活けてやろうな」
促されるようにして、部屋に戻る。大和のために淹れたお茶は、手つかずのまま冷えていた。カップとブーケを手にキッチンへ向かう。
大和が持ってきてくれたであろうヒマワリにちょうどいい花瓶はすぐに見つかった。いや、この花瓶に合わせて持ってきてくれたのか。大和と付き合っていたときに買ったものだった。
「そうだ、結月ちゃん。次の日曜って予定空いてるか?」
「うん」
「墓参り、その日に行くか」
墓参り。そうだ、そんな話をしていた。
「……もう大丈夫だよ。行かなくて、大丈夫」
「亡くなった恋人に結婚、報告するって言ってただろ。いいの?」
「もう、報告したから」
「え? ひとりで行ったのか?」
目を丸くする彼に向かって、笑みで答える。
六月十二日。それが大和の命日だ。梅雨が始まったばかりのころに事故で亡くなった彼はその翌年から毎年、梅雨の終わりにやってくる。恋人を失って、悲しみ以外の感情も失くした私の前に姿を現した大和は困ったように笑って言った。
「俺がいなくても笑える女になってくれないと、いつまで経っても成仏できないだろ」
幻だろうか、と最初は思った。でも、それでもよかった。彼に会えれば、なんでもよかった。
きっと、明日は晴天だ。そして、直に梅雨が明ける。
大和がいない夏が憂鬱だった。夏はイベントがたくさんあるからテンションが上がる、という大和はベタなことを好んだ。花火に浴衣、海にキャンプ。日に焼けた肌が赤くなったのを見てはしゃぐ。その肌をつつくと大げさに痛がって見せる大和を見るのが私の夏の楽しみだった。
最後に見た彼の肌は、白くて、それがとても悲しかった。
嘘でも私が幸せになろうとしないと、大和は解放されない、ということに大和がいなくなって三度目の夏になんとなく気がついた。おばあちゃんになっても雨の日に会いに来てくれる恋人を待つか、それとも……。
触れることができない恋人と会うのは、いつも雨の日だった。
もう会えない、恋人。
言わなきゃいけなかったのに、言えなかった、言いたくなかった言葉は、心の中でそっと呟いた。
彼と過ごした晴れの日を少しずつ忘れていく。きっと、それでいい。
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