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11月 1-②
朝晩の空気が明らかに冷えて、木々の葉が色づき始めた。そんなある日、暁斗は宇野から、社長が暁斗に来て欲しがっていると聞かされた、蒲田の金属加工会社に向かった。
暁斗たち営業課は、自社の商品を売るのが主たる仕事だが、部品の全てに国産のものを使う高級ラインの商品を支えてくれる会社と自社を繋ぐのも、大切な仕事である。今回の女子大コラボの新商品は、高級ラインに分類されているため、都内の複数の町工場に大口の仕事を依頼している。軟禁中だった暁斗は、その件に関する連絡を全て部下に任せていたが、ご指名を受けたからには顔を出さない訳にはいかない。果たして60代後半になる社長は、ベテラン事務パートの女性たちとともに、待ち構えていてくれた。
「少しご無沙汰しました、申し訳ありませんでした」
暁斗が頭を下げると、あまり町工場の人間らしくない優しい顔立ちの社長は、いやいや、と暁斗に椅子を勧める。小さいが清潔感のある事務所は、変わらなかった。彼はかつて、社員が痴漢の濡れ衣を着せられ、そのとばっちりでマスコミに振り回され苦労した経験がある。暁斗がマスコミのせいでしばらく苦境に立たされたことを知り、労うつもりで呼んでくれたようだった。
「大変でしたね、もう落ち着きましたか?」
社長に問われて、暁斗ははい、と言いながら苦笑を禁じ得ない。
「あの時の社長の心労が察せられます、私はまあ事実を暴露されただけですが、こちらは……そうじゃなかったですからね」
「本当に嫌な連中ですよ、面白ければ何でもいいんですから……面白がる人の品性もどうかと思います」
自分の苦労など、社長のあの時の憔悴ぶりと比べれば、どうということは無かった。それだけに、案じてくれたことが申し訳なかった。あの時濡れ衣を着せられた社員も、元気にしていると社長は教えてくれた。
「この間宇野さんがこれを置いて行ってくれまして、楽しく拝見しました」
社長がテーブルの脇に詰んである書類の束から、相談室の2枚のニューズレターを出した。暁斗は礼を述べる。
「あの記事を見た時にまさか桂山さんじゃないよなって笑ってたんですよ、でもこれを読んで、あれが桂山さんでゲイだったんだって……みんなでひとしきり驚きました」
「はい、確信したばかりのところを強引にカムアウトする羽目になってしまいまして」
コーヒーとお菓子を持ってきてくれた女性の事務員は、暁斗がこの会社に初めて来た日からずっと変わらず働いている。初め社長の妻だと思ったのだが、彼女には家庭があり、社長の幼馴染だと話してくれた。社長は独身で、何故家庭を持たずに来たのかを尋ねたことはない。
「山中さんはゲイだと存じ上げていたんですよ」
「そうなのですか? 今回の新商品の話の前に山中がこちらに伺ったことがありましたか?」
しかもそんなコアな話を山中が社長にしていたというのが、俄かに信じ難い。
「ええ、そちらが記念誌を作られた時に」
社長が微笑しながら話すのに、暁斗はああ、とやや高い声になった。4年前に会社は創業80周年を迎えており、会社の歴史を紹介するカラーの冊子を、広報課と企画課が作成した。記念誌は祝賀パーティの出席者や関係者に配布された。その中で取引先を紹介するページがあり、社内報でも特にその部分を「わが社を支える町工場」といったタイトルをつけて、写真つきでピックアップしたのである。
「山中さんに熱心に取材していただいたんですよ、そちらの記念誌や社内報を見たという人の問い合わせもいただいて、そのうちの幾つかは今も得意先になっています」
この会社は気の利いた、という表現がぴったりの、変わった形のヒンジやネジを作るのを得意としている。その頃得た得意先に、スポーツ用の車椅子を作る会社があるという。
「そうでしたか、お役に立って何よりでした」
「山中さんや、痴漢冤罪事件の時に……こんなことで取り引きをやめたりしないと約束してくださった桂山さんには本当に感謝しています」
暁斗は恐縮する。勧められたのでコーヒーに口をつけた。
「桂山さんが使われたデリヘル……ディレット・マルティールですよね?」
社長の潜めた声に、暁斗はガチャンと音を立ててカップを皿に置いてしまった。思わず顔を跳ね上げて、えっ、何ですか、と動揺しながら確認する。
「私もゲイなので」
苦笑気味の社長を見て、暁斗はあ然となった。そして山中の言葉を思い出す。
「山中さんにディレット・マルティールを紹介したのって……」
「はい、私です」
暁斗の視界の隅に、事務員の女性がくすくす笑う姿が入ってきた。彼女は、社長がゲイで家庭を持つ気が無かったことや、ゲイ専門のデリヘルを使ったことを知っているのだ。
「変なお話ですが、桂山さんや山中さんにちょっぴり報いることができて良かったと思っていますよ」
「いやまあ、それは、そうなんですが……」
「桂山さんはスタッフさんと個人的に親しくなさっていて、お幸せそうだとも伺いました」
社長の言葉に、暁斗は右手で思わず顔を覆った。宇野の軽口が恨めしい。いや、適当にネタにしておけと言ったのは自分だが。
「ああ、すみません、困らせるつもりはなかったんです」
「こちらこそすみません、ちょっとびっくりして……」
社長が困惑していることに、暁斗は焦る。取引先の相手に対する態度ではないと、気持ちを立て直すべくひとつ深呼吸した。
「失礼しました、取り乱しました……山中は私が仕事を取ってきた会社の人に繋いでもらったとだけ話しました、その人はカミングアウトしていないからそれ以上は教えてやれないと」
社長は暁斗の言葉に小さく笑った。
「お二人とも真面目なのですね、私は確かに大々的にカミングアウトしてはいませんが、彼女を含めて古株の社員は皆知っていますし……私をディレット・マルティールに繋いでくれたのも馴染みの同業者なんです」
社長は事務員の女性に目を遣りながら話した。彼女は電話に対応していた。
「私は蒲田生まれの蒲田育ちです、この近辺の中小企業のトップはほとんどが中学や高校の同窓生で……私が中学生くらいからおかまと言われていたことを知っている人も沢山います」
社長はありふれた身の上話のように柔和な口調で語る。暁斗は目の前に座る男性が、ずっと好奇の目に晒されてきたことを知り、同情を覚えると同時に、強い人だと感心する。
「……好きになった人はいないのですか?」
「スタッフさんに本気になった時期もありました、彼が恋人ができたと言って辞めるまでね……その子にそこそこ良い客だと思われている自信があっただけに切なかったですよ」
暁斗は、まあそれも美しい思い出です、と語る社長が意外に開けっ広げであることに驚いたが、同じ道を歩んでいたことを聞き、親近感を覚えずにはいられなかった。
社長はディレット・マルティールで、3年ほど前まで男の子を指名していたが、本人曰く、最近は歳のせいか、その気になれないらしい。山中に紹介したのは、社長が最後に使った頃だったという。
「気立てが良くて賢い子ばかり、どこから見つけてくるのか……不思議なクラブです」
暁斗は奏人しか知らないので何とも言えなかったが、きっと社長の言う通りなのだろうと思う。
「桂山さんが熱を上げるくらいだから、そのスタッフさんも良い子なんでしょうね」
「ええ……年内で辞めるんですよ、アメリカに留学する準備をしていて」
ほう、と社長は目を見開いた。
「安心して帰って来れるように段取りしながら待つつもりです」
「いやはや、桂山さんが女房役なんですね」
社長は楽しげに言った。相手が若く、可能性がまだまだあるのだから、それで良いと思う。会社に縛られ、真面目に働くくらいしか能の無い自分には、奏人のために環境を整えてやることは、大いにやり甲斐のある仕事だ。そう話すと、そんなもったいないことを、と社長が少し困ったような顔になる。
「桂山さんだって若い、パートナーに人生を捧げるような考え方はどうなんでしょう」
「私はただの社畜ですからね」
「……私はこの辺りの町工場では一二を争うインテリだと自負していますが……」
社長は冗談めかして言ったが、彼が偏差値の高い大学の工学部を出ており、その知識と人当たりの良さを特に先代に乞われて、この会社を引き継いだことを暁斗は知っている。
「桂山さんは読みやすくて的確な文章を書かれる、こういう形で会社以外でも自己表現なさるのも良いと思いますよ」
意外な言葉に、暁斗は返事ができなかった。社長はそんな暁斗を見て笑う。
「そちらの会社の工場の技術者さんと一緒にいらっしゃった時のことを覚えてませんか? 技術者さんが何を作って欲しいのかまではまあ良かったんですが、試作のチェックや納品のスケジュールの説明がよく分からなくて、桂山さんが整理してくださったんですよ……私にとってあれは翻訳レベルでした」
暁斗はその出来事を、もちろん良く覚えていた。技術者は優秀な人物なのだが、やや話が下手で、専門的な話以外は任せられなかった。その時も案の定、話が混乱しかけたのである。
「あの時はご迷惑をおかけしましたね、社長が気の長いかたで助かりました」
「いやいや、怒るようなことではなかったんですが……まああれを含めてこれまでのお付き合いでね、桂山さんは言葉を使うのが上手な人だと私は認識しています」
暁斗は恐縮する。奏人はニューズレターを読んで、暁斗さんの文章は好きだと言ってくれたのだが、言霊を操るレベルの奏人が言うことなので、軽いお世辞だと受け取っていた。
「それにしても桂山さんが思ったよりお元気な様子でほっとしました、もちろん経験の無いご苦労があったことはお察ししますが」
「ご心配をおかけしました、周りが比較的好意的なんです……有り難いことです」
「時代が変わりましたね、少なくとも直接的に揶揄されたり侮辱されたりすることは減ったと思います」
社長は言って、ふと遠い目になった。暁斗はコーヒーカップを、今度は静かに皿に戻して、彼の言葉を待つ。
「うちの社員が冤罪で追いかけ回されたあの時……私が一番に考えたのは自分が同性愛者であることがバレないかどうかでした」
社長の気持ちは痛いほどわかった。暁斗だって、何度となく同じ思いをしたからだ。
「それがなければ……彼のためにもっと積極的にしてやれたことがあったと、未だに思うんです」
それで自分を責めているとしたら、社長が気の毒だったし、それは違うと言いたかった。しかし、良い言葉が見つからない。
「そういう意味でも辛い事件でした、もちろんうちの社員が一番きつい思いをしたのですから、これは私の愚痴だと考えてください」
同性愛者が奇異な目で見られない世の中になればいいのに。心からそう思う。
その後社長と今後のスケジュールを確認して、暁斗は会社を辞した。また来てくださいねと言って、社長と事務員が見送ってくれた。その言葉にこれまで以上に親しみがこもっているように感じられた。風は少し冷たかったが、心の中はポッと暖まるような気がした。
直帰すると言って会社を出て来たので、予定通り帰路につく。夕焼けのオレンジがほとんど残っていない空を見て、日が落ちるのが早くなったなと思った。
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