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11月 3‐①
他人のために自分が在るのではなく、自分のために自分が在る。――師からそう言われて、その時は意味がよく分からなかった奏人だが、今は少し分かるような気がする。
スマホを充電するのを忘れたと言って暁斗が寝室を出て行った隙に、着ているものを全部脱いで布団を肩まで被る。奏人はその僅かな時間、洗いたてのシーツの感触を背中に心地良く感じながら、花婿を待つ処女のようにどきどきしていた。暁斗は冷えた空気とともにベッドに入ってくると、驚いてえっ、と声を立てたが、すぐに奏人を腕の中に抱いてくれる。奏人の心臓が高鳴っていることに気づいたのか、暁斗はしばらくそのままじっとしていた。
あと21人。奏人は考える。ディレット・マルティールを辞めるまでちょうど1ヶ月だった。その日までに会って挨拶をする予定の客が21人、のべ24回の指名。ほぼ1日1人のペースなので、少しほっとする。その中には今暁斗がしてくれているように、自分を抱きしめたがる客もいるだろう。もちろん奏人は客にそうさせてやる。でもたぶん、こんなに嬉しくないし、どきどきしないと思う。
奏人の嗅覚は、シャンプーやボディソープの匂いの中に混じる、暁斗の肌の匂いを捉える。人は遺伝子配列が似ていない相手の匂いを好ましく感じるという。それはより健康な子孫を残すための本能に起因するのだろうが、子孫を残す関係でなくても好ましく感じるのは、一体どういう仕組みなのだろう。
暁斗に抱かれるのは、気持ちいい。最近寒くなってきたから余計に、陽だまりにいる時のようだと思う。やがて暁斗は、ややぎこちなく遠慮気味に、頬に唇を押しつけてきた。奏人は嬉しくて身体を少し縮ませる。その唇が優しく自分の唇を包み込めば、奏人の体温が一気に上昇する。少し顎の力を緩めて、彼の熱い舌を受け入れると、彼のなかなか目覚めない情熱に引火するのを、奏人は知っている。奏人にとっても、舌を絡める口づけは特別で、客にはほとんど許したことがない。その行為と、それがもたらす快感にしばらく夢中になった。
唇が離れると、暁斗は大きな手で奏人の頬を包み、暗い部屋の中で奏人がどんな顔をしているのか、目を凝らしていた。明かりがついていたら、きっと恥ずかしくなって視線を外してしまうところだ。
「奏人さん」
「はい」
「俺がしていいの?」
暁斗は律儀に確認してきた。9月にホテルで奏人をいかせる時間が無かったことや、先月キスだけでほぼ昇りつめてしまったことを気にしているようだ。2ヶ月前は、興奮が収まるまで触れていてくれたのがとても嬉しくて、十分満足できたのに。
「うん、して」
こう答えるのには未だに小さな決心がいることも、きっと暁斗には想像がつかないのだろうと思う。奏人たちは客に対し、自分にこうして欲しいと時間内に一切要求しない。自分たちは相手を喜ばせるためだけに存在し、それに対する報酬を得ているからだ。そして奏人は、客とスタッフとして以外の経験が、極めて少なかった。西澤とも(今思えば西澤とはじゃれあいのようなことしかしなかった)、ヴォルフとも、相手のなすがままだったし、それで満足だった。暁斗とも、きっと彼のしたいことを何でも許せるだろうし、そうしてくれてちっとも構わないのだが。
暁斗は丁寧に奏人の耳や首に口づけていく。彼の右手は首を撫で、肩に触れて、肋骨を包むようにして乳首を捉える。親指の腹で軽く撫でられると、首筋を伝わる舌の感触と連動して、奏人の背筋に優しい電流を与えてくる。最初は我慢したが、そのうち呼吸が乱れ、息が上がるたびに声帯が震えてしまう。暁斗が気を良くして、より熱心に愛撫してくるのが愛おしいし、気持ち良くてもっと、とつい口にしてしまう。
「もっと……どうして欲しいの?」
暁斗は優しく尋ねてきた。奏人の求めることなら何でもしたいと言わんばかりの様子である。
「あ、えっと……やめないで」
奏人は謙虚に要求して、暁斗に強く抱きしめられる。可愛い、と彼はひとりごちた。奏人もその広い背中にしがみつき、温もりを堪能する。脱がさないと脱いでくれないかな、と頭の片隅で思った。
暁斗は首筋から下に唇を押しつけてきた。鎖骨の次に、すっかり敏感になった乳首に熱いものが触れ、身体が勝手にのけぞってしまう。舌を使った丁寧な愛撫に、全ての神経が集中して、声が洩れるのを抑制できなくなった。
「暁斗さん……気持ちいい……」
暁斗は何も言わずに、しかしより熱心に、唇をさらに下に這わせる。脇腹までくると、奏人はふと脳内を霞ませていた快感の霧から、意識を立ち上げた。暁斗のしようとしていることがわかったからだ。
「暁斗さん、それ以上はだめ……」
口にしてから少し後悔する。夢中で口づけをしてくれている暁斗の情熱に、水を差すことになるからだ。
「だめ? ……奏人さんがいいと言ってくれそうなことを全てやってみたい」
暁斗は顔を上げて、セックスの場面らしからぬはっきりした口調で言った。奏人の胸がきゅっとなり、その甘い余韻がじわりと全身に広がる。分かった、と言いそうになったが、ここは理性が勝利した。
「気持ちはすごく嬉しいんだけど……その、何というか、すごく恥ずかしいからだめ」
言って奏人は噴飯ものだと思う。躊躇なく口で客の男性器を愛撫する自分が、そうされたら恥ずかしいだなんて。小さく笑う声が聞こえて、それはそれで赤面した……暁斗に自分の顔は良く見えていないだろうが。
「奏人さん、俺……」
暁斗は身体を這い上がらせてきて、こつんと熱い額を奏人の額につけた。奏人が彼の頬に触れると、そこも随分熱かった。こんなに自分を欲して、身体を火照らせてくれている。奏人は言葉を待つが、暁斗はなかなか口を開かない。
「どうしたの?」
「……あなたが愛おし過ぎて頭がおかしくなりそう」
言い終わるなり、暁斗は唇を重ねてきた。
「恥ずかしいのか……」
唇が離れるや否や耳許で囁かれて、奏人は穴があれば入りたい気分だった。
「……ごめんなさい、この間から矛盾だらけだね」
「いいよ、いつかさせてくれると思って楽しみに取っておく」
俺の可愛いひと、と暁斗は小さく言って愛撫を再開する。そんな風に言われることには慣れていないので、どう応じたらいいのか分からない。熱くなっていた股間のものに触れられて、思わず腰を浮かせた。優しくて熱のこもった手。こんなに良くしてもらうことさえ、申し訳ない。そう、暁斗に自分は相応しくない。後ろ暗いものを胸にいっぱい抱え、最後の最後にいつも自分を許している、図々しい自分……僕に振り回されて、いつか暁斗さんは疲れ果てるだろう。最近あまりそんな風には考えなくなったが、やはりそう思えて仕方がない時がある。
でも今日も沢山嬉しいことがあった。突き上げてくる優しく熱い痺れに身を任せながら、それを一つずつ挙げてみる。銭湯で番台のお母さんに、コーヒー牛乳を頼みながら、暁斗が自分のことを恋人ですから、と言ってくれた(まあ彼女は冗談だと思っているだろうが)。用意した寄せ鍋を、殊の外喜んでくれた。佐々木啓子の書いたものを、いち早く見せてくれようとした……いつの間に彼女とそんな信頼関係を築いたのだろう、やはり不思議な人だ。そう、あの記事。先生がご覧になったら、きっと――。
そこで思索が断ち切られた。暁斗の手に力が入ったからだ。奏人は喘いだ。
「あ、……暁斗さん、もう……」
奏人は常に頭で身体をコントロールしている傾向があるが、この時は身体の欲求に脳内が振り回された。暁斗も少し驚いたようだったが、奏人の背に腕を回して、いつでもいいと伝えるように抱きしめてくれる。
先生。奏人は亡き師に呼びかける。僕のために僕は在りたい、でも同時にこの人のために僕は在りたい。……僕はこの人の光になります。それでいいんですよね?
「いいよ、奏人さん、我慢してるの?」
暁斗の声が右の耳から流れ込んで来た。その瞬間、肺から競り上がってきた空気の量があまりに多くて、叫んでしまいそうになる。辛うじて手繰り寄せた僅かな理性で選択した行動に、暁斗が痛っ、と小さく呻いた。奏人は謝ることができなかった。五感の全てがハレーションを起こしてしまったからだった。
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