10月 3-②

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10月 3-②

 翌朝、休みにもかかわらず、やはり暁斗は6時半に目を覚ました。習慣のように目を開けないまま枕元の棚に手を伸ばし、触れたのが自分のものでないスマートフォンだったので少し驚く。目を開くと(そば)には、やや身体を小さくして眠る奏人がいた。昨夜暁斗が風呂から上がると、彼はぐっすり眠っていて、身体に腕を回すことも(はばか)られるように感じた。とはいえ暁斗の気持ちは穏やかで、こんな狭くて汚い場所でも安らかに寝息を立ててくれる奏人の存在に癒された。  昨夜、留学が早くに始まりそうだという話に戸惑ったが、期限が明らかなら待つことができると思う。もちろん、実際奏人が旅立ってしまえば、いろいろ身を切られるような思いはするだろうが、世の中には一緒にいたくてもそうできない人たちが沢山いる。最近は改善されたが、暁斗が入社した頃は、先の見えない単身赴任を強いられている社員が沢山いた。暁斗の課にも、大阪に妻と娘を残して独りで東京に来ていた先輩がいて、近い将来に管理職として戻る目標を支えに頑張っていた。彼は今大阪支社の営業部長だが、5年は単身赴任をしていただろう。それを思えば、奏人がアメリカに行くのはその半分の時間だ。何とかなる。 「……とさん」  傍で眠る奏人が暁斗を呼んだようだった。暁斗は彼を覗き込んで、まだまぶたが瞳を覆っているのを確認する。手を伸ばして、そっと柔らかい髪に触れた。無防備に眠る姿が愛おしい。未だに何故だかわからないが、自分のところに羽を休めに来た天使……あるいは可愛らしい魔物。 「……暁斗さん」  今度ははっきりと呼ばれた。暁斗はどうしたの、と小さく応じた。奏人は半分目を開けて暁斗の姿を確認すると、手を伸ばして抱きついてきた。ああ、可愛らしい。暁斗はその温もりに痺れてしまう。こんな朝を迎えることができること自体が、そもそも幸福過ぎた。 「……好き」  小さく奏人が言う。半ば寝惚けているようだが、そう言われるのはやはり嬉しい。優しく、しかししっかりと奏人の華奢な身体を抱きしめた。暁斗は奏人の愛撫に溺れて、それまで知らなかったところに昇りつめてしまうのも好きだが、こんな風にただ、お互いの存在を確かめ合うだけのために触れ合うのも好きだ。かつて蓉子に対しても同じように温もりを求めることはあった。でも相手が奏人だと、満足感が違う。自分の深いところに奏人の何かが……優しく熱いものが沁み入ってくる感じがする。そしてそれは、暁斗を癒し、勇気づけるのである。 「暁斗さん」  奏人はか細い声を発した。 「まだ早いよ、抱いてるからもう少し眠るといい」  自分の希望でもあった。ずっとこうしていたかった。 「……このまま暁斗さんの毛穴に浸透してしまいたい」  奏人は暁斗の胸に顔を埋めたまま、可笑しなことを口走った。 「あなたが浸透してしまったら俺は何処を探したらいいのかな」 「うーん……」  奏人は言葉を探している様子だったが、あまりに返事が遅いために少し身体を離して顔を見ると、僅かに口を開けて、また眠っていた。まるで子どものようだった。暁斗は思わず小さく笑う。  奏人との関係は、本当に不思議だと思う。こんな時、暁斗は奏人を可愛いと感じているが、暁斗がへたばって奏人に甘えている時や、(もてあそ)ばれて自失寸前の時は、彼が自分を可愛いと思っている節がある。いとも容易く立場を入れ替えられるので、もしかすると立ち位置なんて決めても意味が無いのではないかと思う。お互いに相手を嫁なんて言っているのが良い証拠だ。  朝の空気はやや冷たかったが、お互いの温もりで十分暖かい。布団を直すと暁斗も眠くなってきて、奏人を抱いたままうつらうつらする。しばらくすると夢を見た。奏人が目を覚ましてじっとこちらを見つめていたかと思うと、ゆっくりと唇を重ねてきた。柔らかくて熱っぽく、湿り気を帯びた感触が生々しく、夢の中なのに快感で背筋がぞくぞくする。昨夜から一緒にいて、夢でもこんなことをするなんて、どれだけ飢えてるんだ。暁斗は自分に呆れてしまう。奏人は唇の先だけ少し触れ合わせたかと思うと、次は暁斗の唇を包み込んで味わうように吸う。気持ちよくてたまらない。 「……奏人さん」  声が出て目が覚めた。奏人の黒い瞳が視界に飛び込んでくる。その距離の近さに驚き身体を反射的に起こそうとすると、奏人はそれを制するように身を乗り出してキスしてきた。唇をしっかり重ね合わせ、しばらく動かない。暁斗はこれが夢なのか現実なのかわからなくなったが、本能的に上半身に乗っている奏人の身体を抱きしめる。 「……あなたとキスするの大好き」  奏人は唇を少し離してそう言ったかと思うと、またくっつけてくる。暁斗は頭の中を(とろ)けさせながら、山中の話をぼんやりと思い出す。お客様とはキスしないと言った、奏人が教育した後輩スタッフ。奏人は2度目に会った時に、彼からキスしてくれた。馬鹿みたいに泣いてしまった暁斗を慰めるためではあったのだろうが、気持ちのこもった口づけだったと記憶する。 「奏人さん」  何度目かに唇が離れた時、暁斗は一呼吸してから奏人に声をかけた。はい、と彼は生真面目な返事をしたが、すぐについばむようなキスをひとつする。 「隆史(たかふみ)くんに……自分がいいと思う以外の客の唇にキスするなって言ったの?」  え、と奏人は少し目を見開いた。彼にしては反応が鈍かった。少しの間を置き、うん、と答えた。 「僕たちはお客様に恋人だと思ってもらえるように接するのが基本だけど……仕事とプライベートの境界線を持たないと、けじめがなくなって逆に接客がだらしなくなってしまうから」  暁斗はふうん、と小さく応じた。 「キスはわかりやすい境界線で……もちろん唇にしてっておっしゃるお客様もいるから、対応はするよ」  好き嫌いが無く、いつも100パーセントで客に接すると評価されている奏人だが、意外な部分でクールなプロ意識を持っていることに少し驚く。 「でもそれが意外と少なかったりするんだ、それで新人には嫌なら唇にキスしなくていいって話してる」  奏人は至極真面目に答えた。そして訊いてきた。 「山中さん? 隆史とキスしたって?」 「うん、この間嬉しそうに話してて……何か奏人さんに愛してるって伝えてとか言ってた、どうしてだったか忘れた」  こんな話をしてもいいのだろうかと思いつつ、無責任に話す。 「山中さんが僕を? 何かな」  奏人は口許をほころばせ、続ける。 「隆史が山中さんを慕ってる感じは確かにあるね……ずっとお客様に対して固さが抜けない子だけど、そこを気に入ってる常連さんの1人が山中さんだと僕は認識してて」 「可愛いって言ってるよ、キスは前から山中さんから仕掛けてたみたいでようやく許してくれたっぽい」  奏人は楽しげな表情になり、それを引っ込めると、暁斗を見つめて、言った。 「可笑しいよね、平気であそこを咥える僕たちが唇にキスしないでって言ったりして」  明るくなった寝室の中で、奏人の姿は何処か(はかな)げに見えた。彼は確かに、夜に男たちをパラダイスに導き、朝になると消えてしまうファンタジーだった。暁斗はやけにそれを意識させられ、細い背中に回している腕に無意識に力が入る。彼が消えてしまわないように。 「奏人さんや隆史くんが口づけを大切にしていることをとやかく言う権利は俺には無いよ、俺はあまり今までキスすることにこだわりが無かったから正直よくわからないけど……」  上手く言えなかったが、そんなに良いものだと思っていなかったのは確かである。奏人と経験するまでは。 「奏人さんは随分早くから俺にキスしてくれたね、山中さんに言うとしつこく絡まれるから訊かれてごまかした」  そうなんだ、と奏人は笑い、悪戯っぽい眼差しを送ってから唇を重ねてきた。暁斗は押し寄せる甘い痺れに思わず目を閉じる。 「……僕はあなたにキスして欲しかった、いつもなら新しいお客様にそんなこと感じないのに」  奏人の指先が暁斗の唇の端を撫でる。胸がどきどきする。暁斗のほうからもっとして欲しいと言いたかった。 「暁斗さんは僕とキスするの好き?」  訊かれて暁斗は黙って頷く。 「山中さんに自慢したらいいよ、かなとは初日から俺にキスしたいと思ってたみたいだって」 「そんなこと言ったら……」  言い終わる前に唇を塞がれる。暁斗はこの優しくて甘い調教に夢中になる。さっきから舌を入れられてもいないのに、気持ちよくて身体が熱くなってきた。まるで奏人は口から魂を吸い出す妖怪だ。 「暁斗さんのそういう顔めちゃくちゃ好きだな、どれくらいでキスするのに飽きるか試してみていい?」  愛おしい妖怪の誘惑に抗えそうになかった。暁斗は何時間でもキスだけして過ごせそうな気がする。目覚めたときには冷えていた部屋の中の空気が、カーテン越しの朝日のせいだけでなく、僅かに温度を上げてきた。互いの唇の感触を長い時間をかけて確かめ合ったあと、奏人に言ってみる。 「これ飽きないよ、他に止めるきっかけを作らないと一日潰れるよ」  だよね、と言って奏人は楽しげに笑い、すぐに挑むような目になった。その力のある美しい瞳に、理性を瞬時に壊されそうになる。 「暁斗さんがキスだけでいってしまうか、空腹に耐えかねてお腹を鳴らしてしまうか」  結局のところ、暁斗次第のようだった。どちらにしても、あまり長い時間持たない気がした。奏人も気づいているはずだが、固くなり始めた股間に、彼は一切刺激を与えて来ない。なのに唇を弄ばれているだけで、そこにどんどん熱いものが集まってしまう。暁斗は早くも理性を手放しかけていた。今朝はこんな風になるつもりじゃなかったのにと、頭の片隅で思いながら。
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