10月 3-①

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10月 3-①

 奏人は3人の客と会った後、21時半過ぎに暁斗のマンションにやって来た。彼が夕刻から、ほとんど何も口にしないでぶっ通しで働いているのを知っているので、暁斗は昨夜の居酒屋で最後に出てきた焼きおにぎりを真似て作ってやった。自分も夕飯の時に食べた豚汁を一緒に出すと、奏人は嬉しそうに、いただきますと言って礼儀正しく手を合わせる。 「暁斗さんを嫁にする僕は幸せ者だよ」  奏人の言葉に暁斗は笑う。昨夜岸と話していた時は、2人して奏人を暁斗の嫁扱いしていたからだ。 「美味しいね、良く作るの?」 「いや、昨日飲んだ店で作り方を訊いたら親切に教えてくれて……上手く出来てよかった」  昨夜は清水が無事に帰宅できたかどうか、わざわざ本人に確認していないが、心配なところである。自宅の方向が同じなので、山中がタクシーに一緒に乗せたが、かなり酔っていたので、そのまま山中のマンションに転がり込んでいるかも知れない。  そんな話をすると、奏人は焼きおにぎりを頬張りながら、盛り上がったんだね、と笑顔で言った。奏人のところには、出版社の取締役の一人と雑誌の編集長が訪れて、直接謝罪を受けたという。昨夜勝利の祝いをしたが、遅い目の時間に1人だけ客の予約があったので、奏人は1時間で席を外した。 「そう思うと僕はずっと副業をしてたから……会社での付き合いが良くなかったかなぁって」  暁斗とて飲み会はともかく、その他の社内のレクイベントなどにはほとんど参加したことがない。 「私生活が謎だと思われてるっぽいね」 「そう言われたこともあるよ、何のことは無くて風俗バイトして……家で本に埋もれてただけなんだけど」  奏人は豚汁に口をつけて、ほっとしたように息をつく。その様子を見ているだけで、暁斗は幸せになる。積極的にカムアウトするつもりがなかったのに、暁斗の考えに沿ってくれた奏人にしてやれることは、暁斗にはあまりないと思う。だからせめて、彼が安らげる場所を作りたい。西澤遥一が亡くなった時、奏人は暁斗の許に庇護を求めてやって来た。あの時多少は彼の期待に応えることができたのだと思う。これからも、自分の許に来れば安心できると選んでもらえる者でありたい。  奏人は夜食をきれいに平らげて、使った食器を手早く片づけ、リビングで暁斗の横に座る。明日は完全に休みなので開放的な気分になっているのだろう、ビールを出すと喜んだ。明日は何をして過ごそうかと話し合うと、昼間に一緒に出掛けたのが、お盆に乃里子と晴夏がこの部屋に来た翌日だけだとわかり、笑った後にしみじみとしてしまう。 「……これからいろんなところに行こう」  暁斗は奏人の顔を見て言った。奏人は頷く。 「もしかしたら来年の2月か3月辺りから……あっちで勉強を始めることになるかも」  奏人は暁斗の目を見たまま、意を決したように言った。そんなに早く? 暁斗は驚く。奏人が留学を計画しているのはわかっていたし、一緒に暮らすのは彼の帰国後と考えていたが、彼がディレット・マルティールを辞めてから出発するまで、お互いの家を往き来して半同棲のようにしたいと暁斗は思っていたのである。 「それで4月から大学に入れてもらって……2年か2年半」  アメリカの学校は9月が新学期の開始だが、大学院は半期ごとに入学や卒業ができるらしい。  かつてアメリカで奏人を指導していた教授は3年後に退官を控えていて、奏人がすぐに来るなら修士論文を仕上げさせてやりたいと話しているらしかった。西澤の葬儀の後に奏人に声をかけてきた研究者も、このアメリカ人の教授と繋がっているのだという。 「きっと最短で落ち着いて論文を書くには最高の巡り合わせだと思う」  奏人は少し俯いた。先月末も感じたが、その横顔を見ると、目の下にうっすらとくまをつくっており、やはり疲れているようだった。例の記事については一応の決着を見たが、奏人には将来のためにしなくてはいけない、もっと大切なことが山積しているのだ。 「もちろんあなたが一番良いと思う道を選べばいい、俺はあなたが安心して帰って来れる場所を準備するから……今の仕事はどうするの?」  暁斗の問いに、奏人はうーん、と首を傾げる。 「辞めてしまうつもりでいたんだ、でも今回のことで迷惑かけたから恩返しがしたいような……休職扱いにしてもらえないか訊いてみようかなと思ってて」 「2年は難しいかな、でも奏人さんは優秀な社員だから、帰国してすぐに教える仕事が見つからない時はパートタイマーで使ってもらえないか?」  なるほど、と奏人は言った。 「優秀かどうかは微妙だけど」  奏人の切れ上がった眉が八の字になるのを見て、その愛嬌に暁斗はつい微笑む。 「大学で教えてる人って非常勤が多いんだね、最近まで知らなかったよ」 「そうなんだ、常勤の少ない枠の奪い合いだからね、運も良くないと准教授になれない」  シビアな世界だと思った。その中で、自分の強みを発揮して、かつ学生にも教えていく。暁斗の想像もつかない世界である。 「SEしながら教えたり研究したりっていうのも面白いかな」  奏人は明るく言った。不安があまり無いのか、強がっているのか、暁斗には判断がつかなかった。 「落ち着いたら一緒に暮らそうって暁斗さんが言ってくれなかったら決断出来なかった、ほんとに感謝してるし……待たせて申し訳ないです」  奏人はビールの缶をテーブルの上に置き、暁斗の肩にそっと(もた)れかかってきた。暁斗は距離の近さに今更少し戸惑いながら、その形の良い白い額に唇を寄せる。 「うん、頑張って待つよ」  暁斗の唇が触れると、奏人は(わず)かに肩を動かした。可愛らしいなと思う。 「浮気しちゃやだよ」 「……へ?」  奏人の口から出たその単語が、これまで自分にとって全く関係のないものだったので、暁斗はついおかしな声を上げる。 「あ、暁斗さんに限ってそれは無いか……」  奏人は暁斗を覗き込んで、呟いた。 「でも僕より美味しい餌を出してくれる人に出会ったらわかんないよね?」   奏人の口調は笑い混じりだったが、浮気の疑いを口にされたことと馬鹿な犬のような例え話をされたことで、ついムッとしてしまう。 「あっごめんなさい、嘘です……」  黒い瞳から笑いが消えた。本気で取りなしている奏人の様子が笑えたので、暁斗は頬を緩めた。奏人の両手が頬を包む。 「奏人さん以外の人にこんな気持ちになることが想像できないよ」 「僕が浮気しないか心配じゃない?」  暁斗は頬を挟まれたまま、首を傾げる。それも考えたことが無かった。 「それは心配しない、でもあなたが異郷で一人で泣くようなことがないかは心配かな」  異郷、と奏人は言いながら笑う。そしてやや自嘲するような表情になった。 「僕にとっては東京だって異郷だよ」  その表情は美しいが、寂しさが淡く刷かれたようだった。 「……そうなの?」 「かと言って帯広が故郷だとも思ってないんだけどね」  暁斗は奏人の孤独感を目の当たりにしたような思いになった。右の頬を包む彼の手の甲に、自分の右手を重ねた。細くて長い指を撫でる。ならば、自分が奏人にとって故郷と呼べる場所を作ればいい……暁斗は考える。 「毎日メールして週に一回テレビ電話して……他に何が出来るかな」 「手紙も書くよ、筆跡を見るのって結構その人を感じることができるだろ?」  暁斗は年賀状を見るのが好きだ。自筆の部分があれば、顔を合わせなくなった人の様子が伝わってくるからだ。奏人は同意を示し、無邪気に頷いた。 「じゃあ僕は絵手紙も送るね」 「きれいに取っておくよ、帰ってきたらそれで個展ができる」  暁斗の言葉に奏人は唇をすぼめた。驚いたり感心したりした時に、たまにこんな表情を見せてくれる。 「暁斗さんはプロデューサーだね、そんなこと思いつかなかった……でも絵も、半強制的って言葉は悪いけど、それくらいして描かないといけないんだよね」 「……あまり自分を追いこまないで」  暁斗はつい言ってしまう。勉強も絵も、崖っぷちに立つ気持ちで取り組まねばならない場面はあると思う。しかしこれまでの付き合いで、それさえも奏人が普通の人以上にやりかねないことが容易に想像できた。聖人が神の声を聴くために、自らに絶命を辞さないような苦行を課すように。  奏人は僅かに黒い瞳を潤ませていた。暁斗は彼の両手を自分の手で包み込む。 「どうしても耐えられなくなったら飛んで行くよ、できない距離じゃないんだから……そう考えると気が楽じゃない?」  暁斗は自分自身に言い聞かせていたのだが、奏人もうん、と答えてくれたのでほっとする。今夜は奏人を良く眠らせてやったほうが良さそうだった。
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