9月 15‐①

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9月 15‐①

 相談室のオープンが社内報に見開き2ページで紹介され、相談専用のメールアドレスも作ってもらったが、今のところ相談は1件も来ていない。具体的な活動が見えないから仕方ないと考えつつ、暁斗はニューズレター用の自己紹介文を読み返していた。「お騒がせしている分お役に立てることもあるかと思います」とは自虐が過ぎるようにも感じたが、正直な気持ちだからまあ良しとする。  編集の大平に原稿を添付して送ってから、ちょっとした勉強代わりにとっつきやすい本や映画は無いものかとネットで検索してみる。そういう作品をニューズレターで紹介するのはどうだろうと考えたのである。  西澤遥一がモデルとされる美少年が登場するあの小説は取り上げたかった。直木賞候補作という看板もあるし、在日外国人の問題にも注目できるからだ。 「おはようございます、自己紹介文受領いたしました。お忙しいところ、ありがとうございました。」  大平からの返事を見て、忙しくないけど、と胸の内で突っ込む。ふと、清水はあれで結構なオタク傾向があるらしいことを思い出し、面白くて考えさせてくれる漫画やアニメを知らないか訊いてみるべくメールする。 「いかにもみたいな作品はドン引きされかねず、相談室の名誉にかかわってはいけませんので、じわっとくるやつがいいでしょうか。」  清水の返信は意外に早かった。 「但し個人の感想になってしまいますよ。」 「良いと思います、選んでくれたものを私も読みたい(観たい)です。」  暁斗は応える。相談室の話を持ちかけられた時、自由にやらせてもらえそうだからそうしようと、山中と話し合った。そう、動かなくては新しいプロジェクトはいつまでも絵に描いた餅のままだ。  女子大との連携プロジェクトは予想以上に反響があり、仮カタログがよく()けて、工場側も大わらわらしい。新しい部品の試作もまだ必要で、下請けへの営業も忙しくなりそうだ。現場とのパイプである清水と親しくなれたのは、良いタイミングだった。  午後から外回りに出ない者たちで、新作の営業方針に関するミニミーティングを2課と合同でおこなう予定だった。社員食堂から戻った暁斗は、平岡と一緒に、資料を作るべく複合機の前に陣取っていた。 「ステープル今日調子悪いんです」  平岡が言うので、暁斗はホッチキス片手に6枚のA4の紙を重ねて揃える。 「それずっと言ってない? お盆前に一回メンテ来てくれたよな、確か」 「あの時見てもらって直った筈ですよ、やっぱりもう古くて駄目なのかなぁ」 「ステープル以外は問題ないんだよなあ、うーん」  暁斗はホッチキスを2箇所に留めながら、数が多いと困るなと考える。  暁斗のデスクの電話が鳴った。和束がそちらに立っていたので、小走りで行ってくれた。彼女は受話器を上げてのんびりと、課長いますよ、代わる? と答えていたが、は⁉ と()頓狂(とんきょう)な声を上げた。そして暁斗のほうを振り返る。 「えっでも、課長に会いに来られたんじゃないんだよね?」  部屋にいた全員が和束を見てから、暁斗に視線を送った。彼女は焦った声で、わかったと言って受話器を置いた。その頬が心なしか上気している。 「課長、彼氏が殴り込みに来られたって1階から報告が」 「はぁ⁉」  和束の声に、今度は暁斗がひっくり返った声を上げた。部屋の中がざわめく。 「高崎奏人さんが会社の副社長さんと総務部長さんと一緒にお越しになったそうです、人事部のフロアにとりあえず通したって」 「待って、アポあったのか?」 「無かったんじゃないですか、1階と人事がバタバタしたみたいです」  暁斗はあ然として失語する。メンバー的に、例の件で訪れたに違いない。こちらがまともな対応をしないから、キレられてしまったのではないか。それはそれで、まずい。  また暁斗のデスクの電話が鳴った。和束は受話器を直ぐに取り、暁斗に目配せした。暁斗はホッチキスを置いて走った。 「桂山くん、すぐに人事の第二会議室に来てもらえないか、相談室員全員と専務室と社長室に召集をかけてる」  西山がいつになく早口で言った。 「何事ですか」 「きみのパートナーとその会社の人たちが至急話をしたいと言って直接来たんだよ」  暁斗はわかりましたと答えて受話器を置いたが、かなり混乱していた。やっぱり殴り込みですか、と小声で和束が訊くので、ガチでそうみたい、と答えた。  暁斗がエレベーターホールに向かうと、平岡と和束がついて来た。 「どうしたの、すぐに戻れなさそうだったら電話するから」 「ついて行っちゃ駄目ですか、彼氏見たいです」 「駄目だ、来るな」  えーっ、と彼女らは揃って声を上げた。エレベーターに乗り込んで来ようとするので、暁斗は閉のボタンを連打しながら彼女らを押し返した。エレベーターが無事昇り出したので、ひとつ息をつく。  何を考えてる? 暁斗は奏人の意図を測りかねる。いや、奏人ではなく会社の意向かも知れない。エレベーターのドアが開くと、人事部の連中と思われる社員たちが狭いホールに鈴なりになっていた。あっ桂山課長、と誰かが言い、暁斗のために道が開く。第二会議室の前では、大平と清水が戸惑いを隠せない表情で待機していた。 「岸部長はすぐに戻られる予定です、山中さんは無理だと」  大平は上擦(うわず)った声で暁斗に報告した。 「今2人の専務と社長室の秘書が入ったんですよ、副社長が掴まりそうだから間に合えば来るって」  清水が興奮気味に続ける。 「何でこんなことになってるの?」  暁斗が言うと、清水は暁斗を見て苦笑した。 「いやいや、来客と唯一顔見知りの桂山課長がわからないなら僕らにわかる訳ないです」  確かに昨日、専務たちが相変わらずだという話を奏人にした。しかしこれは無茶過ぎないか。 「あちらの副社長がいらっしゃったから、身分合わせで社長室に連絡が行ったのもあると思いますよ」  大平が言った。混乱させるのが狙いなのか。  ドアが開いて、西山が顔を覗かせた。その表情を見る限り、困難な状況では無さそうである。人事部の社員たちが中を覗こうとするのを遮りながら、3人は会議室に入った。  だだっ広い会議室の机の左手に座っているのは、こちらの会社の面々である。2人の専務は昨日も顔を合わせたが、困惑が隠せない様子だ。秘書室の室長は、大平より数年上の女性だと暁斗は記憶していたが、落ち着いた表情で相談室員たちを迎えた。  右手には3人の男性が座っていた。おそらく一番上座にいる中年の男性が副社長、真ん中が原総務部長だろう。原は、暁斗に寄越したメールに相応しい、穏やかできちんとした印象の人だった。そして高崎奏人は、紺色のスーツに身を包み、背筋を伸ばして座っていて、暁斗の姿を認めると、微かに口許をほころばせた。まるでイギリスのエリートの若者のようなその(たたず)まいに、暁斗は場違いにも見惚れてしまう。  相談室員たちはこちらの会社側に並んで腰を下ろし、西山からあちらに簡単に紹介された。あちらも自己紹介をしたが、大平と清水が明らかに奏人ばかり見つめているので、暁斗は冷や汗が出るのを感じる。 「アポイントメントもなくお訪ねした無礼をお許しください、先日の許し難い雑誌の記事への対応について、そちら様の相談室と共に動きたいというこちらの考えを汲んでいただいたこと、感謝いたします」  副社長の森田は滞りなく話した。 「しかしこれまでの流れを見ますと、今回の件は個人の性的指向に対する侮辱以上の問題を(はら)み始めたようです、そこでこちらといたしましては、より大きな枠組みで協働していく必要があるのではないかと考えています」  森田の言葉に、こちらの専務が言いにくそうに応じた。 「わざわざご足労いただき本当に恐縮です……相談室からそちら様のお考えは伺っておりましたし、こちらも昨日事実確認をまた一つ済ませてはいるのですが、その……二つの会社がこぞって対応しますと、大げさになり過ぎはしないかという意見も多々ありまして」 「私どもは当事者である高崎を大切な社員だと思っておりますし、御社の当事者になってしまわれた桂山さんは優秀な営業担当だと伺っています、大切な社員の権利を守るのに大げさということは無いと考えるのですが」  原総務部長は案外はっきりと言った。こちらのほうがひやりとしてしまう。専務ははあ、と応じたが、それ以上言葉が続かない様子だった。 「狡猾(こうかつ)な物言いになりますが、こういった案件にきっちり対応するかどうかは会社の外部へのイメージ戦略に直結いたします」  森田は微笑しながら言った。 「私どもの会社は有り難いことに、大学生が首都圏で就職したい会社のベスト20にここ数年選ばれておりますが、特に若い人は社会的な理不尽に会社がどう立ち向かうかをよく見ていて、人権擁護への意識も高いです」  隣で大平がはあぁ、と小さく感嘆のニュアンスを含んだ溜め息をついた。この会議が終わったら、奏人の会社に転職したいと言い出すかも知れない。 「そんなこともあり、今回の件の取り扱いは全社を挙げて慎重かつ大胆に考えるべきだとしておりまして……いやもちろん、我が社の方針を押しつけるつもりはございません」  詰んだな、と暁斗は思った。この副社長はどんな経歴を持っているのかわからないが、営業や企画担当だったとしたら相当なやり手だったに違いない。こんな言い方をされて、でもうちはやりませんなどと返せる訳がないのだ。  専務たちが返答に困って会議室に気まずい沈黙が落ちた時、岸が副社長の浅野を伴い、失礼しますと言ってドアを開けた。秘書室長が立ち上がり2人を奥の席に招いたが、2人はここで、とドアに近い席に着いた。暁斗は隣に浅野に座られ、やや緊張する。年始の挨拶でしか顔を知らないような人である。ただ生え抜きではなく転職組であるせいか、考え方はリベラルだという噂もあった。秘書室長が浅野と岸の間にやってきて、素早く事の経緯とここまでの流れを話した。ちらっとそちらを見ると、岸と目が合った。彼が微笑してから奏人に視線を送るので、暁斗は俯くしかない。 「失礼いたしました、副社長と営業企画統括部長が参りました、性的少数者のための相談室のメンバーが1名を覗き全員が揃ったことになります、1名は仙台から今日17時に戻る予定ですので顔を出せませんがご容赦ください」  西山が仕切り直すように言った。 「お忙しいのに揃っていただき恐縮です、私どものハラスメント撲滅委員会は現在総勢20名でして、全員連れて参る訳にはいきませんので代表2人で失礼いたします」  原の言葉に暁斗は驚く。ひとつの労働組合レベルの人数だ。 「私どもは今回の件をきっかけに、と申しますとここにいる当事者たちには失礼ではありますが、こういう案件により柔軟かつ効果的に対応するためにも、横の連携ができれば良いと考えました」  原は一度言葉を切る。 「御社の相談室は桂山さんのために行動なさっており、こちらの申し出を快諾してくださっていますが、御社としてのお考えがいまひとつ分かり辛いので伺ったのです」  岸は横に副社長が座っているにもかかわらず、あっさりと返答する。 「私が参るまでに少しお話しをなさったようですのでご理解いただけたかと思いますが、先日出版社への抗議文を相談室の名前で出し、それをそちら様に報告して以来、状況に変化はありません」 「つまり今も会社として抗議なさるおつもりは無いと」  原は、岸とその横に座る浅野に視線を送っている。隣の浅野がやや困惑しているのが暁斗に伝わってきた。 「御社の考えは素晴らしいと思いますが、社員一人一人の全てのトラブルに対応することなど実際には不可能です、ましてや今回の件は個人の極めて特殊なプライベートな話であって……」  専務の言い訳に、原の表情が冷ややかなものに変わった。 「では社員のどんなことなら会社がフォローなさると?」 「それこそ柔軟かつ効果的に対応を考えます、今回のことなどそもそも個人の不注意に根源があるのですから」 「失礼ですが、問題を取り違えてらっしゃるように思います」  穏やかできちんとした印象の総務部長は、意外と武闘派らしかった。大平が興奮して頬を赤らめ始めたことに気づき、暁斗は不謹慎にも笑いそうになる。原はいきなり桂山さん、と言い、暁斗のほうを向いた。暁斗は驚いてはい、と返答する。 「あなたにここでの1.5倍の月給をお渡しするので我が社にいらっしゃいませんか?」
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