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焼けた二切れの鮭をグリルから出し、炊けたご飯をふたつの弁当箱に詰めていると、軽い足音がした。暁斗はそちらを振り返った。
「見て見て、どうかな?」
奏人は嬉しそうに言った。暁斗はしゃもじを手にしたまま、これまで見たことのない、彼の愛嬌のある姿に目を見はる。
ニットはだぶだぶだった。奏人は緩いニットの茶色い襟元から青いTシャツを覗かせ、長い袖に手の甲まで隠していた。丈は骨盤まであり、その下からやはりすこし大きめの黒いジーンズの足が伸びている。30を過ぎてこんな着こなしを自然にする彼は、そういう意味でも魔物だ。
「あ、可愛い……」
どきりとさせられた暁斗は、正直な感想を述べた。若い頃、自分の服やパジャマをお泊まりに来た彼女に貸して着せるというシチュエーションに、友人たちが憧れの声をあげていたが、こんな年齢になってあの頃の彼らの気持ちがやっと理解できた。ときめくではないか。何なんだこれは、朝から反則過ぎるだろう!
「あ、お弁当ごめんね、今から卵焼き作るから……」
可愛らしい生き物は、ついと暁斗の横にやってきた。自分でもそうと分かるくらい、だらしなく呆けた顔で奏人を見ていると、彼は上目遣いで暁斗を見て、言った。
「ふふふ、暁斗さんの匂いがする」
奏人は襟元を持ち上げ、そこに鼻先を入れた。暁斗は眩暈を感じた。もう、今すぐ寝室に連れ込んで押し倒したい。
そんな時間も無いので、暁斗はしゃもじを置いて、もふもふした奏人を横から腕の中に取り込んだ。彼はえっ、と驚いた声をあげたが、すぐに暁斗に寄りかかり、ニットに隠れた手を腕に添えた。こういうの何て言うんだ、萌え袖? 何かそんな言葉あるよな。昨年、これをしていた新入社員にだらしないからやめろと注意したことを暁斗は思い出したが、当然ながら奏人なら許す。
暁斗は奏人のこめかみにひとつキスをする。その髪からは、仄かにいい匂いがした。
「気に入ってくれた? これで出社とかふざけてるかな……」
「いえ、全然いいと思います」
奏人から離れがたかったが、卵を焼いてもらわないといけないので、暁斗は腕を緩めた。やかんの湯が沸いているので、コンロの火を止める。マグカップをふたつ出して、紅茶のティーバッグをひとつずつ入れた。
奏人は卵を3個ボウルに割り入れ、溶きほぐしてから暁斗を見た。
「ネクタイお揃い?」
トースターにパンを入れていた暁斗は、うん、まあ、と照れながら答えた。奏人の萌え袖がたくし上げられて、細い手首が覗いているのも、違った色気がある。
「……楽しいね、こういうの」
奏人は静かに言って、暁斗に微笑みかけた。暁斗は頭の中までぽやんとなった。彼が自分ともたもた暮らすことを慈しんでくれている様子が、愛おしい。
暁斗は奏人との生活に、嬉しさ混じりの戸惑いを感じることもまだまだ多い。毎朝、目覚めると彼が隣にいることには少し慣れ、ふたりでの生活のペースも掴み始めている。しかし今朝のようなイレギュラーなときめきには心がやたら乱されるし、些細な変化を人から指摘されると、どう返事をすればいいのかわからない。
週に2日ほど、奏人が出勤で、暁斗に外回りの予定が無いとわかっている日に、弁当を持って行くようになった。ふたりで作っているのに、愛妻弁当かと会社で冷やかされる。奏人が先に帰っているとわかっている日は、会社を出る時にLINEをするが、スマートフォンの画面を部下たちが覗き込んでくる。今日もきっと、珍しい色のネクタイをしてきたことを、選んでもらったのかなどと女子社員たちに突っ込まれるだろう。
奏人が卵焼きパンに卵液を流し込む。じゅっと音がして、いい匂いが広がった。
「暁斗さんが喜んでくれるから、今年は大きめのセーターばっかり買おうかな」
「いや、毎日ぶかぶかは良くないんじゃ……」
それに大きいセーターというよりは、自分のものを着ているから萌えるのではないか、と思う。暁斗はヨーグルトをふたつの小鉢によそいながら、赤面がなかなか収まらなくて密かに焦っていた。
「とにかく今日は駅前のアトレに寄って、冬ものを買うね」
「わかった、でも俺のほうが遅いかな」
「うん、暁斗さん何か要る? 冬もの……あ、色違いでお揃いのセーター買おっか」
そんなことを嬉々として計画する奏人は、やはり若いのだなと思う。ちょっと気恥ずかしいが、暁斗は承諾した。
気温が下がったということは、寄り添うと心地良い季節がやっと訪れたということだった。夕飯は今シーズン初の鍋もいいかも知れない。ベッドに毛布も用意しよう。
奏人が卵焼きを皿に移すのを見計らって、暁斗はダイニングの椅子を引いた。今日も何ということのない、でも昨日とは違う一日が始まる。
〈完〉
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番外編は基本的に、本編を知らなくても
読んでいただけるように
独立・シリーズハッシュタグ付きで
書いていますが、
登場人物の説明等をしないまま
ちょこっと進行したい小話などは、
ここに載せていこうかなと思います。
このお話は、本編完結の三年半後、
『今宵貴方と見る月は』の
後くらいを想定しています。
時系列がややこしくなってすみません……。
2021.10.20 穂祥舞
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