9月 14-②

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9月 14-②

 春に医務室の世話になった暁斗は、ここならみだりに衆目を浴びずに済むとわかっていたのでほっとした。医師の藤倉はベッドに横たわる佐々木の血圧が低過ぎるのを危惧して、救急車を呼ぼうとしたが、彼女が目を覚ましたので少し様子を見ることにしたようだった。 「……すみません、過呼吸を持ってるものですから」  佐々木は力の無い声で言った。軽く発作を起こしたらしかった。その疲れた表情から、まともに眠れず、食事も取れていないのではないかと暁斗は思った。 「電話に出てくださらないから心配していたんですよ」  暁斗はベッドの脇に座って、言った。彼女はパンツのポケットに、財布と鍵しか入れておらず、手ぶらで来ていた。 「取り上げられています、半分軟禁されているような状態を抜け出して来て」  えっ、と暁斗は口の中で言った。藤倉が深刻な表情になる。 「警察に連絡しましょうか、あなた暴行も受けてらっしゃるでしょう?」  藤倉は佐々木の右腕をとり、カットソーの袖を少し上げた。そこには、細い紫色のあざがくっきりとついていた。 「昨夜部屋を出ようとしたら椅子に縛りつけられました」  暁斗は仰天して藤倉を見上げた。彼は意外と落ち着いていて、深い溜め息をついた。佐々木は気丈に続ける。 「警察には私が自分で連絡します、このまま八王子の実家に帰るつもりです」 「追われたりしないんですか、タクシーを呼びましょう」  暁斗は言ったが、佐々木は大丈夫です、と応えた。 「私を脅したかっただけでしょうから……でも私もこのまま黙っているつもりはありません、私はあの記事を私の許可無く書き替えて、高崎さんや桂山さんたちを侮辱した編集部を告発します」 「あなたを軟禁したのも編集部の人たちなんですか?」  佐々木の意識がはっきりしてきたようなので、暁斗は問うた。彼女は、大まかに言えばそうです、と答えた。暁斗はそれを聞き、ポケットの中のスマートフォンのボイスメモをそっとタップする。藤倉も椅子を持ってきて、その場に座り、彼女の脈を取る。 「あの出版社には3年前に廃刊になった写真週刊誌の編集者たちが残っていて、売れるなら何でも良いといったやり方を他の週刊誌の編集に押しつけてくるんです」  佐々木は憎々しげに言った。彼女の気の強さが伺える。 「女性週刊誌に記事を書かせてもらうようになってから、そういう連中と適当に話を合わせていた私も悪かったんです……仕事欲しさに」  西澤遥一の記事を書くにあたり、当初は彼の同性愛者としての話題を色をつけて書こうとしていた佐々木だったが、ペアを組まされた男性記者の得体が知れず、その取材がいい加減なことや、暁斗からそういう内容は感心しないとはっきり言われたことなどもあり、社会問題として取り上げ一人で仕上げたいと、方針の転換を女性週刊誌の編集部に申し出た。 「意見が編集部でも分かれてしまいました、しかしスキャンダラスな内容にすると炎上するだろうという結論が出て、手直しした私の記事を掲載することにしたと聞かされていました……なのに」  ペアを組んでいた男性記者は、勝手に佐々木の記事をよりスキャンダラスなものに書き替え、写真週刊誌組の編集者たちがそれで校了にし、女性週刊誌の編集部を無視して印刷に回してしまった。締め切り日の関係と、フリーのライターは記事をきちんと校正させてもらえないことも多いので、佐々木はやけに急ぐのだなという違和感を脇にやり、次の記事のために取材を始めていた。 「あんな裏も取れていないものが出てしまって……高崎さんの客に関する内容は、桂山さん以外はデリへルの元同僚から男性記者が聞き出したものでしたが、情報が古かったのと、新しい方針に沿って書き直した記事では不必要だったのでカットしていたんです」  暁斗はいい加減で恣意(しい)的な編集が行われていることを聞かされ、腹立たしくなり、呆れた。そんなことをしているから、マスゴミなどと言われ信用を失くすのだ。  佐々木は猛抗議したが、謝罪と記事の撤回どころか、炎上の責任を押しつけられた。写真週刊誌組は、出版社の中でも声が大きく、こういった専横が(まか)り通っているのだった。せめて記事の中で(おとし)められてしまった奏人や、西澤の遺族に謝罪と申し開きをしたいと考えたが、動こうとした途端、ペアの男性記者から脅迫まがいの言動を受けた。記事の書き直しなんて無理だ、この件はこれ以上取材もさせないと言われ、外出する度にガラの悪い男たちにつけ回された。恐ろしくなった彼女は自分のマンションからあまり出られなくなった。 「その記者は何なんですか、暴力団と繋がっているような人なんですか」  暁斗がぞっとしながら訊くと、おそらく、と佐々木は応じた。 「ダークサイドの記事ばかり書いている人なので……彼も彼で、私が記事を撤回するような行動を取るとこれからの自分の仕事に差し支えるとでも思ったんでしょう……私が引き下がらないのでむきになっているのもありそうです」  藤倉は立ち上がり、何か食べて薬を飲んでから実家に向かいなさい、と言った。レトルトのお粥を用意してやるつもりらしかった。 「桂山さんをアウティングしてしまう結果になったことはお詫びのしようがありません、本当にごめんなさい」  佐々木はベッドに上半身を起こして、頭を下げた。暁斗の口から出た言葉は、自分でも驚くくらい優しいものだった。 「いいですよ、遅かれ早かれカムアウトするつもりでしたから」 「しかも高崎さんと客以上の関係だということまでバレているみたいですね」  佐々木の言葉に暁斗は苦笑する。 「お盆前にいらした時、私がゲイで高崎さんと客以上の関係だということは掴んでらっしゃったんですか?」  暁斗は興味を覚えて訊いてみた。 「高崎さんのお客さんであることは池袋で確認していました、梅雨明けの前に一度高崎さんが桂山さんのご自宅に行ったのも知っています……まあでもデリヘルの人を自宅にっていうのは普通ですから、それ以上の関係かどうかをあの日揺さぶりをかけるつもりでした」 「それで?」  佐々木はふっと口許を緩めた。 「あなたの口調から深い関係なんだろうなと直感しましたよ、あの日は証拠をどうやって掴もうかと思いながら帰りました」 「あなたは証拠を掴んでいたことになる」  暁斗が佐々木に伝えると、彼女は目を見開き、え、と小さく言った。 「高崎さんの属しているクラブは……原則としてスタッフに客の家で仕事をさせないんです、その日高崎さんは私の誕生日を祝うために私の家に来てくれたんです」 「……高崎さんのネタを出した元同僚も、そういうことを教えてくれたら良かったのに」  佐々木はようやく笑顔らしい表情を見せた。やはりこの人はあんなに濃い化粧をしない方がいいと暁斗は感じた。 「高崎さんは私に対して一言も……責めたり恨んだりする言葉を発しませんでした、むしろ私に同情するような顔をしていました」  佐々木は少し俯いた。その仕草が、彼女の今回の件への悔悟を示しているように見えた。 「西澤遥一という人も滅多に怒った顔を見せなかったそうです、私は取材の対象をもっと先に深く知るべきでした……若い時はそうしていた筈なのにそういう気持ちを忘れていました」  藤倉が湯気をたてた粥の入った椀と、湯呑みを盆に載せて戻ってきた。 「桂山課長も終業時間を過ぎましたよ、この人は私が東京駅まで送るので自分のフロアに戻ってください」 「私も彼女をそこまで見送ります、本当に大丈夫ですか? 何も持たずに」  暁斗は佐々木に念押しした。彼女は頷き、れんげで(すく)った粥を口に入れて、ほっとした表情になった。 「大丈夫です、実家に戻るくらいのお金はありますし……高崎さんと桂山さんに言うべきことが言えて元気が出てきた気がします」 「仕事は? 続けられそうですか?」  暁斗は余計なお世話かと思いつつ訊いた。佐々木は微苦笑する。 「ええ、しばらく何処にも書かせてもらえないでしょうけれど、自分が招いたことですから……また風が吹き始めるまで耐えます」  風が吹き始めるまで、という言葉が美しいと暁斗は思った。きっとこれまでも、意に染まない記事を書かされたり、編集者からセクハラ紛いの扱いを受けたりしてきたのではないかと思う。良い風が吹いて、彼女が書きたいものを書くことができる場所が見つかればと、暁斗は祈るような気持ちになった。 「あなたがこの件をもう忘れたいと思うならいいんですけれど……あなたが載せたいと思っていたものを読みたい」  佐々木は暁斗の言葉に意外そうな表情になり、すぐに頷いた。 「データが自宅のパソコンなので、帰ることができたらすぐに送ります」 「それ以外でも助けになれそうなことがあれば……もう一度渡しておきます」  暁斗は名刺ケースを出して、その中の一枚を彼女に渡した。今日は彼女は紙片にゆっくり視線を落として、ありがとうございます、と呟いた。その目にうっすらと光るものが浮かんでいた。 「桂山さん、出版社は決してあなたや高崎さんに謝罪をする気がない訳ではありません……ただそれを拒む勢力が今のところは強いんです、私は仲間に声をかけて私たちフリーが受けている仕打ちに関して一緒に声を上げたいと考えていますから、違う方向から援護射撃をさせてもらいます」  佐々木は大きくはないが力強い声で言った。 「だから諦めないでください、あいつらに謝罪させるまで……私も諦めないから」  暁斗ははい、と応じた。また一つ、他人の気持ちを背負う羽目になってしまった。もう本当に、自分だけの話でなくなってしまったと思うと、少し笑えた。 「どうかなさいましたか?」 「いえ、私は自分が同性愛者だとはっきりしてから実は間もないんですが……認めてから人生がすっかり波乱含みになってしまって」  暁斗が自嘲気味に言うと、藤倉と佐々木が小さく笑う。 「桂山さん、それはあなたの人生が新しい……あるいは本来の軌道に入った証拠です、そういう時に人は忙しくなるし困難にも見舞われて混乱するんですけど、地が固まる前の雨なんです」  藤倉も佐々木の言葉に同意するように頷く。暁斗は佐々木に薬を渡す彼を見上げた。 「先生にもそんなご経験が?」 「私は研修医だった頃に診療科を変更しました、一から勉強し直すことも多くて大変な目に遭いましたよ、価値観が変わりました」  暁斗は感心してへぇ、と声を上げる。何かやけに和やかな空気が、夕刻の医務室に広がっていた。窓の外が暗くなってきたので、藤倉が明かりをつけた。  佐々木啓子は髪を整えてから医務室を出て、藤倉に伴われて正面ではなく裏の通用口から東京駅に向かった。彼女は何度も暁斗を振り返り会釈して去って行った。また会うこともあるかも知れない、その時はお互いに落ち着いていたらいいと思った。  暁斗が営業部のフロアに戻ると、出先から戻ってきた社員数人が帰る用意をしていた。 「課長、とんだ来客だったらしいですね」 「うん、和解を見て解散した」  おおっ、と部下たちは大げさにどよめいた。 「ご飯食べて帰りませんか、明日に響かない程度に酒入れて」  部下たちのほうから声をかけてくるのは珍しい。暁斗は一瞬きょとんとした。 「彼氏と約束があるならいいですけど」 「いや、無い……うん、行くか」  暁斗は鞄をデスクに置いて、細かいものを詰め込み、パソコンの電源を落とした。 「課長の彼氏の話聞きたいっす」 「美形なんでしょ、面食いだなぁ」 「え……」  自分が面食いなんて思ってもみなかったので、暁斗は驚く。 「別れた奥様も美人だったって専らの噂ですし」 「あ、まあ彼女はきれいな人だったけど」  暁斗はエレベーターの中で散々ネタにされながら思う。奏人に初めて会った時、きれいな子だと感じて、思えば一目で気に入った。しかし皆が(はや)し立てるほどの美形だとは思わない。彼は纏う雰囲気が静かなせいか、地味な印象があった。ディレット・マルティールのスタッフ紹介のページを見ると、奏人と同じゴールドクラスの男性たちはやはり皆華やかで、シルバークラスのスタッフにもモデルと見紛うような美青年がいる。そこに混じると奏人は、好みはあるだろうが、新規客が写真を見てこの子だと一発で決めるような、目を引くタイプでは無さそうに思える。  部下たちに店を任せて、会社を出てゆっくり歩く。佐々木啓子は無事電車を乗り継いだだろうか。奏人は仕事を終えて、夜のスタッフに変身するために、一度神楽坂に帰っただろうか。――見上げた空には星が浮かび始めていた。
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