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10月 1-②
「何の話ですかね」
天気も良くないこともあり、空いた喫茶店にいたのは数人の営業中らしきサラリーマンばかりである。山中の前に座り、暁斗がコーヒーを頼んでから訊くと、別に、といういい加減な返事が来た。暁斗はついムッとした。
「いや悪い、ゲイ語りだ……先週隆史に久しぶりに会えてさ」
そんな話をわざわざしたいのかと、暁斗は拍子抜けしながら、先輩の話に耳を傾ける。山中が贔屓にしているディレット・マルティールの隆史は大学4回生で、風俗バイトをしばらく休み就職活動に勤しんだ結果、複数の会社から内定を貰ったらしい。なかなか優秀である。
「1年付き合ってやっとチューさせてくれた」
「チューって……唇に?」
山中は笑顔で頷いた。暁斗はいろいろな意味で目を瞬いた。
「クリスマスは拒まれたんだ、お客様とキスはしないことにしてるんです、とか言って」
山中が隆史の口調を上手く真似ていたとしたら、割と可愛らしい感じの子なのかも知れないと思った。しかも山中はいつになく嬉しそうだ。
「でもさせてくれたんですね」
「うん、客としないんじゃなかったのかって少し意地悪を言ってやったら、その方がいい、自分がいいと思う人にだけに許すものだって初めに教わったらしい……奏人からな」
そう言えば奏人は、隆史の一番初めの教育を担当したと話していた。暁斗は胸のうちで首を傾げた。奏人は初めて会った日、帰り際に言わなかったか、今度は唇にキスしてくださいね……と。
「そうなんですか」
としか暁斗には答えられない。山中はすぐに不満気な顔になった。
「おまえいつから奏人とチューしてる?」
「それ聞いてどうするんですか」
コーヒーがやって来たので、暁斗は少しほっとする。この店のコーヒーは久しぶりだった。山中はコーヒーに砂糖を少し入れてから、低く言った。
「吐け」
「そんな……山中さんより早かったとしか言いようが無いです」
暁斗はコーヒーを飲ませてもらえない状況に陥る可能性を鑑み、急いでカップを取り上げる。
「後輩にもったいぶれと教えておいて、自分はとっとと客にチューしてるとかおかしいじゃないか」
なぜ奏人が非難されなくてはいけないのかさっぱりわからない。暁斗はゆっくりコーヒーを味わい、わざと気を持たせてやった。
「いやまあご覧の通りなんじゃないですか? 俺奏人さんに比較的早くから気に入られてますから」
「ほんとムカつくなおまえ」
「比べても仕方なくないですか……というか隆史くんだって山中さんのこと気に入ってるってことなんですよね」
山中はコーヒーカップを手にしたまま、うーん、と唸った。
「俺最初、指名を固定する気無かったんだよな、毎回かわいい子が来てくれて楽しかったからさ……それこそそのうち奏人も指名してたかも」
「つまり隆史くんを山中さんも気に入ってるんですね」
「笑うくらいどんくさかったんだよ、指名した時にまだまだ慣れてない子だからって念押しはされたけど……でも一生懸命なのが何か可愛いし、学費払うためにやってるって健気なこと言うし」
暁斗はつい笑ってしまった。そこそこ熱を上げてるんじゃないか。ディレット・マルティールは、魔物の棲家らしい。神崎綾乃が厳選した気立ての良い美青年たちが、男どもを甘美な罠にかけるべく待ち構えている、美しい魔宮。
「奏人って10こ下だっけ? 隆史なんか息子でもおかしくない年齢だろ、でももうすぐ大学卒業してデリヘル辞めたら顔が見られなくなるなと思うと……やや傷心」
「そう言ってあげればいいと思いますよ、喜ぶんじゃないですか……あちらにしてみりゃ山中さんは人生の先輩でもあるんだし、頼れる人とデリヘル卒業した後も繋がってるほうが心強いでしょうし」
山中は暁斗の言葉に、そっか、と小さく頷いた。これまで見たことのない、子どもみたいに楽しげな彼の顔を見て、自分まで楽しい気分になり、こんな話をする相手に選んでくれたことに暁斗は感謝したくなる。
「まあでも隆史がもっと若くていい男と巡り合ったら……」
「大人の男として見送りましょう、俺だってそういうことになる可能性あるんですけど」
山中はふっと笑った。
「奏人は大丈夫だろ、長く付き合う気のない相手の会社に乗りこんできてそこの専務を脅したりしないよ」
脅したのは総務部長なんだけどなぁ、と暁斗は苦笑する。しかし暁斗は、奏人が自分の全てを晒す覚悟であの日やって来たことを知っている。藍色のスーツに身を包み、凛とした姿で黙って座っていた奏人が醸し出していたのは、ある意味脅す以上の気迫だったかも知れない。
「……それで山中さんの話したいことって隆史くんのことだったんですか?」
「うん、スタッフとマジで仲良くなったことに関してはおまえのほうが先輩だから」
そうですかね、と暁斗は応じた。何となく、相談室に誰か来たら、こんな感じでいいのだろうかと感じる。
「……企画と打ち合わせするって言って出てきたんで、その話もちょっとしていいすか?」
山中は暁斗の顔をしばし見つめて、微笑した。
「何その生真面目感」
「だって恋バナしてコーヒー飲んでたなんて言えないでしょう」
しゃあないな、と言いながら、山中は例のコラボシリーズを段階的に発売する計画であることを話し始めた。反響が大きいのは喜ばしいが、工場が間に合わないようなことになるとまずいので、現時点で注文を検討してくれている人にはまず受注の形を取りたいという。
「小出しにすると」
「そうそう、あまり早くにことを進めるとレディたちが置いてけぼり食うのも可哀想だし」
なるほど、卒論のネタにする子もいるだろう。産学連携の難しさでもありそうだ。
「おまえ一回大学来いよ、先生がたも何げにおまえのこと指名してるし」
指名という言葉に暁斗は苦笑した。
「ホストですか」
「指名されるうちが華だぜ」
山中は笑って、ちょっと息をついた。
「この半年、ほんとおまえに持っていかれたわ……おまえのこと舐めてた」
意外な言葉に、暁斗は思わず何を? と訊いた。山中は苦笑する。
「桂山がトップスタッフだってこと」
山中の言いたいことがわかるような、そうでないような感じである。とにかくここのところ、目立ち過ぎたのは反省が必要そうだった。
「俺にとっては山中さんは新入社員の頃からずっと尊敬と羨望の対象でしたよ」
暁斗は目の前の先輩に対し、ずっと抱いている気持ちをややマイルドに表現してみた。
「今俺が会社でゲイ語りしても笑って許してもらえるのも……山中さんのこれまでの行動あってのことですし」
山中は照れ隠しのように頭を掻いてからコーヒーを口にした。
「まあ山中さんを頼りにしたらいいって言ったのは奏人さんなんですけど……」
「奏人は見る目があるな、愛してるって伝えといてくれ」
山中の軽口に、暁斗もはいはい、と応じる。おかしな気分だった。去年の今頃はここでこんな風に一緒にお茶を飲んでいることなど到底想像できなかったし、彼に対しては(今も多少その気持ちは無くはないが)合わないし好きでないという気持ちも強かった。
マイノリティとして同類の人が身近にいるのは、やはり心強い。有り難いことである。
「俺は山中さんが隆史くんと末永く仲良くして、お父さんとそのうち和解できることを祈ってますよ」
「ありがと、おまえのことも愛してる」
「間に合ってるんで結構です」
こんなところを会社の誰かに見られたら、やっぱり仲良しなんじゃないですかと言われるのだろう。微妙なところだと思いながら、暁斗はコーヒーを飲み干した。
その時、店のドアにぶら下がっている鐘が重い音を立てた。そちらを向いていた山中があっ、と声を立てたので、暁斗も振り返る。
「何だ、勤務時間中に2人して油を売るとはけしからんな」
たたんだ傘を傘袋に入れながらこちらに真っ直ぐやって来たのは、出先から戻ってきた様子の岸だった。2人して腰を浮かせて上司を迎える。
「お疲れ様です、桂山がここのコーヒーを飲みながら奏人の話がしたくて仕方ないと言うんで」
「はあっ⁉」
山中の言葉に暁斗は叫んだ。岸は苦笑しながら、暁斗の横に来る。
「まだ降ってますか」
「もう止みそうだ、今ニュースが入ってきたから相談室の面々に伝えようと思ったら君らの姿が見えた」
岸はコーヒーをオーダーした。空になっているカップを見て、岸が暁斗に何か頼まないかと訊くが、丁寧に断る。
「数人のフリーの記者が例の出版社を訴えた、内容は記事の無断改竄、パワハラにセクハラ、理由不明の報酬減額……全く酷い話だよ」
佐々木啓子が動いた。暁斗は自然と顔がほころぶのを感じた。
「あの業界はそれが当たり前だったんじゃないですか、訴えられてどうしてだ、とか言ってそう」
山中が唇を歪めて言った。岸が暁斗に尋ねる。
「暁斗に土下座しに来た女性記者も原告団に入ってるのかな」
「はい、たぶん……思ったより早かったですね」
「優秀な人権派弁護士がついたらしい」
良かったと思う。裁判に時間は取られるが、きっと佐々木の名誉は回復され、仕事に復帰できるだろう。
「出版社潰れるんじゃないですか」
山中の言葉に、岸はあるいはなぁ、と応じた。最近はどんな業種のどんな規模の会社でも、小さなきっかけで坂道を転げ落ちるように業績が悪化してしまう。
「だとしても仕方ないな、暁斗の録ってた音声を聴いて心底ぞっとして腹が立ったよ……そんなことが罷り通ってるとはな」
岸はやってきたコーヒーをブラックのまま、美味しそうに口にした。不愉快な話題を忘れようとしているように見えなくもなかった。
「それで今日の相談室会議は何を決めたんだ」
「次号のニューズレターの編集とメールでの意見について話し合いました、議事録を作った方がいいですね?」
岸の問いに山中が淀みなく答える。岸はそうだな、と頷いた。
「全国の支社に呼びかけたほうが良いという話になりました、本社だけ良くてもどうなのかと」
「確かにそうだ、立ち上がりで一気に広げられればそれに越したことはないだろう……ちょうど良かった、名古屋支社の組合主催の集まりでほづみんに話して貰えないかって打診が来ているらしいぞ」
岸の話に山中は俺ですか? と目をぱちくりさせた。
「そうだ、新商品の話のために近々行くことになるだろ? その時にでも1時間ほどお願いできないかと」
名古屋支社では1人の若い女子社員が性同一性障害であることをカミングアウトして、男として働きたいと申し出たのでちょっとした騒ぎになった。それをきっかけに性的少数者について学ぼうという気運が高まっており、その彼女とゲイをカムアウトして久しい山中が、研修の一環で質疑応答つきで話すという企画が持ち上がっているらしい。
「社内の人間に話させて講義の礼金を浮かせようという魂胆が見え見え……」
山中は苦笑したが、まんざらでもない様子だった。
「名古屋で相談室を作る足掛かりになるなら大事なミッションだ」
「日が合えばやりますよ、人事に言えばいいんですか?」
自分に持っていかれたなどと言うけれど、山中はやはり暁斗のずっと前を歩いているのだ。暁斗ならほとんど知らない人たちの前で、15分くらいの仕事のプレゼンならともかく、1時間近くテーマを決めて自分のことを話すなんて到底できない。彼は今も暁斗にとって、眩しい先輩だった。
岸がコーヒーを飲み終わると、3人揃って店を出た。雨は止み、雲の間から陽が差し始めている。暁斗は奏人からプレゼントされた傘を持っていた。空を見上げて、少し冷えた空気を胸に吸い込みながら、もう少し傘の出番があっても良かったなと思った。
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