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そして2月
暁斗は社員食堂の窓から、見るともなしにビルの群れを視界に入れていた。暦の上では春を迎えたけれど、外の空気が冷たいのは、やけに澄んだ青い空を見ると伝わってくる。
年が明けてから1ヶ月半、本当に目まぐるしかった。立川に奏人を連れて行き、仕事始めからいくつかの新年会、女子大訪問とコラボの新商品の営業、相談室の体制調整、年度末の締めの準備と2課を任せる社員の人選。週末は奏人と会って、彼が出発するための、そして帰国してからの準備をした。
奏人は結局、会社を出発3日前の日付けで退職することになった。慰留されたが、留学が2年で終わると約束できないので、休職という選択はできなかった。神楽坂のマンションは先週引き払い、手放さない本や画材は暁斗のマンションに一番近いレンタルスペースに、利用料を2年分前払いして預けている。暁斗の部屋には、彼の衣装ケース1つ分の服、2足の靴とダンボール1箱の本、今日まで使っていたこまこました日用品が残された。
神楽坂から引っ越してきた奏人は、6日間だけ暁斗と暮らし、今朝旅立った。これまで長くても2日半しか一緒に居たことが無かったので、やはり色々な発見があった。実は日本酒が一番好きなこと、集中力が半端なく、話しかけても気づかないことがあること、朝の身支度に固定のローテーションがあること、虫に耐性が高いこと、複数のシャンプーを使っていること……暁斗の好きな甘い香りのするシャンプーは基本的に女性用で、テンションアップとリラックスの双方を求める時に使うことが多いらしかった。
僕を忘れないようになどと言われながら、寝不足になるくらい、毎晩奏人に弄ばれてしまった。自分は淡白だなんて彼は言うが、認識の誤りだろうと暁斗は苦笑する。もちろん毎晩奏人を独り占めし、幸せではあったのだが、忘れられなくなるほど仕込まれるのも困りものだった。虚しくて自己嫌悪に陥るから、暁斗はマスターベーションに慣れない。
北海道の実家に、日本を離れる報告を一切していないと言うので、奏人を叱った。暁斗が今この場で電話をしろと強い口調で言うと、彼は二言ほど反論したが、膨れっ面になって母親に電話をかけた。以前行ったアメリカの大学に2年行くことを簡単に話してから、近況報告を始めたので暁斗は安心した。最後には帰国したら、暁斗を連れて一度実家に戻ると約束したようだった。電話を切ると、久々の母親の声に感じるものがあったのか、奏人は堪えきれなくなったように泣き出した。少し驚きつつも、泣かせた責任を取ってしばらく抱いてやると、自分がこの青年の保護者でもあることを実感した。悪い気分ではなかった。奏人が家族との確執を解決するきっかけになればいいと思った。
奏人の飛行機は、12時成田発だった。空港には誰一人として見送りに行っていない。と言うよりは、奏人が見送られることを拒否した。神崎綾乃も来るなと言われたらしく、昨夜暁斗によろしくお願いしますというメールを送ってきて、見送りに来た人の前で泣きたくないのだろうと記していた。暁斗は窓から空を見上げているが、成田を発った飛行機がこの上を飛ぶとは思えなかった。
「お疲れ、奏人は今日出発だったよな? 見送らないのか」
前の席にやってきたのは、定食を盆に載せた山中だった。
「ええ、来て欲しくないんだそうです」
「見送られると余計寂しくなるからな」
山中は相談室の新年会を、奏人の会社のハラスメント撲滅委員会と一緒にやりたいと言い出して、原総務部長を含む4名と、何故か奏人を呼んだ。大平は社交性を発揮し始終楽しそうで、清水もあちらの女性社員と交歓して満足そうだった。山中と岸は奏人と話すのが一番の目的だったようだ。
「奏人ほんと可愛いよなぁ、ケチらず一度くらい指名するべきだったよ……」
山中は汁椀を手にして、いかにも残念そうに言った。こいつが指名しなくて良かったと暁斗は胸の内で呟きつつ、言う。
「山中さんと話せて奏人さんも嬉しかったようですよ」
それは事実だった。奏人は、山中さんはやっぱりシュッとしていたと笑っていた。
「初めてきちんとお話しするとは思えないです、だって……そういう気の利いたことを隆史はパッと言えないからなぁ」
暁斗は苦笑した。隆史のそんなところを気に入っているくせに。
「これから少し寂しいな、まあ2年なんてあっという間だよ」
山中の言葉に暁斗は頷く。そうであって欲しいと思う。
「毎日仕事して飯食って寝てるうちに、時間なんていくらでも過ぎてくさ……まあでも奏人があっちで一生懸命勉強してるんだから、おまえも何か一生懸命やればどうだ」
「……何をですか?」
暁斗が茶を飲みながら訊くと、山中は眉間に皺を寄せた。
「仕事以外のことをだよ、でないと定年したら呆けるぞ」
そう言う山中は、人前で話すなどして発信することに力を入れている様子で、話し方教室に通い始めたようである。
「蒲田の工場の社長さんが、ゲイとノンケ両方に発信するメールマガジンを始めたいから手伝って欲しいと言ってきましたよ」
ふと思い出して、暁斗は山中に報告した。
「知ってる、でも俺のメールには手伝ってくれとは書いてなかったぞ、何を手伝うんだ」
「そうなんですか? 俺にはゲイ語りをして欲しいみたいです」
山中はおお、と楽しげに言った。
「やれよ、相談室のニューズレターと合わせてもうすっかりエッセイストだな」
暁斗は首を傾げた。エッセイストとはご大層な呼び方である。とは言え、ニューズレターに暁斗が緩く、自分の性的指向について思うことや、相談室のミーティングで話されていることを綴っているうちに、相談室は室員が濃いだけで怖いところではないという認識が広まりつつある。相談もぽつぽつ来るようになってきた。
「……テニス再開しようかなあ……」
独り言のつもりだったが、山中はそれもいいな、と応じた。
「同期がカミングアウトおめでとう会を12月にやってくれたんですよ、そのあと運動不足解消にちょっとやらないかって話も出て」
「うん、奏人が帰ってきておまえの腹がでっぷりしてたら失望されるぞ」
「確かに……」
奏人は中年になっても太りそうにない。暁斗も体重が変動するタイプではないが、努力するに越したことはない。せっかく月末からひげ脱毛を始めるのに、体型が残念なことになったら哀し過ぎる。
「文章と肉体を磨きます」
「素晴らしい」
2人して笑う。その時暁斗は、奏人の旅立ちに、自分の気持ちがやはり沈んでいたと気づかされた。山中はそれをわかっていて、話しかけて来たのかも知れない。あまり認めたくないが、優しい人だから。
暁斗はもう一度、晴れた空を窓越しに見上げる。空はカリフォルニアにも続いている……そんな風に初めて思った。毎日を一生懸命過ごそう、奏人に少しでも相応しい者になれるよう。
奏人が帰ってきたら、まず丸一日寝室に閉じ込めて、嫌になるくらい愛し合おう。きっと奏人は、黒い瞳を真っ直ぐこちらに向け、ちょっと待って、なんて言いながら、頬だけでなく首や耳までピンク色に染めるだろう。そこに順番に口づけしてやると、可愛らしく声を洩らすに違いない。そしてそのうち、俺の耳たぶに唇を押しつけながら反撃の狼煙を上げるのだ。暁斗さん、こんなことをする以上は、覚悟はできているんだよね?……暁斗は我に返った。白昼夢に勝手に赤面して、思わず周りを見回す。山中は箸を片手にスマートフォンで誰かに返信していて、暁斗が自分の妄想に狼狽する様子に気づいていなかった。暁斗はほっとしてひとつ息をついた。
あと10分で午後の業務が始まる。
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