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死神の憂鬱
ガシャン、と重々しくマンションのドアが閉まる。それから、ガチャリ、と鍵が閉まる音。仲睦まじい恋人たちが消えて行ったドアをヤマトはじっと見つめてしばらくその場に立ち尽くしていた。
今、彼と恋人は永久の別れを済ませたのだ。
「ヤマトさん、そろそろ行きますよ」
おそるおそる声をかけたが、彼は微動だにしなかった。
「ヤマトさん」
「分かってるよ」
ズッ、と鼻をすする音。彼はもう霊体なので実際には鼻水も涙も出ていないのだけれど、人間だったころの心と体の記憶がそうさせているのだろう。
「ヒマワリの花束って、なんだか粋ですね。でもこういうときって薔薇とかじゃないんですか。」
泣いている彼を見ないように、視線を逸らしながら言う。
「付き合っていたころ、毎年、ヒマワリ畑に行ってたんだ。結月、そこが大好きでさ。あと、俺は薔薇ってガラでもないし」
「それは、確かに!」
できるだけ明るく言ったけれど、そんな私の声は虚しく響くばかりだった。死神にこんな気を遣わせないでほしい。
「……ヤマトさん。行かないと」
「五年も延ばしてもらったんだから、今さら五分や十分延びたところで大して変わりはしないだろ」
彼が亡くなってから五年。最愛の恋人が、幸せになるまでは成仏できないとさんざん駄々をこねた。本来なら霊体でいられる期限は一年。
「ヤマトさん、何度も言っていますが、あなたは特例中の特例。できるだけ早く成仏していただかないと、私も困るんです」
「困るって言っても減俸くらうぐらいじゃん。知ってんだかんな。死神なんだからそれぐらいいだろ」
「死神だって減俸は、嫌です」
きっぱりと言うと、ようやく彼は重い腰をあげた。
「やれやれですね」
「……あのさ、今、感動的な別れをしてきたところなんだけど、お前には余韻というものはないの?」
「私にとっては日常の光景なので」
私たち死神の仕事は、肉体から回収し天界に届けること。ただ、現世に未練がある者に関しては天界に入ることができない。現世と天界をつなぐ扉が開かないのだ。天界に送るため、死者たちの未練を解消するのも私たちの仕事だ。
とは言え、全ての人がその未練を解消できるわけではない。通常、一年以内に扉が開かなかった霊体については天界に入ることができないまま霧散する。転生ができないのだ。大抵はその話を聞くと、現世への未練よりも未来への希望を持つ。例えば、好きだった人の子どもに生まれ変わりたいとか、今度は猫になりたいとか、女になりたい男になりたいだとか。
ヤマトのように一年を越えても霊体でいられる人間もたまにいる。前世で徳を積んでいたから、そのご褒美のようなものだ。とは言え、超過四年となるととんでもない。魂の記録を調べてみたところ、彼の前世は歴史の教科書にも載っているような偉人だった。霊体でいられる時間を延ばしてやれるなら、事故を回避することはできなかったのか、とも思う。が、天界は案外、現世には干渉できないものなのだ。不便なものである。
「ここまで霊体の期間を延ばすとヤマトさんは来世は人間には転生できません。ヤマトさんが入るべきだった器はもう転生済みとなっているので。それでよろしいですね?」
「今さら嫌だって言ってもどうしようもないじゃん」
「恋人の子どもに生まれ変わりたいって言っても無理ですからね」
「それよく聞くけど、普通に嫌じゃない? 元カノが別の男とイチャイチャしてるところ見るの。俺だったらグレてその男、困らせてやるんだけど」
「そんなことしたら、恋人まで悲しみますよ」
「あ、そっか」
確か、大変頭が切れる偉人だったと記憶しているのだけど、勘違いだっただろうか。まあいい。
「天界に到着後は、向こうのスタッフの指示に従ってください。くれぐれも無茶を言って困らせないでくださいよ」
「俺のことなんだと思ってんだよ」
「自己中心的で手のかかる客です」
今日が最後だと思うと、これまで胸に秘めていたことをズバッと言ってやることができる。大変気持ちがいい。
「なんだよぉ、五年も一緒にがんばってきた仲じゃねぇか」
「あなたというお荷物を抱えているせいで、単純に通常業務が増えたんですよっ? 彼女が旅行に行くから事故に遭わないように見守りたい、大切な面接がある日だから電車が遅延しないようにしたい、彼女がデートだから晴れにしたいって言い出したときはどうしようかと思いましたよ? 私は死神ではありますが、神ではありません。ただの天界の労働者です!」
「わかった、わかったって……」
うるさそうにヤマトが顔をしかめる。いつだって私の説教を聞くときは鬱陶しそうだ。彼女のことはあんなに愛おしそうに見つめているのに。
「行きますよ」
ヤマトの手を引き、ふわりと街の空気の中に舞い上がる。
彼はしばらく名残惜しそうにマンションを見ていたけれど、ようやく前を見た。パチリと目が合う。
「なんつー顔で俺のこと見てんだよ」
「あなたがあまりに悲しそうな顔をしていたのでつられただけです」
ずっと、彼女だけを見ていた。あのまま彼女を一人ぼっちのままにして、自分しかいない、という状況にだってできたはずだ。でも、彼はそれをしなかった。彼がいなくなったことを、あまりに彼女が悲しむからそばにいた。彼女が立ち直るまで、そばにいた。立ち直ってから、ようやく彼に少し欲が出たのだ。「彼女が幸せになるまでそばで見ていたい」と。
「……なあ」
「なんです?」
「死神ってどうやってなんの?」
聞かれると思っていた。彼ならきっと考えることだ。
「死神になって、彼女の一生を見守り続けますか?」
「…………」
「生憎ですが、あなたはどんなにがんばっても死神にはなれませんよ」
「天界のシステムは全く分かってねぇんだけど、テストがあるとか? そういうの、意外と頑張れるタイプなんだけど」
知っている。こんなチャラチャラしているが、一流大学に入学し、その中でも優秀な成績を収めている。そのまま生きていたら、一流企業に就職し、バリバリ働いていただろう。それもこれも、努力の賜物だ。しかし、それでは死神にはなれない。
「死神はなりたくてなるものじゃないんです。強制的に死神にされるんです」
「なんだそれ」
「死神になると償いを終えるまで転生できません。これは罰です」
「……何かやらかしたのか?」
「勘が良いですね」
微笑んでみせると彼は珍しく気まずそうな表情を見せた。一度積んだ徳は、自身が施行するまで積まれ続ける。徳ポイントのようなものだ。しかし、罪は死んだらすぐに償わなければならない。
「何したんだよ?」
「それ聞きます? デリカシーないですね」
「だって、そんなの言われたら気になるじゃん」
「言いませんよ」
あなただけには知られたくないので、ということは心の中で呟くに留めておく。聞いたら、きっとヤマトは私を軽蔑した瞳で見るだろう。そんな別れはしたくない。
「さあ、見えてきましたよ」
街は遠い。代わりに月が近くなった。彼の前ではずっと閉じていた天界への扉が空にぽっかりと開いている。
「……本当に開くんだな。」
「開かないと思っていたんですか?」
「そんな気がしていた。っていうか扉っていうか、ブラックホールっぽい」
表情がない。多くの人は、天界への扉を前にしたとき、同じ顔をする。悲しみや恐れとは少し違う。喪失感、が一番近いだろうか。
「お元気で。というのはおかしいかもしれませんが」
「お前もな」
「はい。……五年も一緒にいた霊体は初めてだったので。さすがに少し感慨深くなっていました」
「やっぱり、五年は長いか」
「長いですね。長すぎです」
そんなに長く一緒にいた人は初めてだった。それなりに、楽しいことも腹立たしいこともあったから、困ってしまう。久しぶりに人との思い出ができてしまった。
「また会えるか?」
「そうですね……。人間以外の生き物に関しては担当していませんので。あなたが何か別の生き物に転生して、亡くなって、人間にまた生まれて、死ぬときに私が担当することになれば会えるかもしれませんね」
「ソッコー生まれて死んで、というのを二回やらなきゃなんねぇのか」
「急がなくて大丈夫ですよ。たぶん、まだ死神やっているでしょうから」
「マジでお前何やったんだよ」
思いっきりしかめっ面を作った彼に吹き出してしまう。
「ほら、早く行ってください。私もそろそろ次の方にお迎えなので」
「……おう」
彼に背中を向ける。五年、一緒にいたよしみで来々世では、好きな人と結ばれることを願ってあげよう。
「おい!」
振り返ると、彼が大きく手を振っていた。
「またな!」
無邪気な笑顔。全ての未練を断ち切ったらしいその笑顔が憎らしい。私は未だに未練たらたらだ。
彼の姿が天界の奥へと消えていく。そして、ゆっくりと扉が閉まった。
ふわふわと頼りなく夜の街を舞う。
私の罪は、浮気をした恋人が許せなくて殺したこと。そしてそのあと、自殺したこと。それを聞いたら彼はどんな顔をしただろう。ほんの少しだけ興味があるけれど、何より、彼に醜かった心を知られたくない。
彼を五年見てきた。彼に心の底から愛されていた「結月」がうらやましくて仕方がなかった。
「もう少し、長く一緒にいたら危なかったですね」
償いが全て終わったら、また彼と会うことはできるだろうか。
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