9月 16

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9月 16

 有名企業2社が連名で、大手出版社に記事の内容に対する大々的な抗議をおこなったニュースは、人々の記憶から薄れ始めていた性的マイノリティへの差別記事事件を改めて思い出させ、短い時間ではあったが複数のワイドショーで取り上げられた。元々廃刊になった写真週刊誌が政治家や芸能人から毛嫌いされていたこともあり、わざとスキャンダラスに書いて発行部数を伸ばそうだなんて時代遅れですよねと、ワイドショーの出演者がこぞって出版社を批判した。下手をすると、記事を掲載した女性週刊誌が休刊に追い込まれるだろうとのコメントもあった。  勝ち(どき)をあげた訳ではなかったが、時期を同じくして、仮称性的少数者のための相談室ニューズレター第1号がA4カラー2ページで発刊した。暁斗と大平で各部署に直接配布して回ると、割と注目してもらえた。 「桂山さんもすっかりカミングアウトしたゲイ活動家ねぇ」  エレベーターのボタンを押して大平が笑う。暁斗は台車に手をかけたまま、うーん、と唸る。 「これは山中さんの役目のような気が……」 「山中さんもそのつもりでいたんでしょうけど」  桂山課長の彼氏が殴り込みをかけてきて、抗議文を出さないなら課長を自分の会社にヘッドハントすると専務たちを脅したという噂は、あっという間に社内に広まった。奏人がその容姿に見合わない大胆な行動を取ったことが、噂をより面白おかしいものにしていて、そこらじゅうの部署から彼氏を連れて飲み会に来いと誘われ、暁斗は困っている。 「私も高崎さんとあの部長さんともっとお話ししたいな」 「大平さん転職活動するつもり?」 「前向きに検討するわよ、うふふ」  最近すっかり馴染んでしまった人事部のフロアに着き、人事課の部屋に台車を押しながら入ると、扉に一番近いデスクに座る男子社員がこんにちは、と笑顔で応じた。 「桂山課長、退職願を取りに来られたんですか?」 「それなら俺じゃない、大平さんだ」  男子社員は大平さんも? と笑った。 「それはまた後日として、ちょっとしたチラシを刷ったから()かせてください」  大平はれっきとした逐次刊行物なのに、チラシなどと言いながらニューズレターの束を取り上げた。周りに座る社員たちが何、と遠巻きに見る。暁斗は一人ずつにニューズレターを手渡していった。 「よろず相談承るよ」  暁斗は同性愛者だけの相談室ではないことをアピールする。若い社員たちが紙面に視線を落として、似顔絵つきのメンバー紹介に目を通して笑う。 「初回特典無いんですか?」 「基本いつも相談は無料だけど」 「例えば桂山課長の彼氏も来てくれるとか」 「来るわけないだろ」  奏人は魔物らしく、その姿を目にした沢山の社員に強い印象を残したらしかった。暁斗のファンの女子社員たちは、(かな)う訳がないと言って泣いていたとかいないとか、よくわからない話が伝わってきていた。 「来て欲しいわよねぇ」  大平まで彼らの話に乗っかってくる。 「確かにあの子癒し系だからこういうの向きですよ、でもタダ働きはさせられません」  ああ、癒し系なんだ、と溜め息のようなものが周りから漏れる。 「そうやって真面目に考えつつ惚気てる桂山課長が好き〜」  若い女子社員に言われて、暁斗はええっ、とつい声を上げた。 「はいはい桂山さん、昼前の企画1課と同じ流れになってきたから退散しましょ」  大平の言葉が助け船になったとも思えなかったが、とにかく皆にニューズレターを配って人事部のフロアを出た。午前中、企画部のフロアに行くと、いないと踏んでいた山中が1課の部屋にいたせいで大変だったのだ。色男が来た、から始まり、散々暁斗はおもちゃにされた。名誉毀損で訴えてやりたいほどである。山中はあの日会議室にいなかったことを一生の不覚だとその場にいた部下たちにぶち上げ、音声も残していなかったのかと暁斗と大平を大仰(おおぎょう)に責めた。  山中はレディたちにも配りたいと言って、午後から女子大に持っていくために30部ほどニューズレターを受け取った。大平は社外に配布することも考慮し、社員向けの他に2000部印刷していた。奏人の会社にも数部送り、営業が話のネタに持ち歩けば、あっという間に(さば)けそうである。  自分の外回りを解禁するという話がある訳でもなく、出版社が西澤と奏人に謝罪する確約もない。しかし暁斗はすっきりした気持ちになっていた。何かひとつ、大きな山を越えたような気がしていた。奏人や、周りの人達のおかげで。  今月は結局毎週奏人に会うことになり、暁斗は素直に嬉しく思っていたが、客とスタッフとして池袋で会うのは今日が最後という事実に、少ししみじみとしてしまう。  駅の西口を出て、学生時代から馴染んでいる池袋の雑踏に足並みを揃えていると、不意に後ろから肘を掴まれた。驚いて振り返り、そこに愛しい姿を認め、暁斗は足を止めた。 「こんばんは、少し早いですね」  奏人は暁斗を人の流れから避けようとしながら、笑顔で言った。 「あ……こんばんは」  暁斗は何故か後が続かず、一人で困ってしまう。奏人は少し暁斗の顔を黙って見つめたが、ずっと口許に笑いを浮かべている。 「奏人さん、この間は本当にありがとう、おかげで副社長が動いてくれて社内でもだいぶやりやすくなった」  暁斗は道端でこんな話をする自分は、やや舞い上がっていると感じたが、奏人も目を見開いてからくすっと笑った。 「桂山さん、あのことでもう3回はお礼を言ってくれてます」 「でも直接言うのは今が初めてだ」 「本当に僕は何も……とにかくもう行ってしまいましょうか、立ち話も何だから」  奏人はカフェの角を迷わず曲がり、脇道に入る。夜になると冷えるようになったので、彼は黒いコートを羽織っていた。夜の仕事の制服のような黒ずくめの格好を見るのも、今日が最後ということらしい。  暁斗は道に面したホテルの入り口の前でふと足を止める。初めてここに来た日、自分と一緒に入るのを見られて困るようならと、奏人はこのホテルに別の入り口があることを教えてくれた。いつもそちらから入り中で落ち合ったが、今日は奏人と一緒に一番近い自動ドアをくぐった。……誰に見られても困ることはないから。奏人は暁斗の思いを察したのか、ドアが開く時に暁斗を見上げてちょっと笑った。  建物の中に視線を戻した奏人は、数歩進んで小さく言った。 「あ……改装するんだ」  部屋の写真が並ぶフロントの(そば)に、でかでかとお知らせが貼ってあった。10月末に一度閉館して、半年かけて部屋を全面改装するらしかった。そのせいでもないだろうが、今日はよく部屋が埋まっている。暁斗の行きつけの部屋はいつも通りやはり空いていて、奏人が小さく笑いながらパネルの横のボタンを押す。コトン、と音を立てて、鍵が落ちてきた。 「改装したらこういうお部屋が無くなっちゃうかも知れないですね」  鍵を取って奏人は言い、暁斗を促して廊下を進んだ。 「普通っぽい部屋もあった方がいいってアンケートに書いておこうかな」 「改装が済んだらまた一緒に来ましょうか?」  奏人の言葉に暁斗は少し驚き彼を見た。 「気分が変わるからたまにホテルを使う夫婦って結構いるでしょう? お風呂も広いし」 「あ、なるほど……」 「僕はここが思い出深い場所になったからまた来たいな」  奏人は笑いながら部屋のドアの鍵を開けた。暁斗もそうだね、と頷いた。あの寒い日、がちがちに緊張してこの部屋に入った。人生が大きく変わった場所だった。大げさでなく、そう思った。
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